第71話:酒は飲んでも呑まれるな

 卓球選手の平均引退年齢は三十歳と言われている。これは世の中に存在するスポーツの中で特筆して短いものではなく、数字としては平均的なものであると言える。引退の理由は様々だが、二十代後半から訪れる身体能力の衰えは理由として大きいかもしれない。技術や経験で補える選手もいるが、すべての選手がそうできるとは限らないし、どちらにせよその部分が劣化していくのは事実である。

 そしてもう一つ、見逃されがちな理由もある。

 それは卓球が競技の性質も相まって、若い才能を拾いやすくなっている、その才能がかなり早い段階から上で戦える、と言う構造にある。

 大きな大会、実業団、プロチーム、大学、あらゆるところで言えるが、物事には枠と言うものがある。この大会は何人まで出ることが出来る。この企業で雇えるのは何人、チームで何人、大学で、高校で、中学で――

 十代半ばからプロ入り出来る土壌がある世界。

 そういう若い才能が枠を奪えば、必然的に零れ落ちてしまう者も出る。

 それは世の常であり、卓球に限ったことではないが。


     ○


「加賀ァ」

「先輩、飲み過ぎですよ」

 金沢某所の飲み屋で、べろべろに酔っぱらう質の悪い大人がいた。

「これが飲まずにいられるかぁ!」

 周りの白い目もお構いなし、女はグラスをすぐさま空にして、おかわりを所望する。そしてまた一気飲み、最悪の飲み方である。

「加賀、この野郎、二十六で引退しやがって早漏がぁ」

「まだ一応大会は出てますけどね、ちょくちょく」

「知らん」

「そりゃまあ、先輩ほど活躍してないですからね、自分は」

「私が活躍? ふえっへっへっへ、へそで茶が沸くね。クビを切られた先輩を慰めようなんざ千年早ァい。もうだめだ、おしまいだぁ。東尋坊いくぅ」

「あそこ今はもうただの観光地ですよ」

「おしまいだぁ」

 おかわりが来る間、目を回しながら女は机に突っ伏す。

「私がどれだけチームに貢献してきたと思ってんのよ。そりゃあ勝てなくなった私が悪い。んなこたぁ、私が一番よくわかってる。でもねえ、高卒すぐ就職して、そこで十年以上やってきた。それなのにさぁ、コーチかクビか、選べと来た」

「コーチって選択肢があるだけマシでしょうに。ってか、クビというか先輩は自主退職でしょ? そう先輩本人から聞きましたけど」

「毛も生え揃ってねえ時から、こちとら卓球しかやってねえ! 今更うちじゃ選手は無理だって、そりゃあクビと同じでしょうがァ!」

「全然違いますよ。コーチの打診もあって、会社にも残ることが出来て、考え得る限り最高の『あがり』だったじゃないですか」

「ひっひ、『あがり』ねえ。そうだねえ、代表にかすりもしなかった私如き選手にこれだけの花道を用意してくれた。いい会社だったぁ。いいチームだったぁ」

「……」

「でも、選手じゃない自分が、想像できないんだよ。わかれよ、加賀ぁ」

「……先輩」

 飲むだけ飲み、叫ぶだけ叫び散らかし、そのまま机の上で意識を途絶、入眠した女性を見て、加賀昌磨は表情を曇らせる。

「……わかりますよ、そりゃあね」

 小中高、高校から直で実業団、プロチーム、大学経由で、どちらにせよ選手である間はただひたすらに卓球のみに打ち込んできたのが選手と言う人種。

 先輩後輩の絡みで人に教えたりすることはあれど、基本的には自らの向上のためだけに生きてきた。それを突然教える側に回ってほしいと言われたのだ。

 戸惑う。苦悩する。何よりも、選手失格の烙印がきつい。

 教える側に回っても卓球を続けることはできる。アマチュアとして全日本に出場、一回か二回勝って、ナイスファイト。そういう道もある。

 それだって卓球競技者の中では超上澄み。

 だけど、

「あンのクソガキども。勝って、当たり前みたいな、面しやがって」

「……大人げないなぁ」

 頂点には戻れない。其処を目指す権利は建前上残るが、やはり失われてしまうのだ。選手であった時も、それがあったかどうかは微妙なところだが。

 それでも戦える自信は、同じ地平に立つ自負は、あったから。


     ○


「外部コーチ? 湊君は?」

「かくかくしかじかで」

 久方ぶりに皆そろって、と言うか秋良も含めた女子全員でのクラブは初めて。早速、秋良やほかの面々は鬼のように強い小中学生と打ち合っていた。

 そんな中、部長の沙紀だけはコーチの加賀に経緯を説明し、

「と言うわけなんですよ」

 外部コーチの心当たりについて問う。

「なるほどなぁ。ふぅむ。何人か思い当たる人はいるけれど」

「本当ですか!?」

「うん、まあ。実際に公立校で教えている人もいるよ、ここに通っている人で」

「お、おお!」

 何とかなりそうな気配に沙紀は喜ぶ。持つべきものはコネ、ここに通わせてくれてありがとうお爺ちゃん、と感謝する沙紀をよそに――

(外部コーチ、かぁ)

 加賀の中では一番ありえない選択肢がふわふわと浮かんでいた。あの人が受けるとは思えない。そもそも人に教えた経験もない。

 ただ、

(卓球という競技への造詣、この一点だけは……)

 戦いの経験値だけで言えば、このクラブどころか全国でもトップクラスである。とは言え、彼女たちには少しオーバースペックか。

 最近は加賀のシフトに彼女たちが被らず、久しく実力の方は見られていないが。

(あの新しい子、随分と上手いな。いや、上手過ぎないか?)

 佐久間姉妹のじゃない方、改め明菱卓球部が誇る『王子』円城寺秋良。くじ運だけではない。勝負を意識するとたまにヘタレるが、卓球の内容に集中している時の技術的な部分は全国屈指。以前は半端で足枷だったこだわりも、開き直ってこだわりに殉じることで、逆にいいアクセントになっていた。

 正攻法だけが、最善手だけが、効率だけが強さに結び付くわけではないのだ。

「あの子は?」

「夏休み直前に加入したうちの新戦力です」

「これはたまげたね。じゃあ、今は彼女がエースだ」

「いえ。明菱のエースは……あっちです」

 沙紀が指さした方に、

「わんわんわーん!」

「ひぐ、ひぐ」

 小中学生を次々と血祭り(比喩)にあげ、なぎ倒していく香月小春の姿があった。とにかく一ゲームが速い。神速の卓球は相手にターンを与えないのだ。

 結果、みるみるとちびっこたちが涙を流す。

「……うっそぉ」

 夏前は一回勝てたら御の字、光る部分はあるがまだまだ、と言う印象であった。実際に調子の好不調でかなりムラはある。

 それでも、調子のいい時はここまでやれるのだ。

「ちょっと見ないうちに……とんでもない成長速度だ」

 小春は夏合宿後、秋良を除く部員の中で唯一、クラブに顔を出していなかった。彼女の中でここはもう、越えた場所と言う認識であったのだ。

 すでに彼女の天井は、視線はここにない。

「紅子谷さんは、うん、順当に上手くなっているけど、少し差が開いてしまったかな? もちろん充分な成長速度では――」

「花音も凄いですよ。小春の方が勝率は高いですけど、あの二人は結構実力的には肉薄していますし。ただ、子ども相手だと本気で打てないだけで」

「……へ?」

「青森田中のレギュラーに勝った女ですから」

「あおも、うそ、へ? 卓球始めて半年ぐらいの子が?」

 高校卓球界のブランド、青森田中。強豪校のエース、みたいな子しかあそこにはいない。龍星館も含めて、超名門とはそういうもの。

 野球で言えばエースで四番、地元じゃ負け知らず。

 そんな子どもの集まりである。

(あの新しい子はわかる。間違いなく経験者だ。丁寧で好感の持てるプレーは一朝一夕じゃ身につかない。神崎さんも一番顔を出しているし、しっかりと上達していることは知っている。しかし、あの子たち二人は――)

 明らかに異常な成長速度。加賀はそれなりにこの業界に精通しているが、彼の知る限りここまでの爆発的な成長と言うものはなかった。

 まだ粗い。足りない部分は多い。

 それでも、

「……神崎さん」

「何ですか?」

「一人、その、少し癖のある人なんだけど……卓球が馬鹿上手い人がいてね。人に教えた経験はあまりない人なんだけど、コーチにどうかな?」

 何故かあの人をぶつけてみたくなった。普通に教えるのが上手い人よりも、そちらの方が良い気がしたのだ。

「むしろ喜んで! 加賀さんの紹介なら信頼できますし」

「あの、その、癖のある人だよ」

「平気ですよ。うちの連中も癖しかないので」

「そ、そう?」

 加賀の苦笑い、その理由を――


     ○


「ういー……頭いたぁ」

「……」

 初対面で知る。

 明らかに二日酔い、すでに日は頂点を周り、夕方であるのに寝起き同然の寝ぐせや、よれよれのジャージ。履き古した卓球シューズだけが、彼女が卓球人である証明となる。それ以外はもう、単なるダメ人間にしか見えなかった。

「クソ、加賀のやつ。飲み代返せとか、金のないニートに無茶言うんじゃないっての。つうか、かわゆい女子だぞ、私はぁ。奢れよ、そこはァ」

 独り言も治安が悪い。

 明菱の面々、その頭の中に浮かぶのは――

「チェンジ」

 ただ一つ。

 でも言えない。言ったら怖そうだから。

 酔っ払いに道理は通じない。夜道に襲われる危険性もある。

「あ、あの、あなたが加賀さんの」

「ん、あー、そうそう。加賀の先輩、石山百合。ニートでぇす」

「……に、ニート」

「そ、定職についていない大人ね。今は実家でこどおばしてまぁす。で、なんだっけ? 卓球? したら飲み代チャラにしてくれるっていうから来た感じ」

「……あの、外部コーチのお話は」

「何それ? あれ、なんか、言ってたよーな、言ってなかったような」

「……あ、あはは」

 話が違う、と言いたいところではあるが、正直沙紀の中ではチェンジ一択、このまま穏便にお帰り願いたい、と言うのが本音であるため。

「先に言っとくけど人に教えるとか向いてないし、その辺期待しないでね。と言うか公立校にコーチなんて要るの? 同地区に龍星館もいるのに?」

 団体として全国の舞台に赴けるのは一校のみ。そしてそれはこの地区ならば龍星館ただ一校、と卓球関係者なら誰もがそう思う。

 だから、

「思い出作りに付き合うほど、お姉さん暇じゃないのよねえ」

 彼女は無駄だと断じ、辛辣極まる発言をする。

「ねえねえ、沙紀ちゃん」

「沙紀部長、ね」

「このおばさんほっといて早く練習しよ」

「おば!?」

 小春の痛烈なカウンターで、御年三十歳の百合は顔を歪めた。

「あの、とりあえず思い出作りかどうかは……練習見て判断してください」

 思い出作り、そう言われては沙紀も黙っていられない。自分は確かに未熟で才能はないかもしれない。それでも後輩三人はそこ止まりだとは思わない。

 龍星館にだって手が届く。

 自分は良い。でも、他は許せない。

(……ったく、このご時世三十でおばさんはあり得ないっての。無礼なガキどもめ。なんかやる気みたいだけどさぁ……この環境選んだ子たちでしょ?)

 百合はため息をつき、寝ぐせまみれの髪をかく。

「その時点でやる気がねえのよ。勝つ気もね」

 強くなるための環境を選ばなかった。

 その時点で彼女視点からすると、その時点で見るに値しない、知るに値しないと考えてしまう。環境は人を形成するから。

「……石山、百合。あれ?」

 その名に引っ掛かりを覚えたのは、今のところ秋良だけである。

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