第2話:不知火湊

 何日か仮の部員として練習するも、全然練習に身が入らなかった。たぶん、あの光景のせい。たった一人でサーブを打ち、終わったら黙々と壁打ち。跳ね返ってくるように調整しなければいけないから、打ち切れていない。

 あんな変な回転、実戦じゃありえない。つまり、何の練習にもならない。

 それをずっと一人、この前は唖然としていたけど、今は何故だろう、無性に腹が立ってくる。我ながらなんと酷い考え方だろうか。

 あの人は何も悪いことなどしていないのに。

 そんなことを思っていると――

「あの、すいません。卓球部の先輩」

「あ、なんですか?」

「いや、その無意味な練習やめてもらっていいですかね。最初は嗤えたんですけど、今は一周回ってウザくなっちゃって」

「え?」

 まるで僕の負の感情を代弁するかのように、バドミントン部の男が卓球部の先輩に声をかける。たしか彼は同じ学年で、結構期待されている奴だった気がする。

 名前は覚えてないけど。

「その一角あったらうち、もう一面作れるんですわ。俺はともかく打たせてもらってないやつも結構いるんで、明け渡してほしいんですけど」

「で、でも、うちも正式な部で」

「ずっとお一人ですし、いずれ潰れる部活ですよね。なら、さっさと明け渡してくださいよ。なんか俺、変なこと言ってますか?」

「おい、田上、そこまでにしとけ」

「嫌ですよ、先輩。つーか俺より下手くそなんですから黙ってくれませんか」

「ッ⁉」

 田上、そう言う名前なのか。言い方はともかく、言っていること自体は間違っていない。体育館と言う限られたスペース、大所帯を必死にやりくりしている部活にとって、あの光景を温かな眼で見られる者は、多くないはず。

「じゃあ先輩、そっちの土俵で、卓球で勝負しましょうよ。俺が負けたら土下座しますんで、そっちが負けたら明け渡してください。いいですよね?」

「そ、それは、その」

「いいですよね」

「は、はい」

 押しに弱い人だな、と思いながら僕は様子を見ていた。


     ○


 これは、酷い。あまりにも一方的な試合展開だった。通常、卓球と言う競技は経験者、未経験者との間に巨大な差が生まれる競技である。どの競技でもそうだが、卓球は特にそれが大きいスポーツと言えるだろう。

 経験者相手に未経験者が勝つことは、まずありえない。

 そう、負けるはずがないのだ。相手が、未経験者であれば。

「うわぁ、ひでーな卓球部」

「悲惨過ぎて見てらんねーよ」

 ラブゲーム、片方が一点も取れない蹂躙劇をそう呼ぶ。勝っているのは田上、彼は間違いなく経験者であり、かなりしっかりした経験を積んでいる。多少、戦い方は古臭いが、基本的な部分で穴がない良い卓球をする。

 対するは温泉卓球、端から勝負になっていない。

「バド部でも勝てちゃうんだし、やっぱ要らないだろ、卓球部なんて」

「まあ、練習できる場所が広がるならありがたいよな」

「しっかし、弱いよなぁ。毎日何してたんだろ」

 心無い声、これも仕方がない。スポーツは結果を出してナンボ。

 いくら経験者が相手でも今はバドミントン部に所属し、長く卓球に触れていない相手にラブゲームでは――

「……なんで見え見えのナックルボールをツッつくんだよ、下手くそ」

 存在価値など無い。僕の価値観でも消えていい。あんなものを卓球とは言わない。

「卓球ってさ、ショボいし、ダサいし、マジで終わってね」

 だから、あんなもの、卓球じゃないんだよ!


     ○


 この学校唯一の卓球部員、佐村光は悔しげに俯く。何一つ通じない。この前『みんな』と出た大会の時に感じた絶望的な差と同じ。勝てる気がしない。

 勝てるビジョンが見えない。

「はーい、テンラブ。マジ弱いっすね、先輩。いくら何でも酷過ぎでしょ」

「…………」

 何も言えない。ずっと一人で練習してきたけれど、もう――

「それ、貸してください」

 俯いている佐村の前に、一人の男の子が現れた。平凡な顔つきの男の子。ただ、その眼は死んだ魚のように光を放つことなく、どす黒く濁っている。

「おい、お前、あー、誰だっけ。ド下手くその、あー、名前だけはかっけー不知火君だ。眼鏡外してるからわかんなかったわ。その眼なに? 今さー、バド部のために頑張ってんだけど」

「下手くそはテメーだろ」

「は?」

 佐村のラケットを奪い取り、不知火湊が構えた。

 それを見て、田上の顔から笑みが消える。

「十点はハンデだ。クソみたいな卓球見せてくれたお礼に――」

 死んだ魚のような眼が、鋭くなった。

「本物の卓球を教えてやる」

 平凡な顔つき、体形の少年から、平凡ではない何かが、零れ出す。


     ○


 がぎん、ピンポン玉から発生したとは思えない音が、体育館に響き渡る。

「……て、めえ」

 あっさりと二点連取した湊のサーブは、美しいフォームから放たれる純下回転であった。素人手入れの使い倒したラバーでここまで回転をかけるのか、と田上は歯噛みする。ツッツくしかなく、少しでも甘いコース、高さにいくと――

 がぎん、と強烈なドライブが田上の横を通過する。速く、鋭く、それでいてきっちりと厳しいコースを射貫いているのだ。

「な、どうなってんだよ」

「不知火って、運動神経なかったよな、全然シャトル打ててなかったし」

 突如現れた不知火湊という異質に、体育館がざわついていた。バドミントン部はもとより、上の階で活動している部も何事か、と階下の彼らを見つめていた。

「……馬鹿な」

 田上は、今でこそバドミントンに情熱を注いでいるが、かつて卓球少年であった。地区はもちろん、県でも相当上位に行ったことがある。

 この辺りでは負けなし、いくらブランクがあろうとも、同世代でこの学区に通うような生徒如き、例え経験者でも負ける気はない。

「……お前、どこで卓球をやっていた? この辺じゃねえだろ」

「試合中にそんなこと考えている余裕があるのか?」

 冷たい眼。相手を見ていない、相手にされていない、この眼には田上にも見覚えがあった。だが、あの男がこんな場所にいるはずがない。ここには男子卓球部が無いのだ。あったとしても強豪校以外にいるはずがない。いてはならない。

 だが――

「ウラァ!」

「疾ッ」

 決めに行ったドライブに合わせた、閃光のようなカウンター。忘れもしない。自分が大好きだった卓球を諦めさせられた張本人。この男が同じ県にいるから、一生勝てないと思ったから、別の道を模索したのに、なんでここに、こいつがいる。

「……佐伯、湊ォ」

 小学生の時、刻み込まれたトラウマと目の前の男が被った。

「知ってるのか。まあ、今はただの不知火湊だよ」

 何故ずっと気づかなかった。当時していなかった眼鏡、雰囲気、いや、そもそも気づけるわけがなかった。こんなところに彼がいるはずないのだ。

 天才、神童、閃光のカウンターを使う前陣の申し子。数多の大会を優勝し、五輪をも期待されていた怪物。

 中学二年の夏、突如現れた同型の天才に敗れ去るまで、世代最強だった男。

 不知火湊、旧姓佐伯。

 十点のハンデが、見る見る溶けていく。誰もが呆然とそれを見ていた。田上がそれなりに上手いことぐらい、それなりにスポーツをかじったものならばわかる。田上は強いのだ。それこそ一般的な卓球部員と比較しても強い。

 だからこそこんな勝負を吹っ掛けられた。

 ならばその、田上を赤子のように捻るこの男はいったい何者なのだ。

「不知火、湊」

 上の階にて二人の女生徒を引きずる女性は鋭い視線を向けていた。引きずられている二人もまた、驚いたような眼で彼の動きを注視している。

 視線が、集う。目が、離せない。

「おいおい、俺の同級生、どうなってんだよ」

 女性専門を自称するカメラ小僧、もとい湊のクラスメイトは苦笑しながら、不知火湊をファインダーに収める。引き寄せる力があるのだ。

 立ち居振る舞いに、身体の端々に。

 ジャンル問わず、一流の者のみが持つ、圧のようなものが。

「デュース」

「もう、いい。俺が、悪かった」

 ハンデの十点が消え、デュースに入ったところで田上はギブアップをした。


     〇


「これ、返します」

 コンタクトを外して、眼鏡を付けた後、僕は先輩にラケットを返しに行った。正直コンタクトは目が疲れるので好きではない。まあ、中学に入ってから悪くなったので仕方ないのだが。

 と言うか、あまりに大人げないやり取りだった。そもそも無関係の僕が関わるべきではなかった。ただ、あまりにもひどい卓球を見て苛立ってしまったのだ。

 度し難い、本当に僕は――

「す、っごい!」

 そんな僕に対して――

「こんな上手い人初めて見た! 私のおばあちゃん、よく市民会館で卓球やってて、私もそこに混ぜてもらってたんだけど、全然、君の方が上手いもん!」

 卓球部の先輩はキラキラした眼を向けてきた。

 ちょっと、こっちが引いちゃうほどの。

「あの手首ぐにってやるやつ何なの!?」

「え、と、チキータです」

「教えて教えて!」

「え、と、手首をこうやって捻って、反動で、いや、僕何やってんだ?」

「手首の反動かぁ。おばあちゃんたち全然使ってなかったなあ」

「発明した人でも1990年代ですし、当時は邪道とか言われていたらしいので。広まったのはここ十年じゃないですかね。今じゃ基礎技術ですけど」

「なるほどー。サーブも面白い動きしてたよね。私びっくりした」

「YGは――」

 僕も何故普通に受け答えしている?

 苛立ちをぶつけただけ、全然彼女のためではないのに、輝きに満ちた笑顔を向けられて、僕の眼は潰れそうになっていた。

 きっと彼女のチャームポイントは笑顔なのだろう。

 今の僕にとってはお祓いよりも強烈な何かだが。

「佐村さん、部員の補充です」

「あ、黒峰先生。おはようございます!」

「おはようございます。おや、其処にいるのはまだ部活動を決めかねている優柔不断な私の生徒ですね」

「黒峰先生、この子、すっごく卓球上手なんですよ!」

 びくり、悪寒が全身を奔った。

 そもそも顧問があの女帝なんて聞いてない。と言うか滅茶苦茶笑っている。

「ほほう。どれぐらい上手なのですか?」

「私のおばあちゃんよりもずっとずっと上手です」

「なるほど。逃げるな小僧」

 がしっと捕まえられた哀れなる僕。つい魔が差してしまっただけなのだ。ちょっとこう、見ていられなくて――

「この部活は現在、部員三名です」

「え、二名も入ってくれるんですか⁉ やったー!」

「全員が初心者です」

 初心者? 高校生から卓球は遅くないか?

「先ほど捕獲して連れてきました。御覧ください」

 恍惚の笑みを浮かべて引き摺られている女子と憤怒の表情でボロ雑巾と化したヤンキー女が現れる。もはや疑う余地はない。校内暴力の現場である。

「愛の鞭です」

 先生、体罰は許されないと思います。

「あ、変態カルテットじゃねえか」

「誰が変態カルテットだ!」

 心外極まる仇名をつけられている事実にむせび泣きそうになる僕。

「彼女たちを貴方が育てなさい。ここは卓球部です。女子の看板は本日外します」

「ま、待ってください。僕、卓球なんてするつもりはありません!」

「それ、私に関係ありますか?」

 いや、部活動なんだから僕の意思が一番大事なんじゃ。

「ちなみに私、空手剣道柔道それぞれ段持ちですので」

「……入ります」

 そもそもあのヤンキー女を力で屈服させている時点で、僕に抵抗の意思はなかった。だって強過ぎるんだもん。どう見たって怪物みたいな女子をボロ雑巾にしているんだぞ。僕なら逆にボロ雑巾にされる自信があるのに。

「男子部員一名追加。およびコーチの確保。よかったですね、佐村さん」

「はい!」

 とても晴れやかで嬉しそうな笑顔を見ると、僕は何とも言えない気持ちになってしまう。まあどうせ、バドミントン部には戻れないだろうし、行く当てもない。

 と言うか、女帝が怖すぎる。

 選手に戻るわけじゃないし、決してその気はない。

 でも、まあ、教えるくらいなら――

「一緒に頑張ろう! え、と」

「あ、一年の不知火湊です」

「湊君! 私、三年の佐村光です。これからよろしくね!」

「あ、はい」

 女子と手ェ、繋いだ。俺、人生初じゃないか!? 試合前の握手ぐらいだもん。運動会のオクラホマミキサーは数余りで先生とだったし。

 決して、可愛い先輩に篭絡されたわけではないのだ。

「けっ、へなちょこ眼鏡が。つーかあいつどこ行ったんだよ、殺気むんむんのやつ。ダサい眼鏡しかいねえじゃねえか」

 なんかヤンキー女が言っているが気にしない。

 だって僕にはこんなかわいい先輩がいるんだもん!

 我ながら、ちょろい男である。


     〇


 僕は押し入れの奥にしまっていた卓球用具を取り出した。

 もう使うことはない、としまってから随分と早い出番である。自分の覚悟の薄っぺらさに呆れながら、それでも僕は手になじむそれを見て微笑んだ。

 こいつに罪はない。

 罪深いのは、弱い僕だったのだから。

 軽く球を打ってみる。しばらく放置していたが、それでも打感は今日のあれとは雲泥の差。先輩の用具も替えさせないといけないなあ、とぼんやりしていると。

「湊」

 窓の外から声が聞こえてきた。

 僕はため息をついて窓を開ける。其処にはお隣さんの――

「卓球」

「ボールを小突いただけだよ」

 卓球馬鹿がいた。名を星宮那由多、同学年。卓球の名門、僕の学校とは正反対の場所に電車を使って通う十五歳である。ちなみに世界ランク三十五位、卓球界若きホープとして、また僕はそう思ったことはないが美人アスリートとしても有名。

「再開したんだ」

「してないよ。ただピンポン玉を小突いただけ」

「時間の問題」

「うるさい。お前はどうなんだよ、先輩に虐められてないか?」

「実力主義、私より強い女子は一人しかいない」

「ああ、有栖川さんか。男子ともやり合えるもんな、彼女くらいだと」

「いつか勝つ」

「前向きだな。僕にはもう分からない世界だけど、僕の分まで頑張ってくれ」

「……嫌だ」

「あはは、そりゃそうだな。勝手にやめたやつのことなんて背負う義理ないもんな。頑張れよ、応援してる。お前ならきっと勝てるよ」

「違う、そういう意味じゃ――」

 僕は窓を閉める。昔は四六時中話していても疲れなかった。今はもう、ほんの少し話しただけで疲れてしまう。僕は彼女と同じステージにはいない。目を合わせて話すには視点が違い過ぎるのだ。彼女は世界を見据え、僕は地に這いつくばる。

「湊、待ってるから」

 窓の外から聞こえるのは呪詛だ。

「早く行けよ。さっさと僕の前から、消えてくれ」

 呟いたのは身勝手な言葉である。消えるべきは僕なのだ。

 今更、こんなものにしがみ付いて何の意味があるというんだ。

 本当に僕は、どうしようもない馬鹿だ。


     ○


 今日はとても嬉しいことがあったんだ。

 念願の女子部員が二人、それと男の子が一人。とっても上手い子で、下手くその私から見てもすっごくて、私とは違う戦う目をしていた。

 びっくりしたけど、私にはない熱量がちょっとだけ格好良かった。

 こんなにも明日が楽しいのはいつぶりだろう?

 沙紀ちゃんが来てくれた時以来かなぁ。あの時も楽しかったなぁ。

 また一緒に、って、それはエゴだよね。ごめんね、沙紀ちゃん。

 嗚呼、明日はどんな日になるのかなぁ? とっても楽しみ。

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