206-数式の乙女と今の僕

「ありがとう、カントリス」


 幻か、それとも幻聴か。


 リチウム・フォン・タングステン侯爵令嬢。

 僕の婚約者で、永遠の憧れの人。数式の乙女。


 そんな彼女が、最愛の姉妹、カリウム様ではなくて僕を真っ直ぐに見てくれている。

 そして、論文発表のきっかけが僕だというお礼の声が聞こえる。


 最近は昼をご持参(高位精霊獣殿がご用意された物)されてお一人で作業を続けておられる事が多い第三王子殿下に許可を頂き、残る皆で財務局の食堂で昼食を取っての帰りの事。


 僕は婚約者(一応)リチウムに

「少しだけ良いかしら」と引き留められたのだ。


 ご友人ナイカ様と姉妹のカリウム様はリチウムの手を深く握り、微笑んでいらした。


 僕は親しい友人でお二人の婚約者(こちらは一応ではない)カルサイトとイットリウムに

「「次はないからな。後悔しない様に」」と脅しか励ましか分からない言葉をもらった。

 二人に握られた手はまだ痛い。


 そして二人で予備部屋に入ったのは確かだった筈。


「え、僕、夢、いや、幻覚魔法? でも誰が?」


 まさか、第三王子殿下を狙う刺客に何かをされていたとか?


 だが、今日集まった人員の中で人物的にも地位的にも一番下の僕にその様な事をして意味はあるのか?

 まさか、僕を刺客とするつもりか?


 とにかく、覚醒魔法を。

 そうすれば真実が見える筈。


「……覚醒魔法、上手ね。綺麗な魔力。でも、私が貴男にお礼を言うのが、そんなに信じられないの? これを差し出してくれた人は、もっとしっかりと私を見てくれていたのに」


 そう言って示してくれた物は、ああ、あの赤い手帳。


「さすがに鉛筆は交換しているけれどね。もしも中身を使い切ってしまったら他の手帳にこの表紙を付けてまた使うつもりよ。この手帳は、私の数字達、数式を最初に褒めて下さった人からの、大切な贈り物ですもの」


 ああ、僕という奴は。


 何という愚か者だったのだろう。


 リチウムが言った大切にしてほしい女性達とはやはり、皆が呆れながら忠告してくれた通り、ご家族の事だったのだ。


 二人のお母君と、愛する姉妹カリウム様と、そしてリチウム。


 勿論他の女性達にも優しく。

 ただそれは貴族階級として、人として当たり前の事。


「ごめん、ごめんなさい、リチウム。僕は君を一番大切に思っていた。そして、今も思っている。もう二度と他の女性達と一緒に出掛けたりはしない。貴女が大好きです、リチウム・フォン・タングステン。だからどうか、これで婚約はおしまい、とだけは言わないで下さい」


 僕は懇願しながらもやはり大切な組紐に触れてしまう。


 やっぱり、僕は弱い人間なのだ。情けない。


「……カントリス、貴男のその組紐、まさか」


 ああ、リチウムは気付いてしまった。


 それはそうだ。

 彼女に貰った組紐にすがる僕。

 情けないと思われて当然だ。


「……はい、そうです。これは貴女に頂いた物。勿論清浄魔法はこまめに掛けているけれど、他の女性との外出で外すように言われても、何度他の髪飾りを贈られようとされても、それは、それだけは一切応じませんでした。それから、多少手袋越しに手を差し出す事だけはありましたが、手紙も花も何もかも、貴女以外には家族にしか渡してはおりませんし、受け取ってもいません。詩、は……。不得手なので貴女にも贈っていませんが、ご所望でしたら努力いたします。及ばずながら、今申し上げました全てが真実である事、僕、カントリス・フォン・マンガンは数字と数式に誓います!」


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。


 しつこい、うざいと思われただろうか。


 でも。


 素敵なリチウム


 あの断罪のダンスパーティー。


 ご聡明でお美しい筆頭公爵令嬢様以上に、誰よりもリチウム、僕は君に見とれていた。


 君をエスコートするのは僕だけの役目ならば良いのにと分不相応にも思っていた。


 そう、僕は貴女を思っています、心から。


「……あの時、美しい数字の羅列を見た時から、貴女は僕の数式の乙女であられました。しつこいという事も理解しています、でも、どうか」


 つくづく、自分が情けない。


 でも、リチウムの婚約者でいられなくなる事に比べたら。


「二度と他の女性達のお誘いを受けては嫌よ。貴男のご親族と私の家族と私の友人達以外は。あ、セレン-コバルトはもうカリウムと仲良しになったから私にとっても大切な友人よ。だから良いわ。覚えておいてね。そうね、本当に貴族階級として必要な時には貴男のご家族か私に必ず相談する事。良いわね? あと、詩は良い考えね。の詩を下さる?」


「……は、はい、誓います!」


 僕の名前はカントリス・フォン・マンガン。


 今日この日、僕は全ての数字と数式に心からの感謝を捧げたのだった。


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