第65話 恋の味
「みそのさん……」
「ん? どしたの、ここね」
「なんというか……えと、あの」
「うん?」
「…………いえ、やっぱりなんでもありません」
社内への書類配布が終わった、ちょっと遅い昼休み。
みそのさんと待ち合わせした四階の非常階段の近く。
暖房が程よく効いていて、でも、あまり人がいないそんな隠れ家みたいな休憩所。
そこにあるベンチに二人で腰かけて、私はうまく言葉を紡げないでいた。
「どしたん? なんか仕事でしんどいことでもあった?」
「いえ……えと、大丈……夫です。はい」
「あんまり、大丈夫な返答に聞こえないんだけど?」
「えと、はい、でも大丈夫、です」
小さなベンチに二人で揃って腰かけて、菓子パンとカフェオレを啜っている昼下がり。
みそのさんは、ふんむと首を傾げた後、まだ疑問を抱えたような横目で私のことを眺めていた。
いや、仕事で色々とあったのは本当だけど。
なんというか、ええと、あの、あれなのだ。
それどころじゃないのですよ。
「また、体調悪い? 熱測る?」
「いえ、えと、それも大丈夫です……」
そう言って、みそのさんは私の顔をじっと覗き込んでくる。
多分、今測ったらそこそこな温度になっているんじゃないだろうか。
そう思うくらいには、今の私は落ちつきが無くて、心臓がどことなく不安定に脈打ち続けているのだけが感じられる。
でも、これは断じて風邪の症状じゃないんだよ。
それくらいは自覚できる。
なんでだろうか。
いや、わかってるけど。
なんでかっていったらさあ。
「どしたの、ここね?」
首を傾げるあなたを見て。
『近すぎますよ、みそのさん』
とは口が裂けても言えなかった。
いや、別におかしいことをしているわけじゃあないんだけど。
小さなベンチに、二人座っているのだから、当然、ある程度は近寄らないといけねいんだけど。
でも、でもでも、なんだかそれにしても近い気がする。
みそのさんは何気なく、私と反対の方にご飯を置いてそして何気なく、私の真横に腰を下ろしていた。肩と肩がちょうど触れ合うくらいの距離。なんなら、ちょと身じろぎしたら当たってしまうくらいの距離。
いや別に、普段から一緒に料理をしているときとか、全く身体が触れないわけではないんだけど。なんなら、一緒に暮らしているのだから、偶然に身体が触れあうこともあるわけでして。
そのたびにいちいちドキドキなんてしていない、こともないといえば……ないんだけど。
それにしても、なんだか今日は距離が近い気がしてる。
肩と肩が触れ合う距離、何をしているわけでもないけれど、確かにお互いのパーソナルスペースの内側にあなたがいる。他の人ならそこに踏み込むだけでなんとなく、不快の位置に、あなたは笑顔で陣取っている。そして、そこまでしても、私の脳みそはあなたを拒絶しない、というかなんなら喜んでしまっている。
これって自然にやってるのかな? それとも意図的?
横目で窺うけれど、あなたはむしろ、私の方を訝し気に見返してくる。
体調不良を隠してないか、怪しまれているみたいだ。
思わずため息をついたら、無言で手のひらを私の額に当てられた。
どことなくひんやりとして、柔らかい手が私の額を覆ってくる。そうすると、私の額が薄くだけどじんわりと汗をにじませる。
「やっぱりさ、熱くない?」
風邪の熱ではありません。全部全部みそのさんのせいですよ。……とは言えないわけで。
「本当に、大丈夫です」
とうつむきがちに応えることしか出来なかった。
というか、おでこなんてなかなか人に触られる機会、ないよねえ。人間の大事な顔の、しかも目の上だし、知らない人にこんなことやられたらちょっと怖い。でも、相手をよく知っていて、それが好きな人だったなら、どことなく落ち着きはしないけれど、でも安心してしまうような、そんな矛盾した感情が湧いてくる。
ああ、多分、私今、みそのさんの手以外のこと何にも考えられてない。
午後からの仕事の準備とか、自分がよくするミスのこととか。普段の昼休みだったらぐるぐるとえんえんに頭を回り続ける言葉たちが、今日に限って全部休みだ。
今、本当におでこに当てられている手の感触以外、うまく思考が回らない。
カフェオレをずびずび吸いながら、怪訝そうにのぞき込んでくるあなたから目をどうにか逸らす。顔が見て分かるほど赤くなってないといいんだけど。
「本当に大丈夫? なんかあったらすぐ相談しなよ?」
「……はぁい」
そう言うとあなたは、額から手を離してどこか心配げに私の頬をぐりぐりと人差し指で押してくる。
むしろ、今この状況を誰かに相談したいのだけど、一体、誰に相談すればいいのやら。咄嗟にまなかさんの顔が浮かんだけど、なんだかすごく微笑ましく、大爆笑されそうな気がしていた。矛盾しているけれど、多分される。なんでかそんな確信がある。
すするカフェオレが頬を指で押されることで、いささか口から漏れそうになるのだけど、あなたは構わず押してくる。漏れちゃう、と口に出したかったのだけど、その瞬間に私の口からカフェオレが噴き出てしまう。
結局、押されるがままにカフェオレを吸うしか私に道は残されてはいなかった。
どうにかようやく吸いきって、あなたを横目でちょっと見返してみる。
すると、そこにはどことなく楽し気に微笑んでいるみそのさんの顔があった。絶対、途中からわかってて押してたでしょ、みそのさん。
ちょっとだけ文句を言いたくなったけど、その笑顔を見てたら心が絆されてくるあたり、いよいよ私も末期なのかもしれない。
はあ、なんというか、こんなんで私いいのだろうか。
仕事もまともにできないのに、いっちょまえに色ボケだけはしてしまっている。みそのさんとか、まなかさんは元が立派だから、ちょっと恋や愛で突飛な行動に出るのものアクセントになると言うか、むしろ魅力が増す感じがするのだけれど。
私みたいな、何にも出来ない無能女が恋になんて溺れてしまったら、本当に何にもできないダメ人間へと成り下がってしまう気がする。うう……、私こんなんじゃダメじゃないかなあ。
『誰かを好きになる』って色眼鏡は、解っているのに外せない、ゲームの呪いの装備みたい。あなたに関わる全部が全部、輝いて見えて、凄く見えて、愛らしく見えて、あなたに貰った言葉も行為も何もかも、綺麗な宝物に見えてしまう。
それがまやかしだっていうのはわかってる。三年もたてば、きっと眼鏡の色も落ちて、元の世界に戻るのなんてわかってる。
わかってるのに、どうして今のあなたはこんなに輝いて見えるのか。
どうして今の私は、それに胸が高鳴って、幸せだと感じてしまうのか。
うりうりと、私の頬をいじめるあなたは、どことなく楽し気に私のことを眺めてる。
その様子があんまりに楽しそうで、思わず抑えていた言葉が口からぽろっと零れた。
「もしかして、私が照れてるのわかっててやってます?」
私がそう言うと、あなたはくすくすと、楽し気に、本当に楽しそうに笑いだした。
「あはは、ごめん。バレた?」
その笑みが、その答えが、ズルいと思ってしまうのは、きっと私がおかしいのです。
「…………ぶー」
「ごめんごめん、ここねの反応が面白くてついさ」
「みそのさんはやっぱり悪女の素質があると思うのです」
「まっさかあ、そんなことなーいよ」
「いーえ、酷い
「ごーめんって、機嫌直して? ね?」
「ぶー」
「あら、ここねがこぶたになっちゃった……」
「ぶー……」
機嫌を直す何てするまでもなく。
今の私は大層に気分がいいのですが、それをみとめてしまうときっとこれから揶揄い放題になってしまうのです。
だから認めてしまうわけにはいないのです。このやり取りが、この距離感が、心地よく、照れくさくて、嬉しいことを。
今、見止めてしまうと、きっとこの悪い悪い先輩に、沢山弄ばれてしまうのです。
そうなっても幸せなんだろうなという確信が心の底に、なんでかあるから。
やっぱり、私もとっくに手遅れになっているのです。
なんだか自分が本当に、取り返しのつかない何かに変わってしまっている気がします。
私という殻にこもったカタツムリみたいな奴の、殻を甘い蜜で無理矢理溶かして、残った中身のナメクジみたいな私もきっと、どろどろに溶かされて、なのにそこまで溶かされながら、当の本人は喜んでいるのです。
なるほど、恋は病のよう、端からみたらきっと滑稽なほどに溺れてしまっているのでしょう。
でも本当に、それすら幸せに思っている私がいるのです。
本当にこんな想い、三年で覚めてしまうのでしょうか。
なんだかさっぱり覚める気がしないのですけど。
本当に、私、こんなんで大丈夫なのでしょうか。
「ごめーんて、ここね。お詫びに私のカフェオレ飲む?」
「それ、間接キスです。みそのさん、の悪女っぷりはそういうとこだと思うのです」
いつかこの想いが覚めてしまうのちょっと寂しい気もすれけれど。
それより、もしこの想いが覚めなかったらと考えると、ちょっとだけなんというか恐ろしくもなってくるので。
きっと恋は三年くらいがちょうどいいのだと思うのです。
でないと私の心が三年と立たずに、溶けてなくなってしまいそうな気がしますから。
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