6
眼下に東京湾の夜景が広がっている。遠くの工場地帯の照明を反射する水面を背景に、大型輸送船や小型の漁船がそこかしこでうごめいている。
ヘリコプターの轟音が渦巻く機内で、黒崎が叫ぶ。
「ここを降りるのか⁉ やっぱりヘリポート使わないのか⁉」
真下に、クルーズ船『じゃぱん丸』が横たわっている。日本最大級の豪華客船だ。それでも上空から見ると、小さく、頼りない。
佐々木が笑顔を浮かべる。
「先読みできるクロさんらしくないぞ。爆発物でも仕掛けられていたら、どうする。訓練はしたろう?」
確かに、夜間ラペリングの訓練は何度か繰り返した。それでも、不安は消えない。
隣でミサが笑う。
「うわー、映画みたい! 敵船に突入って、ガチでやってみたかったんだ!」
佐々木はその言葉にも苦笑する。
「命がけなんだ。油断するなよ」
「はい、隊長!」
ヘリが後部デッキに寄っていく。
彼らの前方を飛行していたヘリコプター――MCH101が、デッキ上空10メートルほどの高さでホバリングする。真っ黒に塗られた機体は海上自衛隊のものだ。そこから降ろされた数本のロープを伝って次々と隊員が降下していく。
総数はおよそ20名。船に降りた隊員たちは互いに周囲を警戒しながら船内に侵入していった。レセプション会場となっているダイニングルームまでの通路を確保するためだ。
1機が空になると、すぐに2機目が入れ替わってさらに人員を投入していく。黒崎らが搭乗しているのは3機目だが、同乗しているのは海上保安庁の特別警備隊員だ。彼らは日頃から海上自衛隊とともに共同訓練を行なっている。
ミサが改めて黒崎に尋ねる。
「ねえクロさん、どうして客船に狙いを絞ったの?」
黒崎の困惑したような視線は、降下する自衛官たちに向けられたままだ。
「隊長と打ち合わせて君たちには黙っていたが、殺された老人、ビルメンテナンス会社で働いていたろう? あの会社、この客船の保守業務も請け負っていることが分かった。他にも数人が別会社を通じて船内業務に関係していた」
「でも、あたしたちまで騙さなくても――」
「中国使節団の安全確保の名目で調べはしたが、あまり突っ込みすぎるとこっちの狙いが見抜かれて計画を変更されてしまう。それでは敵を逃しかねない。だからホテル警護の名目で準備を整えて、隊長クラスのメンバーだけに客船の情報を伝えていた。現行犯で逮捕して首謀者を暴き、組織全体を潰さなければテロが繰り返されるからな。どれだけのサリンを持っているかも不明だし、狙いが一ヶ所だという保証もなかったからだ」
「それ、賭けだよね。失敗したら大ごとじゃん」
「だから、君にも隠していたんだよ」
今回の『じゃぱん丸』の東京湾クルーズは、中国の使節団を日本の経済団体が迎えるためのセレモニーに貸し切られている。
経済界が熱心に交流を推進したのは、日本のクルーズ船の清潔さや快適さを体験させると同時に、東京湾近郊の港湾をめぐってその有用性を理解させるためだ。優良な観光客誘致策の獲得手段の一環だった。しかしそれも、覇権を求める中国のあり方に疑問を持つ保守層からは反感を買っている。中国への接近は、対決姿勢を崩さないアメリカからの経済制裁を招きかねないという懸念も根強く残っている。
当然、今回のクルーズに一般客の乗船は認められていない。船内にいるのは日中の経済人、政治家、そしてマスコミ関係者がほとんどだ。
だが、中国側には国家主席が含まれている。究極の大物が訪日したのは、天皇誕生日を祝うという名目で日本に媚びを売るためでもあった。しかし情報通は、経済が悪化し続ける中国国内にいては暗殺の危険からの逃れられないからだとも公言している。
暗殺の危険は、中国国内だけにあるのではない。
乗客の中に工作員が紛れ込んでいる可能性は極めて高いのだ。客船スタッフや警備の機動隊員の中にもスパイが潜んでいるかもしれない。何より、中国側が随行を要求した20名を超える民間警備員――ブラックウォーターなどで訓練を積んだ退役軍人たちは、確実に中国側の人間たちだ。人選は厳しく行われたとしても、彼らが主席を〝守る〟側にいるという確証もない。
サリン散布を阻止するために自衛隊が強行突入すれば、戦闘になる可能性も決して低くなかった。いったん突入した後は、出たとこ勝負で瞬時に判断を下していかなければならない。
佐々木と黒崎が現場に赴かなければならなかった理由だ。
ヘリが2機目と位置を変わる。
海保のSST隊員が側面のスライドドアを開ける。轟音とともに、激しい気流が吹き込む。眼下はまるで漆黒の闇で、その中に客船の甲板だけがまばゆく輝いている。
SSTが次々にロープを投げ下ろしていく。ロープにかけた金具をつかんだ隊員が無言で、しかしまるで機械仕掛けの人形のように淡々と機外へ飛び出していく。
佐々木が叫んだ。
「クロさんが先頭だ!」
黒崎は訓練を思い出しながら答える。
「分かってる!」
ロープを背中に回し、呼吸を整える。意を決して、金具をつかんで飛び出す。一瞬、落下感にとらわれると、訓練と同様にあっけなく着地した。
佐々木とミサも後に続く。ミサはまるで、笑いを堪えているような表情だ。
先にデッキに降りていたSST隊員が2人、ミサに近づく。
「端末まで案内します」
「お願い!」
彼らは入り口から最も近いスタッフルームにあるコンピュータを目指していた。レセプション中のスタッフルームは無人のはずだったが、あらかじめ自衛隊員が占拠する手はずになっている。
ミサが背負ったリュックには、愛用のマックブックが入っていた。真っ先に船内の制御システムに侵入して、電子的に無力化されているはずのスプリンクラーを復帰させるのが目的だ。
佐々木たちは海保隊員とともに、レセプションが行われているダイニングルームを目指す。
侵入経路はエコーが手に入れた設計図をもとに、あらかじめ自衛隊の隊長が検討している。その詳細は決行1時間前に初めて隊員にブリーフィングされ、飛行中の機内でもそれぞれの持ち場と制圧手順が細かく指示されていた。
船内に入ると、廊下の通過ポイントごとに自衛隊員が待機して、手招きしていた。彼らの侵入は決行直前に、船内警備を受け持っていた警視庁機動隊員たちにも知らされている。ダイニングルームまでは、困難なく突入できた。
途中、数人の客船スタッフが拘束されたり倒れたりしている場面に遭遇した。彼らの多くは正体不明の襲撃に驚いて抵抗したスタッフだろう。大半は無害な従業員だろうが、全員に工作員の可能性があるものとして対処する手はずになっている。
遭遇した従業員は全て隊員が持つ専用スマホで8K動画を撮影され、データがリアルタイムで木更津駐屯地に送られた。そこでは瞬時に画像解析がなされ、顔認証はもちろん、指紋や虹彩データまでが〝要観察者〟と照合される。別班情報の工作員や要注意人物、公安が監視してきた教団関係者などの反社会的人物が含まれてるかどうかを検証するためだ。
結果は、およそ1分でフィードバックされる。
すでに、10名を超える工作員や準工作員が紛れ込んでいることが確認されていた。ダイニングルームの中でテロを実行するタイミングを伺っている人数は、恐らくそれを超えるだろう。
佐々木たちがダイニングルームに近づく。
入り口は、濃い茶色の木材とガラスで作られた重厚でクラシカルなデザインだ。だがその周囲は、場違いな迷彩服を着込んだ自衛隊員たちで囲まれている。突入の先頭に立つ隊員は、防弾ベストを着用してガスマスクを収容したケースを身につけている。ダイニングルーム内の小ステージに最も近いこの入り口以外は、完全に制圧されている手はずだった。
佐々木のスマホが振動する。取り出して、液晶を黒崎に見せた。
ミサからのメールが表示されている。
『ウイルス確認。除去完了。水浴びできるよ』
黒崎が小さくうなずいた。
ドアの向こうから、ゆったりとしたバンド演奏が漏れてくる。すでにレセプションは始まっていた。中には日本側の経済人や政治家、そして中国要人がひしめいている。もはや、いつテロ攻撃が開始されてもおかしくはない。
佐々木はドア横で待機する自衛官にささやいた。
「銃はなるべく出すな。使用は、消火器を持った人間を阻止する場合に限る」
自衛官の隊長がうなずく。
「全員に念を押しています」
「中国人たちには絶対に銃口を向けるな」
「了解。まだ異常はありませんが、行きますか?」
傍の副官は、手にしたアイパッドを見つめている。その画面を佐々木に見せた。
4分割された画面には、ホール内の情景が映し出されている。それぞれ、警備員やウエイター、そして招待者に混じった警官がかけたメガネに組み込まれた小型カメラが捉えた映像が映し出されている。その1つは、中国高官たちが司会者に紹介される壇上から、ホールを見下ろした画像だ。
ウッディな設えの落ち着いたダイニングだ。広い空間には30台を超える大きな丸テーブルがゆったりと並べられている。天井には大型のシャンデリアを中心に多数の間接照明が設置され、招待客を照らしている。豪華でありながら品の良さと穏やかさをにじませる、日本の〝おもてなし文化〟を結集したインテリアだった。
客たちの視線は、テーブルを離れてステージに向かっていく中国高官たちに集まっている。ホールの外で起きている事態にはまだ誰も気づいていないようだ。自衛隊による制圧作戦は、それほど静粛かつ完璧に進行したのだ。
バンドの音が止む。中国高官たちがステージに揃う。その背後には、いつの間にか中国側の〝シークレットサービス〟が10人ほど並んでいた。
司会者が国家主席の簡単な紹介を終え、乾杯の音頭をとる。
中国高官たちの紹介や挨拶が続けられる中、テーブルを囲んだ参加者たちがそれぞれに酒のグラスに口をつけ始める。その間を、多数のウエイターがグラスを乗せた盆を持って給仕に歩き回っている。テーブルに料理が配られる予定は、もう少し先だ。参加者たちが勝手に席を立って挨拶回りを始めのは、ある程度食事が進んでからになる。
異常が起きてからでは遅い。すでに無力化した客船スタッフの中に工作員が混じっていたことも確認されている。
突入する理由は手に入れた。待つ理由もない。
危険が最も低い制圧チャンスは、今だ。
佐々木がうなずく。
「やれ」
自衛隊員たちは、ダイニングルームを囲む入り口から一斉に突入した。怒涛のごとくなだれ込んだ制服を見て、ホールの皆が息を呑む。驚きと戸惑いの視線が行き交う。
ステージ上では瞬時に危険を見抜いたシークレットサービスたちが、中国高官たちの前に出て拳銃を抜いた。プロの目で状況を分析している。彼らは特例として、銃の携帯を特別に許可されていたのだ。
その横で、日本の官僚たちが立ちすくむ。キョロキョロと辺りを見回すだけで、しかし何もできない。真っ赤なドレスを着て先頭に立っていたのは、かつて霊仙教団の死刑囚の執行命令を下した法務大臣だった。
その間を、自衛官たちが素早く進んでいく。
隊長が叫ぶ。
「みなさん、落ち着いて! 席を立たないでください! 危害は加えません!」
そして、流暢な北京語で同じ内容を繰り返した。
その言葉が終わる前に、〝敵〟が行動を起こした。ステージの正面にいたウエイターが盆を投げ捨て、叫ぶ。
「教祖の正しさは、今、証明される! ハルマゲドンだ!」
そして、手の中に隠し持っていた装置のスイッチを押した。
途端にウエイターの衣服が小さな爆発を起こし、一瞬で全身が炎に包まれた。大量の可燃物を衣服に隠し持っていたようだ。吹き上がる炎の中から、ウエイターの笑い声が響く。
「死ね! 死ね! 死んで生まれ変わるがいい!」
ホールが悲鳴に包まれる。
テーブルの客たちが一斉に席を立つ。炎から少しでも遠ざかろうと退き、自衛隊員たちに制止される。
当初の計画では火災も阻止できるはずだった。敵の反応は、それほど素早かった。
しかし、次善の策は打ってある。
わずかに遅れて、天井からスプリンクラーの水が噴出した。ハッキングによって機能を止められていた装置は、ミサが回復させている。
炎に包まれたまま水を浴びるウエイターが、膝をついて天井を見上げる。
「なんでだ……⁉」
そして、ぐったりと崩れた。
自衛官たちが招待客を壁際に誘導していく。その中で別のウエイターの数人が備品の収容庫を開き、消火器を取り出してステージに向かおうとしていた。彼らは即座に自衛官の銃で制圧された。
だが1人が包囲から逃れ、走りながら安全ピンを抜いて手慣れた姿で炎にホースを向ける。
別の自衛官がその前に出て、拳銃を構えた。が、ウエイターの姿は極めて自然で、脅威を感じる要素はない。
そこに一瞬のためらいが生じた。
佐々木もテーブルの間を縫って突入していた。ステージめがけて走りながら命じる。
「撃て!」
同時にウエイターが消火器のグリップを握る。白く濃い霧がホースから吹き出す。
自衛官は消火剤を噴出させる男の胸を、3発撃ち抜いた。銃声がダイニングに響きわたる。
転がった消火器のホースが噴出物の勢いで暴れ、あたりに白い霧を振りまく。
シークレットサービスも反応も反応していた。
自衛官が銃を抜くのを確認した瞬間、数人が躊躇なく銃口を向ける。だが、銃口はステージを狙ってはいない。高官たちがターゲットにされるまでは息を詰めて待つ――。
自衛官もその気配を察して振り返った。同時に相手が中国側の人間だと判断して、銃を捨てた。その姿を、消火器の霧が覆い隠す。
シークレットサービスが、同時に引き金を引いた。
その火線の前に、追いついた佐々木が走り込む。シークレットサービスが放った銃弾が、佐々木を捉えた。
佐々木が背後に吹き飛ばされて自衛官にぶつかり、ともに倒れる。
黒崎が腰のケースからガスマスクを出し、叫ぶ。
「外へ出ろ! 毒ガスだ!」
自衛官たちは素早くガスマスクを装着する。
ステージ上の高官たちはシークレットサービスに導かれて、バックステージに消えていった。怒声が渦巻く中、ドアに押し寄せた招待客たちも自衛官に整理されて脱出していく。
だが、サリンで倒れるような者はいなかった。
使用されたのは幸い、本物の粉末消火器だったのだ……。
黒崎はマスクを投げ捨てて佐々木の元に走り寄る。立ち上がった自衛官に担がれている。消化剤で白く覆われた迷彩服の上に、鮮血が吹き出してくる。
手を貸しながら入り口に向かう。
「なんで先頭に⁉」
側頭部からの出血で目を塞がれた佐々木が呻くように言った。
「こいつらの隊長……だったから……な。指揮官が……一番やっちゃ……いけないことだ……。甘いんだよ……俺は……。お前が……後を継げ……」
そして佐々木は、自衛官が用意していた担架に乗せられて運び出されていった。
無線で状況報告を終えた自衛官が黒崎を見る。
「あなた、エコーですよね?」
黒崎が我に返る。
「そうだ」
「次はどうしましょう?」
この場で指示を出すのは自分だということは、すぐに理解できた。職務は果たさなければならない。
「計画通りに。船内の全消火器を回収。すぐに木更津で稼働中の化学防護隊で内容分析だ。招待客に混じっていた警官は制服に着替えて船内の沈静化に努める。自衛官は、捕縛した工作員、及び工作員の疑いがある者とともに即刻退去だ。以後は警察と海保のみで船内を管理する」
「了解です」
そして、尋ねる。
「佐々木の様子は?」
「極めて危険です」
「助けてやってくれ」
「もちろん」
黒崎は気持ちを切り替え、現場の混乱の収拾にあたった。
ステージ前で立ち上がっていた炎が収まると、スプリンクラーから噴出する水も止まる。いったんはホール外に脱出した関係者が、戻り始めている。
と、一目で役人と分かる初老の背広姿が自衛官に詰め寄っていた。
「君たち、何者だ! 一体なんてことをしてくれたんだ⁉」
自衛官は平然と答える。
「たった今、毒ガステロを阻止しました。ご覧になっていたんでしょう?」
「何が阻止だ⁉」そして大げさに荒れたホールを指し示す。「これでも阻止したと言えるのか⁉ 中国との友好関係がぶち壊しだろうが! 国際問題になるんだぞ!」
黒崎が背広の前に出る。
「何か問題でも?」
背広が黒崎をにらむ。明らかに年下だと分かる黒崎に向かって、叫ぶ。
「なんだ、貴様⁉」
「エコーです」
「は? エコー? なんだ、それ。こっちは外務省だぞ。中国要人の接待を任されているんだ。それを台無しにしやがって!」
「仕事を任されているのは、我々も同じです」
「貴様らの上司は誰だ⁉ 上司を出せ!」
黒崎は冷静に声を落とす。
「上司は官邸です。テロの阻止を命じられています」
「なんだ、そのバカ話。しかも阻止なんかできていないじゃないか⁉」
「あなたは生きている。中国の要人たちも生きている。集まっていた経済人たちにも被害はなかったはずです」
「外務省に泥を塗りやがって!」
「仕事が詰まっています。まず、あなたの上司にエコーの意味を確認してください」
「なんだと⁉ 局長にこの恥をさらせというのか⁉」
「局長ではなく、少なくとも外務大臣に連絡を。できれば、官房長官に確認してください」
「そんなみっともない真似ができるか!」
黒崎は黙ってスマホを取った。NSCにつなげる。
『官房長官だ』
客船制圧の状況は自衛隊によってリアルタイムで官邸に知らされている。
「問題が生じました。現場の外務省職員に作業を妨害されています。対処を」
電話を切った黒崎に、背広が詰め寄る。
「誰に電話したんだ⁉」
「しばらくお待ちください。あなたに連絡が来るはずです」
「なんだと⁉」と、すぐさま背広の中でスマホが鳴る。スマホを抜いた背広は、液晶も見ずに怒鳴った。「後にしろ! 今、忙しいんだ!」
スピーカーから漏れる怒声は、黒崎にまで聞こえた。
『貴様は降格だ! 無条件にエコーの指示に従え!』
一瞬言葉を失った背広は、改めてスマホの表示に目をやった。そこには『外務大臣』からの着信だと表示されていた。
「まさか……」
『これ以上彼らの邪魔はするな』
そして通話は一方的に切られた。背広が黒崎を見つめる。
「貴様ら、一体何者だ……?」
「だから言ったでしょう? エコーです。あなたがたも仕事をしてください。国家主席が待ってるんじゃありませんか? 彼らを保護するのがあなたの役目でしょう?」そして圧し殺した声で付け加えた。「日本に恥をかかせるな!」
外務省職員は何か言い返そうとしたようだが、結局肩を落として背を向けて去った。
代わって海上保安官が船長を伴って報告に現れる。船長は、ホールの荒れ具合を唖然と見つめている。突入直前に事情は知らされたはずだが、まだ納得できていないようだ。
海上保安官が言った。
「あなたが責任者ですか?」
「突発事態により、任務を受け継いだ」
「了解しました。船内制圧、完了しました。乗客は客室に分散して収容し、それぞれに警官が監視につく体制を進めています」
「了解」そして船長に向かう。「これから木更津港に向かってください。到着し次第、乗客、乗務員全員を『ホテル満月』に収容します」
「外注の従業員もですか?」
「そうです。相当数の工作員が紛れ込んでいることが考えられます。でなければ、海外要人を狙った計画的なテロは実行できません。しばらく厳重な事情聴取が続くでしょうが、場合が場合ですのでご了承ください。従業員の管理はあなたに責任を持っていただきます」
「それは当然ですが……中国要人たちに何か質問されたら、どうしましょうか?」
「管理は外務省が行なっていると答えておいてください。すでに手配は進んでいるはずです。それと、要人たちは取り調べなしでどこへでもお送りします。自衛隊のオスプレイ、でね」
「そんなことまで⁉」
「日本国としては、自衛隊の実力と機動性を思い知らせておかないとね。舐められると、今後もやましい気持ちを抱かせますから」
「しかし、こんな状態でもテロは防げたと言えるんですか?」
「被害は出ましたが、最小限でした。要人にもけが人はありません」
船長が一層の驚きをにじませる。
「これ以上の被害が出ることを予想をしていたんですか⁉」
黒崎は、船長は事態の重要性を知っているべきだと判断した。それが飲み込めていなければ、従業員を監視する意味も納得できないだろう。
身を寄せて小声で伝える。
「消火器の何本かに、毒ガスが混じっているという情報がありました。幸い使用されたのは本物でしたが、運が良かったにすぎません。もしガスが撒かれていたら、ダイニングルームの全員が死亡していたでしょう。私はもちろんですが、中に入ればあなたも、ね」
「まさか……」
「スプリンクラーが無力化されていたことはお聞きになりましたか? その状態で火災を起こせば、誰かが必ず消火器を使います。このテロが成功していれば日本の経済人も多くが死んで、経済が停滞するでしょう。さらに、中国の最高指導者たちが日本の狂信者に殺された――という国際問題も起きます。というか、国家主席を暗殺しながら日本を非難できる立場を得ることが、テロの真の目的だったようです」
「それなら、仕組んだのは中国……?」
「確証はありません。だからこそ、背後関係は絶対に突き止めなければなりません。ぜひご協力を」
船長の目に真剣さが増す。
「分かりました」
と、消火器を使って撃たれたウエイターの身体を探っていた自衛官が、会話が終わると黒崎に歩み寄った。
「これを隠していました」
自衛官が差し出したのはガラケーだった。
黒崎は折りたたみ携帯電話を開いて、通話履歴を見る。数時間前に、同じ電話番号と頻繁にやり取りしている。しばらく考えた後に発信ボタンを押し、同時に通話録音も開始する。
相手はすぐに出た。
『遅いぞ。状況はどうなっている?』
黒崎は、金属バットで殴られたような衝撃を味わった。その声は、久保田のものだった。
「久保田か?」
相手の声も緊迫する。
『誰だ⁉』
「電話の持ち主は死んだ。中国の要人も全員無事だ」
『なんで名前を――クロさんか⁉ なんでそんな場所に……』
「襲撃は失敗したんだよ。貴様は負け犬だ。必ず追い詰めてやるから、待ってろ!」
久保田はしかし、不気味な笑いをもらした。
『やれるものなら、な。その前に、この国を潰してやる。今こそ、教祖の願いが叶えられるんだ!』
そして電話は切られた。
それは明らかな挑発だった。〝彼ら〟の企みは、まだ終わっていないのだ。
と、黒崎のエコースマホが鳴った。
普段目立たない坂本からの連絡だ。坂本は本庄とともに本部で待機している。
『坂本です。隊長が撃たれたそうですね。容態は?』
「まだ分からないが、頭を負傷している。重傷らしい」
『やはり……では、クロさんに報告します』
「何か新たな情報が手に入ったのか?」
『基本的に状況の補強情報です。いろいろ当たってたんで時間がかかっちゃいました。ロシアはこの件には一切関係なし。マフィアのドンからの情報ですので、信ぴょう性は高いです。アラブやインドの武器商人も東京でのテロ情報は持ってませんでした。客家や華僑のコネクションからも確定的な情報は得られませんでしたが、中国共産党内部の権力争いは激烈になっているとの見方は一致しています。ファイブアイズのみなさんの意見も同じですね。今回の事件、団派が太子党を追い落とそうとしているっていうクロさんの見立て、かなり的を射ているようですね。1人だけ、中国の統一戦線工作部が北朝鮮を駒にして何か企んでるみたいだって言ってました。北部戦区――旧瀋陽軍区の暴走という可能性もあるらしいですけど。そいつ、日本国内の在日中国人マフィアにも詳しいので、結構確度は高いでしょう』
世間話をするように淡々と語った坂本は、言葉を切った。
黒崎が思わずつぶやく。
「あんた……一体、何者なんだ?」
『え? 何者って……大した取り柄もない、ただの商売人ですけど。仕事柄、少し顔が広くなったっていうだけで。ただ今回は、官房機密費もふんだんに使わせてもらいましたんで、なんかお偉いさんになった気分でしたけどね。そちらには何か新しい発見はありますか?』
客船襲撃の中心に久保田がいたらしいことは重大な事実だ。
「工作員の電話に久保田が出た。どうやらあいつがテロの実行部隊の要になっているようだ。しかも、まだ何か企んでいる可能性が高い」
スマホを奪い取ったのか、本庄が変わった。
『それ、確かな情報ですか⁉』
「通話データを、そっちで解析してくれ」
そしてガラケーに電話番号を表示させ、伝えた。
本庄が言った。
『ホテルの消火器、本当にサリンが入っていました。すでに2本、確認されています。敵がまだ何か企んでいるなら、もっと大量のサリンを保有しているのかもしれませんね……』と、唐突に叫び声をあげる。『あ!』
「どうした⁉」
『まずい……』
「だからなんだ⁉」
わずかな間があってから、本庄がつぶやく。
『農薬散布用の大型ドローンが大量発注――10機注文されてるっていう情報が入っていたんです。ホテル襲撃とは関係ないと判断していましたが、他にもまだテロ計画があるなら……』
「空中散布か⁉」
『だとすると、狙いは屋外イベントでしょうね……』
黒崎の中で久保田の言葉が轟く。
『この国を潰してやる――』
黒崎はうめいた。
「明後日の一般参賀だ。皇居が狙われるぞ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます