佐藤恵子のアパートは、新宿署から送り込まれた鑑識チームに仕切られ、徹底した調査が行われることになった。検視官の田辺の直感による決定だ。同時に黒崎ら新宿北署は、現場から遠ざけられた。周辺の聞き込みもまた、新宿署に主導権を奪われる形になった。

 形式上は北署との合同捜査になるだろうが、実際は手足として現場の雑用を押し付けられるだけだと分かっている。新宿署は明らかに、北署を見下しているのだ。

 一方、死んだ男の素性は、ズボンに残されていた身分証明書からすぐに判明した。名前は長妻宗一、68歳。住所は茨城県取手市にある単身高齢者向けのURアパートだった。

 主導権が新宿署に奪われることは避けられないと覚悟した黒崎らは、北署で背広に着替えてから快速電車で取手に急行した。アパートの死体の現状は一見心中にしか見えなかったが、そのことが余計に事態の異常性を際立たせていたのだ。

 誰かが偽装している――。

 田辺は言葉にはしなかったが、それが事実なら明らかな殺人事件――それも複数の〝犯人〟が関係している凶悪事件の恐れがある。

 現場は形式上は北署の管轄内にあるが、外国人犯罪対策を主目的に分署された北署では荷が重い。新宿署に事件を委ねることは当然の成り行きでもある。それでも田辺は、黒崎が簡単には納得しないことを〝知って〟いた。だからあえて暗黙のサインを送ったのだ。

――新宿署に〝取り上げられる〟前に、知りたいことは調べておけ。

 田辺が属する新宿署にとってはある種の裏切り行為ではある。だが、黒崎が調べて不信を抱かなければ、それはそれでよし。もしもさらなる疑問が生じればそれは必ず事件解決の役に立つ。

 田辺がそう信じていたからこその行動だった。それほど黒崎の直感に信頼を置いていたのだ。

 黒崎たちが取手のURアパートに着いた時、まだ新宿署の捜査員は姿を見せていなかった。

 黒崎は、3階の長妻の部屋の鉄製ドアを開けた管理人に尋ねた。

「長妻さん、人付き合いはどうでしたか?」

 70歳を軽く過ぎていそうな小太りの管理事務所員は、肩をすくめる。

「ここの住人、結構たくさんいますからね。長妻さん個人のことはほとんど知りません。顔を合わせれば挨拶ぐらいはしたと思いますけど」

 4、5階建ての鉄筋コンクリート造りのアパートが並ぶ大団地には、2000戸を越す世帯があるという。長妻の部屋がたまたま管理事務所が入っている棟にあったとはいえ、個人の記憶がないのは当然とも言えた。

「まあ、そうでしょうね……」

 そして管理人が何度も繰り返した質問を口に出す。

「わざわざ新宿で亡くなられたって、事故なんですか? でも警察が来るってことは、やっぱり事件ですか?」

 管理人の目は好奇心で輝いている。彼にとっては退屈な日常に降って湧いた〝イベント〟なのだろう。

 久保田が中に割って入る。

「あ、すみませんね。それを調べるのが僕らの役目なんですけど、内容は話せないもので。警察の決まりなんですよね」

 管理人があからさまに肩を落とす。

「でしょうね……」

 久保田が、頭を下げた黒崎を追って部屋に上がる。

 さらに管理人が中に入る。

「立ち会わせていただきます。私らにも決まりがあるもんで」

 久保田が微笑で応えた。

 部屋は、1人暮らしには大きすぎるほどの2DKだ。生活の多くはリビングでなされていたようで、そこそこの生活用品が散らばっている。窓際に机が置かれ、様々な書類が乱雑に積み重なっていた。

 右側の壁に他の2つの部屋へ通じる引き戸があり、両方を開いてみる。

 廊下側の部屋には畳の上に5個ほどの段ボール箱が並べられて、ざっと見た感じでは普段は使われていないようだった。

 外壁側の部屋は寝室で、ベッドと衣類がぎっしり下がったパイプハンガーがあった。カーテンは開かれていて、明るい日差しが差し込んでいる。直射日光が当たりにくい壁際には、細長い本棚が置かれていた。

 4段ほどの棚の中には分厚い本がぎっしりと詰め込まれている。一見して、何かの専門書だと分かる。

 黒崎は寝室に入り、タイトルを検証する時間も惜しんでスマホで背表紙の写真を撮っていった。あまり時間はないであろうことが分かっているのだ。

 余裕があれば、後で内容を調べるつもりだった。

 黒崎はリビングに戻ると、ざっと見回してから机に向かった。その動きも忙しない。

 真っ先に目をつけたのは、本立てにある数冊の小説に混じっていた帝都大学の卒業アルバムだ。帝都大学は日本の大学の最高峰で、ノーベル賞学者を何人も輩出している名門だ。

 これは、中身を調べないわけにはいかないと判断する。白い手袋をはめてアルバムを開いた。

 背後で久保田がつぶやく。

「超インテリ、だったんですね……」

 黒崎は横に移動してスペースを空けると、命じた。

「そこの住所録とカレンダーに書き込んである予定、撮影しておいてくれ」

「了解」

 久保田も、時間が限られていることは充分に理解している。手袋をはめてスマホを出す。手書きの住所録の中身を見ることもなく、機械的に撮影していく。

 精査は、撮影が終わってからでも構わないのだ。今は、できるだけ多くの情報を手に入れておくことが優先される。

 長妻は住所をスマホに入れるだけではなく、手書きで加えていく習慣も捨てられなかったようだ。団塊世代にはありがちな行動だ。

 その間に黒崎は卒業アルバムを調べていた。閉じたままで小口や背表紙をじっくり観察し、どこを頻繁に開いていたかを見定める。

 そして、ページを開いた。見開きにびっしり並んだ顔写真の名前を調べていく。やや表情が曇る。

 長妻宗一の名前がなかったのだ。その前後のページにも、やはり名前はない。それらしい顔の人物も見当たらない。改めて卒業年度を見る。68歳では、飛び級でもしていない限りこの年度では卒業できない。

 黒崎は微かな笑みを浮かべ、再び元のページを開いた。

「なるほどな……」

 佐藤恵子の名前があった。結婚していないのか、離婚か死別で姓を元に戻したのだろう。子供がいた形跡は感じられなかったから、未婚の可能性も高い。

 長妻は、ともに死亡した女の卒業アルバムを持っていたのだ。本人から譲られたのか、古本屋やネットで流通しているものを手に入れたのだろう。長妻自身もおそらく帝都大学の卒業生だと直感した。大学と無関係な人間が、わざわざ卒業アルバムを欲しがるとも思えない。2人はゼミかサークルで一緒だった可能性も高い。

 黒崎はそのページを撮影すると、机の横のゴミ箱に目を移した。

 印刷物の紙くずが溜まっている。机で読んで不要だと思ったものを捨てたのだろう。

 振り返ると、キッチンの脇にもゴミ箱が並んでいた。そちらを調べる。

 生ゴミとカップ麺の容器などが捨てられたプラスティックゴミ、そして雑紙が分類されている。生ゴミの量は少なく、入っているもののほとんどは丸められたティッシュペーパーだ。生活感はあまり感じられない。食事はほとんど外食だったのだろう。

 机に戻って印刷物のゴミをリビングの真ん中のテーブルに開ける。内容のほとんどは健康食品などのDMだ。それらが入っていた封筒も捨てられている。数種類の封筒の中でスタンプの日付が一番古いものは、一ヶ月以上前だった。

 それ以後、このゴミは捨てられていないということだ。

 黒崎の目を引いたのは、申込書を切り取った後のDMだった。DMの両面を撮影する。毎朝新聞が主催する『カップリングスクエア』の入会申込書だった。

 40歳以上の独身者に男女交際の場を提供するサービスだ。結婚を前提にしなくても交際相手が探せるという触れ込みで開始された企画だが、衰退していく大手新聞社が〝出会い系〟にまで手を染めたということで話題にもなった。

 長妻がカップリングスクエアに参加していたのなら、そこで佐藤恵子と再会した可能性もある。フェイスブックやツイッターを通じてかつての知り合いの消息を知るということも珍しくない。彼らもそうして関係を再開したのだろう。

 と、開け放しだった玄関からダミ声が届いた。

「黒崎さん、やっぱりあんたか。こっちのヤマだってこと、伝わってなかったかね?」

 声に覚えがある。新宿署のベテラン――早見だ。

 その後ろにいた部下がおもねるように言った。

「まだキャリアの癖が抜けてないんじゃないですか。所轄の仕来りなんか気にしてないんでしょう」

「困ったもんだな」

 黒崎の予測通りだった。

 新宿署は車で取手に刑事を派遣するだろう。都心の渋滞を抜けるまでが時間的なアドバンテージだ。だから快速電車を選んで、先手を打つことを狙ったのだ。

 それでも、彼らが現れたのは予想以上に早かった。

 いったん新宿署が動き出せば、捜査の深部に関わることは容易ではない。北署員が自由に動ける時間はわずかしかない。黒崎はその間に自分が抱いた疑問を解消できさえすれば、あとは中華街の情報収集に戻るつもりでいた。

 早見たちは部屋に入って、部下が管理人に警察手帳を見せる。

「私ら、新宿署の者です。この事件、担当することになったんで」

 管理人が困ったように黒崎を見る。

 黒崎は軽く肩をすくめただけだった。

 代わって、早見が説明する。

「あっちは新宿北署。厄介者の吹き溜まりだ。捜査の主導権は俺たちにある」

 早見の部下が久保田に向かって言った。

「本部を立てるかどうか、協議中だ。どうなるかは解剖と俺らの捜査次第。ということで、邪魔はしないように」

 早見が念を押す。

「さっさと帰れ、ってことだ。すぐに消えるなら、今日のことは見逃してやる」

 黒崎は久保田に目配せをした。

 久保田がかすかにうなずく。

 主要な証拠品の撮影は済んでいるということだ。

 黒崎はテーブルに広げた紙ゴミをまとめると、元通りにゴミ箱に捨てた。そして背を伸ばして早見を見る。

「そうしていただけるとありがたい。長妻宗一の死については、これといった疑問はない。北署としては、これ以上首を突っ込まない。後は任せる」

 黒崎はあえて、『北署としては』と言葉にした。手に入れた証拠を分析して新たな疑問が生じるようなら、それが消えるまで1人でも調べ続けるつもりでいた。

 早見が黒崎を軽蔑するような笑みを浮かべる。

「じゃあな。キャリアさんは、キャリアらしくデスクでふんぞり返っていればいいんだ。現場に首を突っ込むな」

「ご忠告、ありがたく受け取っておく」

 そして黒崎たちは玄関に向かった。

 早見の部下は、狭い廊下で久保田とすれ違う際にささやいた。

「悪いね。早見さん、キャリアに恨みがあるんだ。何か分かったら、メールするから」

 2人は警察学校時代の同期だった。久保田も小声で応える。

「2人の仏は帝都大学の卒業生らしい。卒アルに女の写真がある」

「サンキュ」

 早見の怒声が飛ぶ。

「何してる! 早くこっちに来い!」

 久保田も黒崎を追って廊下に出た。

 黒崎がささやく。

「気づいたことはあったか?」

「住所録には最近の書き込みが何件かありました。しかも集合写真が何枚か挟んでありました。これも最近のものらしいです。長妻も佐藤恵子も加わっています。どうも左翼系のデモのようですね。要チェックです。カレンダーには、2ヶ月先までの書き込みがあります。場所と時間が書かれていましたから、共通性があれば何の用件かは割り出せるでしょう」

「一番近い予定は?」

「明後日ですね」

「よくやった」そしてニヤリと笑う。「せっかく電車で来たんだ、我孫子駅で唐揚げそばでも食っていくか?」

「クロさんのおごりで、ね」

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