例外事象《エコー・マター》
岡 辰郎
ACT1・連続殺人追撃戦
1
真っ先に現場に駆けつけたのは、近くの〝中国人地区〟を巡回していた黒崎純也と部下の久保田翔太だった。
場所は新宿北署の管轄の外れだ。ビルに押しつぶされるように仕切られた住宅地で、ブロック塀とわずかな生垣に囲まれた狭苦しい袋小路の突き当たりだった。
かつては〝地上げ屋〟の標的にされていたが、外国人の急激な流入によって国内資本が見向きしないエアポケットのような場所になった区域だ。しかも中には、まだ新しい物件もまばらに混じり、建て替えや区画整理がより難しい状態になっている。
2人は、狭い土地に肩をすくめるように立っている二階建ての木造アパートの外階段を上った。古びて錆が浮いた鉄階段に甲高い足音を響かせる。
昼近くの日がわずかに差し込んでいるとはいえ、2月の冷たい風が渦を巻いている。路地を何本分か離れているだけの、〝外国人街〟から漂う香りも孕んでいる。人によっては『下水の臭いだ』と顔をしかめることもあるという。街の一部がスラム化していることは否定できない。
だからこそ、新宿北署が新設されたのだ。
ドアを開け放した玄関先で、ガラケーを握りしめた大家が待ち構えていた。腰が曲がり始めた、いかにも老人然とした地味な服装の男だ。
「警察の方……ですよね?」
困惑と怯えが表情に滲んでいる。
おそらく、脛に傷を持つ中国人かもしれないと恐れたのだろう。部屋の中に死体があるのなら、〝殺人犯〟が戻ってくることもありうるのだ。
しかも2人は、そう疑われても仕方ない服装をしていた。中華街に馴染むためだ。数時間で髪の毛にまで染み込む脂っぽい臭いも、すぐには取れない。
黒崎が苦笑いを漏らしながら警察手帳を取り出す。
「通報してくださった大家の清水さんですよね? 私、新宿北署の黒崎です。ここしばらく中華街をパトロールしているもので、こんな服装で失礼します」
中肉中背で目立たない風貌の黒崎が先に自己紹介したことに、大家がわずかに驚きを見せる。
人手不足で現場に引っ張り出された窓際刑事にでも思えたのだろう。大柄な久保田の方がはるかに〝頼れる警官〟に見えることは、黒崎自身が認めている。
大家の表情が作り笑いに変わる。
「潜入捜査……とかですか?」
「まさか。日常的な情報収集ですよ。ただ、警官は一般の日本人が近づかない場所にも入らないとならないのでね。情報源として、古株連中とも仲良くしておかないと」
大家はあからさまに緊張を解く。
「そうですか……。この辺りは最近特に物騒なもので、ちょっと驚きました……」
久保田がうなずく。
「僕は久保田です。で、死体はその部屋に?」
「ええ、どうぞ」
大家が部屋の中を指差す。
黒崎が玄関に入りながら問う。
「中に入って、何か動かしたりしましたか?」
「いいえ、一目でおかしいって分かりましたから、触ってもいません」
「血痕や外傷が?」
「それは……でも、すぐに警察に知らせました」
黒崎は、久保田が差し出したビニールの覆いを靴の上に被せながら言う。
「腐敗臭とかは感じませんね。なぜ〝おかしい〟と?」
大家が口ごもる。
「布団の中で抱き合っているのに、私が入ってきてもピクリとも動かないんですから……。通報してから、ずっと玄関を見張っていました」
大家が外国人を恐れているらしいことを察していた黒崎が、軽い口調で尋ねる。
「アパートの住人に外国人はいますか?」
わずかに水を向けただけで、大谷の声に勢いが増す。
「みんな日本人ですけど……。外国人に貸すと部屋がダメになるっていうし、言葉も通じないのは怖くて……。本当は私も千葉に住んでる息子家族と一緒に暮らしたいんですけど、借り手があるうちは離れられなくてね……」
黒崎は、そんな世間話を黙って聞くことが、時に事情聴取の役立つことを知っていたのだ。
久保田は靴を覆いながらせっかちに質問した。
「あなたは部屋に入ったんですよね? なぜです? 何か気になる物音でも?」
大家がバツが悪そうに答える。
「恵子ちゃん――あ、この部屋の佐藤さんのところには、毎日のように茶飲み話に伺っているんです。数週間前に越してきたんですが、お互い独り者の老人なんですぐに親しくなりました。最近は、時々昔の知り合いらしい人たちが来ることがありましたがね。昨日は私、午後から外出していたんで、今日は顔を出そうと思って……。付き合っている男がいたなんて聞いていなかったもので……」
黒崎が振り返る。
「鍵は?」
「合鍵で開けました。ノックしても返事がないんで、倒れたりしていたら困りますから。このアパート、住んでいるのが年寄りばかりなもんで」
「外出しているとは思いませんでしたか?」
「佐藤さんは出かけるときはいつも声をかけてくれます。私はすぐ下の部屋に住んでいますから。新聞も新聞受けに刺さったままだったし。新聞が残ってたら、声をかけてって頼まれていたんです。この歳になると、怖いのは孤独死ですから。なので、心配になって電話してみました。そしたら、部屋の中で鳴ったもので……」
「なるほど」
そうは言ったものの、黒崎はわずかに考え込んでいるような表情を見せている。当然、大家の言葉を鵜呑みにはしていない。
古い木造アパートだから、まともな防音対策は取られていないだろう。真上の部屋に来客があれば、わずかであれ気配を感じる方が自然だ。誰かが訪ねてきたのを知っていながらこの結果になったなら、作為があることを疑う。
特に近年、老人同士のトラブルは多い。殺人にまで発展することも稀ではない。その多くは、男女関係のもつれや三角関係に起因する。老い先短い人間は、若者以上に諦めが悪くなることもあるのだ。
状況は、まさに〝それ〟だ。
と、鉄製の階段を上る複数の足音が響き、廊下が騒がしくなる。北署から鑑識が到着したのだ。
久保田が振り返る。
「ヤマさん、お疲れ様。お先に着いちゃいました。まだ中には入ってません」
廊下に上がっていた黒崎も脇に身を寄せる。
「お疲れ様です」
死体がある現場に真っ先に入るのは鑑識だと決まっているのだ。
鑑識の先頭に立って部屋に入った山崎警部が、黒崎たちには目も向けずに無言のまま先に進んでいく。後に続く部下の大竹警部補が言い訳がましくつぶやく。
「黒崎さん、すみません。課長、今朝は機嫌が悪いみたいで」
黒崎は表情も変えずに答える。
「もう慣れっこだよ」
3人の鑑識課員の後を追って、黒崎も部屋に入った。
部屋は2つ。廊下の先は今風に呼べばリビングキッチンで、6畳ほどの広さがある。だが、フローリングは外見と同様に古びて、壁際に置かれた机の周りにはひび割れている場所もある。椅子のキャスターが常に乗るあたりだ。部屋の真ん中には小さなテーブルがあり、2脚の椅子が置かれていた。
リビングの横には畳の寝室があり、仕切りの襖は開け放たれている。
寝室の奥のベッドには、2人の死体があった。布団はかかっているが、全裸で抱き合っているようにしか見えない。
鑑識員たちは慣れた動きで床の様子を精査し、室内を撮影していく。さらに、ベッド脇の細長いテーブルにきちんと並べられた衣服などを調べていく。
その間に久保田が大家からさらに話を聞いたらしく、黒崎の横に立って山崎に声をかけた。
「ヤマさん、大家さんはこの襖を開けただけで、寝室には入っていないそうです。大家さんには鑑識が終わるまで待ってもらっています」
山崎はベッドの布団をゆっくり剥ぎ取りながら答える。
「おう」
そして合掌してから、死体の撮影を部下に促す。
やはり2人は全裸だった。一目見る限りは、傷や血痕はない。外見から判断できる年齢の割には、健康だったように見える。
鑑識の邪魔にならないようにリビングの奥に立っていた黒崎は、ベッドの脇のポータブル灯油ストーブに目をやる。
「一酸化炭素中毒、ですかね?」
じっと死体を見下ろす山崎の反応は薄い。
「まだ分からん。もうすぐ検視官が着くはずだ」
黒崎がかすかな驚きを見せる。
「事故かもしれないのに、いきなり検視官ですか?」
「あっちにはあっちの事情がある」
山崎はぶっきらぼうに言葉を切った。
黒崎は小さく肩をすくめ、横に立った久保田につぶやく。
「やはり私は嫌われているようだな」
久保田には、黒崎がそう考える理由が分かっていた。
「それ、まだ言います?」
「変わり者なのは自覚しているからな」
そう答えながらも、黒崎の目は改めて室内を観察していた。
透明なビニールのテーブルクロスをかけたテーブルの上は、綺麗に片付けられて折りたたまれた新聞が乗っている。朝刊はドアに刺さったままだから、昨日の新聞だろう。紙面の膨らみ方やシワから、全ページにくまなく目を通したように思える。
一時は〝クオリティーペーパー〟としての地位を確立して、言論界をリードしていた毎朝新聞だ。発行部数の急激な低下が語られる中でも、高齢者の間では絶大な人気を保っている。
さらに壁際の机に目をやる。今時珍しくなったカセットCDプレーヤーが目を引く。まだ新品らしく、レコード盤などの復古ブームに乗って生産され始めた製品のようだ。その横のCDケースのタイトルが読めた。
ローリングストーンズ、シカゴなどの洋楽に混じって、吉田拓郎などのアーティストがある。典型的な団塊世代だ。過去の音楽を懐かしんで、旧譜を集めているのだろう。
久保田は黒崎の視線を追いながら続ける。
「そんなこと、もう誰も気にしてませんって。どっから見ても、クロさんは生粋の刑事ですよ。今だって、潜入捜査みたいな格好して、部屋の中をじっくり観察してるし」
「だから変わり者扱いされてるんだ」
「ですよね。うちの署に来てから何年になります?」
「4年……過ぎたかな」
「でしょう? 俺は北署に配属されてからの1年間しか知りませんけど、みんな、現場仕事じゃ1ヶ月も保たないだろうって噂してたらしいですよ。賭けに負けた奴らが山積みになって、とっくに賭け自体がなかったことになってます。なにしろ成績優秀で、いずれは総監か大臣かっていうキャリアさんなんですから。そもそも、警察庁から所轄だなんて――」
「盛りすぎだ」
「ま、多少はね。でも、義理のお父さんは今の警備局長なんでしょう?」
「つまらない噂ばかり頭に入れるな。嫁とはとっくに別れている。今じゃ他人だ」
「あれ、やっぱりホントだったんだ! まさか、そんな人が所轄に飛ばされてきたなんて信じられなかったんですけど」
「お高く止まったキャリアに泥まみれの現場が勤まるはずがない、ってか?」
「ま、そういうことです。そもそも、こんなことを言っても許されるキャリアなんて、先輩の他にはいませんしね。しかも、原因が〝アレ〟ですから、ね」
「見限られたってことだよ。私に期待されていた1番の仕事は、組織防衛だ。その約束事を破ったんだ。当然の制裁だろう?」
「でも、なぜ辞めないんです? 先輩なら、民間に行っても実力でトップが取れそうなのに。俺、起業でもしたらついて行こうって企んでいたんですよ。黒崎班の部下ですから」
黒崎が苦笑いをこらえる。
「唯一の部下、な」
「いいじゃないですか、才能抜群の志願兵なんですから」
「確かに。射撃の訓練じゃ到底追いつけない」
「拳銃なんて、日本じゃ撃つことないですからね。俺、オリンピックに出たくて練習してたんです。警察に入る前から、海外で実弾訓練したりして。けどそんな実務的な技なんて、競技じゃ役に立たないって思い知りました。だから、現場で実績上げてるクロさんに学びたくって、目をつけたんです」
「他の連中は、私を避けてるってことだろう?」
「クロさんって、ちょい危ない場所にも突っ込んでいくからですよ。今だって防刃ベスト着用なんでしょう?」
「刺されるのは一度でたくさんだ。しかも防弾性能もある。ま、中国製だしカタログデータだから信用はできないがね。それでも着膨れしなくて動きやすいから気に入っている。自費で買ったが、不満はないぞ。お前も買っておけ」
「これだよ……そんなんだから、部下が寄り付かないんです。普通は、制服着てたって荒っぽい外国人に囲まれたらビビるもんです。キャリアだから嫌われてるなんて、勘違いもいいとこですって」
「北署は外国人対策で作ったのにか?」
「だからって、家族持ちも多いんですよ。下手すりゃ、怪我しても自腹だし」
「お前はどうなんだ?」
「毎日たのしいですよ。中華街の奥とか、ドキドキしますって。破滅願望があるのかな」
「そんなんじゃ、長くは続かないぞ」
「ですから、黒崎さんの起業を待ってるんじゃないですか」
「期待に添えなくて残念だな。所轄に飛ばされたのは、辞表を書かせるためだと分かっている。それなら、逆らいたくもなるじゃないか。覚悟の上の造反だったんだからな。つまらない意地だよ。幸い、不祥事さえ起こさなければ懲戒解雇されることはないしな」
「だからみんな、感心しているんです。最近聞いたんですけど、警察庁時代もしょっちゅう現場に顔を出していたそうじゃないですか。そんなキャリアなんて、滅多にいませんって」
「だからはじき出された。だが、性格は簡単に変えられない。変えろと命じられれば、意地を通したくなる。それに、現場は現場で面白い。まだまだ新たな発見の連続だ」
「ほんと、中国語の方言まで何種類もマスターしちゃったんですから、驚きですって」
「そんなもの、すぐにAIに取って変わられるさ」
「だったらどうして?」
「趣味みたいなもんだ。何かしていないと落ちつかなくてな。それに、相手を知るには言葉を理解する必要がある」
「それが驚きなんですって。今じゃ、先輩がいなくちゃ中国人街には怖くて入っていけないですから。ハードーワークで危険だらけなのに、よく続けられますよね」
「お前だって辞めてないじゃないか」
「だって俺、学がないし。先輩とは全然違います」
「そんなことはない。売り手市場の今なら他にも楽な仕事はいっぱいあるぞ」
「でも、辞められないんですよね……マゾ、なのかな」
「日本人なんだよ。医者も自衛官もアニメーターも、厳しい現場ほどいい仕事をする。本気で体を張っている。それがある意味、楽しいんだろう。だが、逆境に強いってのは、順風だと気が緩んで吹き飛ばされやすいってことでもある。楽ができない国民性って、あると思うぞ」
「それ、『上はどうしようもない』ってことですよね。楽してる奴らって、悪いことばっかり考えてますからね」
「公僕の先輩としては『言い過ぎだ』って叱っておくべき発言だな」
「俺、叱られたことにしておきます」
山崎が寝室から出てくる。
「入っていいぞ」
黒崎が質問する。
「死後どれぐらいでしょうね?」
山崎が黒崎を睨みつける。
「それを決めるのは検視官だ」
黒崎が穏やかに微笑む。
「ヤマさんの判断が聞きたいんです。直感で構いませんから」
「俺を値踏みしようってか?」
「信頼しているから、ですよ」
山崎はようやくかすかな笑みを見せた。
「おそらく、昨夜8時前後だ。ストーブの灯油は空になっていたから、不完全燃焼の可能性もある」
黒崎は、その言葉の選び方に言外の含みを嗅ぎ取った。山崎は〝違和感〟を隠していない。
「事件性は?」
「まだ何とも言えない。ただ、2人同時に病死したとは考えにくい。心中という線は捨てきれない。まあ、気になることはあるが」
「なんですか、それ?」
「まずは検視官に伝えるべきことだ。それからなら教えてやる。大家に話を聞いてくる。周辺情報を集めればすぐに概要が見えてくるだろう。正確には解剖待ちだ」
やはり山崎は、解剖が必要な程度には不審な点があると考えている。
「ありがとうございます」
山崎は軽く頭を下げて去ろうとしたが、振り返る。
「あんたの評判は聞いている。嫌ってるわけじゃない。だがな、キャリアはキャリアだろう? あんたらのわがままにしょっちゅう振り回されている現場には、それなりの言い分がある。俺たちは機械じゃないんだからな」
黒崎も微笑を崩さない。
「だから、信頼しているんですよ。うちの鑑識は優秀だ。ヤマさんが仕切ってるからでしょう?」
山崎は小さく肩をすくめて去った。
2人をじっと見ていた久保田がささやく。
「ね、悪い人じゃないでしょう?」
「悪い人だとは思っていなかったさ。仕事ぶりを見ていれば分かる」
2人の前を、鑑識課員たちが会釈しながら通っていく。
玄関前の廊下は騒がしくなってきていた。部屋にいた住人が警察の姿を見かけて集まっているらしい。新宿北署からも警官が送られてきているようだ。
久保田が言った。
「俺、ヤマさんと一緒に住民から詳しい話を聞いてきます」
「頼んだ。特に大家だ、昨晩どこにいたのか確認を。自室にいたのなら、この部屋の物音が聞こえたはずだからな」
久保田は床の古びたフローリングを見て、ニヤリと笑う。
「ですよね」
代わって部下を1人連れた検視官が部屋に入る。
「おう、黒崎か。久しぶりだな」
黒崎が会釈する。
「田辺さん、まだ新年の挨拶言ってませんでしたね」
「もう月が変わってる。しかも、去年は一度も顔を合わせてないぞ」
「現場に来たの、たまたまでしたから」
そして田辺と呼ばれた検視官が身を寄せて声を落とす。
「警察庁には戻れないのか?」
「もう期待してませんよ。それだけのトラブル、起こしてますから」
田辺がかすかに肩をすくめる。
「すっかり現場が板についたようだしな。というか、かえって生き生きしてるみたいだが?」
「こういうの嫌いじゃなかったんだって、自分でも驚いてます。父親譲りなんでしょうね」
「それは何よりだ」
「でも、なぜいきなり検視官が?」
田辺が部下を示す。
「こいつの修行だ。たまたま、現場が近かったんでな」
部下が頭を下げる。
「安西です。検視官見習いってところで、まだ経験不足なもんで」
「黒崎です」
「噂は聞いていますよ」
「どうせ悪い噂でしょう?」
「所轄じゃヒーロー扱いする人間もいますよ。キャリアさんたちから見たら〝アレ〟かもしれませんけど」
田辺が言った。
「さあ、仕事だ」
黒崎がうなずく。
「私も検死を見ていいですか」
「当然だ」
彼らは寝室に入った。
田辺はラテックスの手袋をはめ、安西に手順を見せるように気を使いながら死体を精査していく。
ベッドで硬くなっていた全裸の男女は、いずれも70歳前後のようだ。性行為の痕跡は見られない。
黒崎が言った。
「隙間風が入るアパートで、ストーブが1台だけ。それで掛け布団1枚は寒そうですね」
田辺の目が真剣に変わっていた。
「黒崎、何か気がつくことはないか?」
黒崎は、安西がいるのになぜ自分に質問するのかを訝った。
「私、ですか?」
「本部じゃ相当の現場を見てきたはずだ。所轄の私にも、いつもしつこく質問してきたじゃないか。なんでもいい、気づいたことを指摘してくれ」
黒崎は改めて死体を凝視する。
2人の姿勢は不自然だった。女は男の胸に手を回しているが、男の手の平は女に触れていない。しかも男の表情は、苦しげだ。女の横顔も硬い。
「ヤマさんも気になることがあるって言ってましたけど、このことかな。表情が硬くて、幸せそうには見えないですよね。心中だし、一酸化炭素中毒なら、気づかない間に死ねただろうに……男は苦痛を感じているみたいです……」そして重大な事実に気づく。「もしかして、一緒に死んだのではない、と? それなら〝偽装心中〟ということになりますが?」
田辺が安西を見る。
「君はどう思う?」
「私も触ってみます」そして2人の死体に触れていく。「黒崎さん、観察眼が鋭いですね。この2人、わずかに硬直の度合いが違うようです。個体差はありますけど、女性の方にまだ幾分か柔らかさが残っています。死亡時間が異なる可能性が極めて高い」
黒崎が声を落とす。
「だとするなら、男の方はだいぶ前にこの部屋に来たことになりますね。大家は気づかなかったようですが。でも、この部屋で男が死んだなら、女はなぜ救急や警察に知らせなかったのか……?」
田辺が言った。
「3人の意見が一致したな。これは単純な事故ではなさそうだ。死亡時間のズレは5時間から10時間ほどだと思う。男を殺してから女が後を追ったという推定は成り立つ。だが可能性としては、死体を他の場所から運び込んだことも考えられる」
「つまり、殺人?」
田辺がうなずく。
「安西、本部に連絡してくれ。精密な鑑識と司法解剖が必要だ」
そして安西に背を向け、黒崎に向かってかすかにウインクした。
『動けるのは今のうちだぞ』というサインであることは、黒崎にはすぐに理解できた。
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