第3話
――その人の顔を初めて見たとき、まるで死神のような人だと思った。
わたしと同じ、オニキスを溶かしたような黒髪に、ガーネットを思わせる血赤の瞳。父によく似た容貌。
しかし纏う空気も、何もかもが違う。住む世界が違うのだと、目にするだけで理解させられる迫力。
静謐でいて鮮烈。動でありながら凪。およそ人間味のない無表情に、怖気が走る。
彼――父の弟であるライナス・ヴェッケンシュタインは、本棚を背に後ずさり、間合いをはかりながら逃亡しようとするわたしを見下ろして、温度のない声で言った。「お前がユリアか」
息を詰めるわたしに、彼は目を細める。
「聞いていた話と随分と違うようだ。お前は本当に五歳の少女か」
*
ことは三十分ほど前に遡る。
午前の『お勉強の時間』――今までのわたしはほとんど勉強なんてしていなかったので、真面目に机に向かうわたしに家庭教師は目を剥いていた――を終えたわたしは、さっそく兄のお気に入りの場所であるという図書室に向かった。
美しく整えられた中庭を横切り、白亜の壁が美しい離れの建物、その一角を目指して歩を進める。
ん~空気がうまい。中庭のいいところはこの空気の清々しさと、薔薇園だ。図書室脇のテラスからは庭師が腕によりをかけて作った庭園がよーく見えるのだ。
わたしも、純粋なるユリアだった時は遊びに来たハインツ王子と一緒に、この薔薇園を胸を高鳴らせながら遊んだな。いつか薔薇の花束でプロポーズをしてねってねだったこともあったっけ……うわ、余計なこと思い出しちゃったよ。婚約者フラグはこれ以上いらんです。
さて薔薇は誰を愛せる? それをこそわれは知りたし――わたしが蝶で薔薇が王子だとしたら、彼が見ているのはシャルロットということになるな。今は別に知りたいとは思わないけれども。
軽快な足取りで図書室に入る。図書室の中には父の趣味で選定された、さまざまな国から仕入れた本が並んでいた。棚一つとっても高級品であるとすぐにわかる滑らかな木肌をしており、天井からぶら下がった照明はクリスタルがあしらわれたシャンデリアだ。これが個人所有の図書室とは……自分が大貴族のお嬢様になったという事実を改めて突きつけられているようだ。
「歴史書、法律書、医学書……専門書ばっかりだな。うわっ、これなんて魔法書じゃん」
わたしは手を伸ばし、棚に差してあった本を手に取った。
……この『インアビ』の世界には、『異能』と呼ばれる魔法がある。まあ、力の実態としては、魔法と言うよりも超能力の方が印象が近いかもしれないが。
異能を以て生まれた子どもはおよそ十万人に一人の確率と言われているが、実際には王族に発現することがほとんどだ。
ただ、平民が異能を持って生まれ、その力を使って戦争で英雄になったという古い言い伝えも残っており……まあ要は、誰が異能を持っていてもおかしくはないということだ。
我が公爵家も王族と血を分けているので、歴代当主の中には異能者もいたらしい。
(まあ前世の記憶なんて持ってるわけだし、わたしも一種の異能者みたいなものだけど……あ)
ふと顔を上げ、思わず小さく声を漏らす。
品のいい机と椅子が並べられた閲覧スペース。その窓際の席に、静かに本に目を落とし、ひたすらペンを動かしている少年の姿があった。
ヴェッケンシュタインの証である黒い髪に、母譲りの深い青の瞳。
――マティアス・ヴェッケンシュタイン。わたしの兄だった。
今年で十歳になる我が兄は、凛と背筋を伸ばして、何やら勉強に励んでいるようだった。彼の前にある机の上には何冊もの本が積み上げられており、読みかけの本のページを捲る音が時折響いてくる。熱心なことである。
(……やっぱり、お兄様も攻略対象の一人だよね)
まだ幼げな容姿だが、『インアビ』の集合絵の中心あたりを陣取っていた黒髪の男にようく似ている。あの黒髪のイケメンが恐らくマティアス――
なんにせよ本当に乙女ゲームの世界に来ちゃったんだなァと、もう既に何度目かわからない確認をしつつ、そっと兄の座る席に近寄っていく。邪魔をしないように気を遣いながら。
どうやら兄は法律書を読み込んでいるようであった。ハハ、十歳が法律書読んでるとか。乙女ゲームのキャラ、ハイスペックすぎて普通に怖い。
(法律かあ……)
前世のわたしは文系の大学生だったが法学部ではなかったので、はっきり言って法律の知識は乏しい。かといって、全く何も知らないという訳でもない。従兄がバリバリの法学部生でかつ討論大好きな意識高い系の大学生だったので、少なからず影響を受けている自覚がある。
……まあそれでもこの世界の法律なんてさっぱりわからないんですけどね。
どれどれ一体どんな勉強をしているのだろうと後ろからそっと覗き込めば、兄が開いているのは権力分立のページだった。
(へえー、なつかしい)
習った習った。モンテスキューの法の精神。日本の司法・立法・行政。中学生の公民でやるよね。
ただシルヴィア王国は絶対主義的な権力一元論を取る、所謂絶対王政の国である。主権は王にあり、平民の政治参加は認められていない。今の国王は名君であり基本的には善政を敷いているため民の不満はそこまで大きくないが、王が暗君であった時代には何度かクーデターが起き、その度に禁軍に鎮圧されているという歴史がある。
故に、権力分立を提唱する本はあまりシルヴィア王国では刷られない。……まあ家庭教師の持っていた本を盗み見て立てた推測にすぎないが、大きくは外れてはいないだろう。トップダウン式の国で権力分立は学者も唱えにくいだろうし。
シルヴィア王国の文明レベルは、地球で言うところの十九世紀後半ぐらいに感じられるのに、国はほぼ絶対王政と言える政治形態。向こうでは十九世紀といえば市民革命がとうに終わった時代なので、権力分立がされていない国家は時代遅れ感がある。生粋の地球人であったわたしとしては、なんだかアンバランスだなという印象だ。
「外国のご本、おもしろい? おにいさま」
……さて、そろそろじっとそばで張り付いて見ている妹にもさすがに気がついたのではなかろうか、兄よ。
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