第9話 崩壊
十一月三十日の朝。
メルテンス・クライラはリヒラテラをラドリエルに任せると、一万五千ほどの部隊を率いて街道を南西に進んでいた。
「見えてきませんね」
秘書のブリック・ボトルズが前方を見ながら首を傾げる。睡眠時間を四時間程度に減らして追い続けているのに、敵は全く見えてこない。
「相手は全員騎兵だからだろう」
「そうすると、オトゥケンイェルまで追いつけないことになりませんか?」
「それならそれでも構わん。執政官やバニヤが防いでいる後ろから攻撃できれば挟み撃ちにできるわけだからな」
「なるほど! そこには思い至りませんでした。さすが議員様でございます」
ブリックの追従にメルテンスは気を良くする。
「この戦いに勝てば、兵略について書物を残すこととしようか」
「それは良いかもしれませんな」
メルテンス隊の意気は最高潮に達しようとしていた。
半日が過ぎた。
「そろそろオトゥケンイェルの城壁が見えてくるかもしれませんな」
ボトルズの言葉を待つまでもなく、視線の先には森が見えてくる。あの森が見えるということは、オトゥケンイェルは間もなくということであった。
「うむ、あの森を越えるといよいよ敵軍がいるに違いない」
メルテンスの言葉に一同の緊張が高まる。
「いよいよだ。皆の者、気を引き締め直せよ。何せ、敵は死神とも言われている相手なのだからな」
檄を入れると、兵士達から「応!」という力強い反応があった。その反応に満足しながら、メルテンスは再度視線を前に向ける。
遠くにオトゥケンイェルのシルエットが見えてきた。しかし、まだ敵は見えてこない。
(外壁を回っているのだろうか?)
騎兵なので、城壁を一周しつつ攻撃をしていることは考えられる。
メルテンス隊が森に差し掛かった。
その時、突如として森の中から喚声があがり、無数の矢が飛んできた。
「何? まさか敵は森の中で待ち伏せを!?」
さすがにフェルディス軍がオトゥケンイェル近郊で待ち伏せしている可能性については考慮していなかった。
それだけにメルテンス隊も慌てて応戦を開始する。
幸いにして相手も慣れないのかそれほど強くないようで、奇襲を受けたもののそれほど動揺することなく持ちこたえている。しかし、しばらくすると。
「待て、向こうもホスフェの鎧をつけているぞ」
「本当だ。服も武器も同じではないか」
と、同士討ちをしていることに気づく。
「おーい! こちらはメルテンス・クライラの部隊だ。お前達はどこの者だ?」
冷静さを取り戻した者から相手を誰何する。
程なくして、相手側からも「こちらはバニヤ・ザフィータの部隊だ」という声があがった。
「バニヤだと!? 何故こんなところにいる?」
メルテンスが苛立ちを露わに相手に呼びかけた。しばらくすると、これまた不機嫌そうなバニヤ・ザフィータが姿を見せる。
「敵の一隊がオトゥケンイェルに近づいてくるという情報があったからな。ここで待ち伏せていただけだ。クライラ殿こそ、持ち場を離れて何をしているのだ?」
お互い、政敵ということもあってか、口調はかなり荒い。
「持ち場を離れてだと? こちらも相手が西に向かったというから、追いかけてきただけだ。そちらの部隊で止められるはずもないわけだからな……。あれ?」
この時点で初めて、メルテンスは疑問を感じた。
「バニヤ殿、敵兵はここには来ていないのか?」
「当然だ。そちらこそ一体どこを追いかけて……?」
バニヤもメルテンスの疑問に行きついたらしい。
片方が待ち伏せ、片方が追いかけていた。ということは、敵軍はその間にいたはずだ。
ところが待ち伏せていた者と、追いかけてきた者が鉢合わせになっている。
では、間にいたはずの敵は、どこに行ったのだ?
思い至った疑問の答えはすぐに判明した。
背後の方から喧噪の音が聞こえ、慌てふためいた騎兵が駆けつけてくる。
「後方から敵襲! 後方から……」
言葉を吐き終えるより早く、血の塊を吐き出し、馬首にもたれるように倒れ掛かる。その時初めて、背中に二本の矢が深々と突き刺さっていた。
「後方だと……?」
後方に視線を向けるまでもなく、異変が発生していることははっきりと分かった。旗が大きく揺れに揺れており、煙のようなものがもうもうと上がっている。
「……何故、後方に」
敵が後ろにいるということは分かった。しかし、何故後ろにいるのか、それが全く分からない。
「おい、クライラ殿、これは一体どういうことだ?」
「さ、さっぱり分からん……」
逡巡している間に、喧噪の音が近づいてくる。
街道から転げ落ちるように脇へと走り、そこから思い思いに逃げ回る味方の兵士を見て、ようやく敵が街道を回り込んで、自分達を先に行かせたという可能性に行き当たった。
しかし、どこで?
いつのまに?
「議員様、早く逃げ……!」
想像を巡らせていた一瞬が、ボトルズの叫び声に断ち切られる。視線を向けた先にはボトルズの姿はない。彼が先程まで乗っていた馬が恐慌状態で走り去ろうとしている姿が見えた。
そのそばで堂々たる体躯の禿げあがった男が斧を振り回して近づいてきている。大きな斧を振り回しているとは思えないほどみるみる距離が縮まってきた。
一万五千の兵がいたはずである。その隊列だけで数百メートルはあったはずだ。しかし、今、敵と自分との距離は僅かに十メートルくらいしかない。
「あ、あぁぁぁ……」
逃げなければならないという思いはもちろんある。しかし、体がすくみ上って動くことができない。
「た、助けてくれ!」
横から叫び声があがった。ドサッと倒れるような音がして、視線だけ向けると、バニヤが尻もちをついて、右手だけ顔を覆うように出している。
「た、頼む……。助けてくれ……」
というバニヤの命乞いをしている方向には、長身で長い槍をもった……いや、長い槍を既に突いている男がいた。
声にならない悲鳴が聞こえる。
視線を目の前に向けた。
先ほどの禿げ男が自分の眼前まで迫っており、「うおおお!」という怒号とともに既に斧を振りかぶっている。
(どうして、こんなことになったのだ?)
メルテンスは未だに状況が分からない。
(どうなっているのだ?)
空気を切る音がした。
(どうなって……?)
何かが裂けるような音がした。不思議と痛みは感じない。
(何故……?)
最後まで「何故?」と思いながら、メルテンスの意識は途絶えていった。
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