第8話 撤退戦①
チスカプラを占領したナイヴァル軍は、最後の要所・オラペンセクに向かうべく北へと進軍していた。
「この様子であれば、ソセロンが合流してくるまでに何とかなりそうだな……」
スメドア、ボーザら主力は全員、穏やかな様子で進軍している。
「スメドアの旦那、今日は何日でしたっけ?」
とはいえ、進軍も長いので段々、正確な日付が分からなくなってくる。
「八月二日だったと思うが……。うん? 後方が騒がしいような」
ボーザの言葉に答えたスメドアが後方を振り返った。
しばらくすると、先日降伏したコングマ族の若者が駆けつけてきた。手に手紙のようなものを持っている。
「……何だ?」
スメドアはけげんそうな視線を若者に向けたが、若者もよく分かっていないらしい。「急いでスメドアという人に渡してくれと頼まれた」とだけ言って、手紙を差し出す。
「誰からの手紙だ……?」
と受け取ったスメドアの顔つきが険しくなる。
「……リュインフェア?」
「えっ、あの一番下のお嬢ちゃん? どうかしたんですか?」
「中身も見ていないのに分かるはずがないだろう」
スメドアは手紙を開いた。既に険しい顔が、これ以上なく険しいものに変わる。さすがのボーザもその様子を見て、何やら余程のことが起きたと察したらしい。
「何があったんですか?」
「……義姉が死んだらしい。大至急戻ってきてくれということだ」
「義姉? シルヴィア様が!?」
「ああ、詳細までは書いていないが、サンウマは大変なことになっているらしい」
「大変なこと?」
「ああ、義姉の影響力は皆が思っている以上に強いからな。しかし、これはどうしたものかな……」
スメドアが顎を押さえて思案する。
「戻れと言うからには戻った方がいいんじゃないですか?」
「そんなことは分かっているが」
渋い顔つきで視線を北に向けた。
「全軍でいきなり戻ったとなれば、ソセロンとポゴマニ族が追撃してくる可能性がある。コングマ族らも完全に心服したわけではないから、複数の攻撃を受ける可能性が高い」
「あ、そういえば……」
「となると、後方に一部の部隊を残していく必要があるが」
ボーザの顔つきも渋いものに変わった。
「後方の部隊は壊滅する危険性を負わなければいけないということですか」
「そうなるな」
「もしかして、別動隊を率いるのって……」
スメドアに対して大至急戻れとある以上、スメドアは優先的に戻る必要がある。そうなると、残らなければならないのはその次の立場の人間となる。この遠征軍の副将はボーザであるから、必然ボーザということになる。
「……おまえは古株ではないからな。別の人間にしよう」
「い、いや、そういうわけにもいかんでしょう……」
「わざわざ死地に赴きたいのか?」
スメドアが呆れたような顔を向けた。ボーザは仏頂面極まりない顔で答える。
「死にたいわけはないですが、副将としての待遇を貰っておいて、やばい時には逃げますって訳にもいかんでしょう。アクルクアに派遣した若い連中にも示しがつきません」
「……本当にいいのか?」
「いや、繰り返しになりますけど、良くはないですけど、そうするしかないってやつですよ」
「……分かった。死ぬなよ」
「そういうこと言わないでくださいよ。余計嫌になるじゃないですか」
承諾しているが、泣きそうな顔でボーザは答えた。
四日後。
ボーザの率いる後方の部隊はチスカプラを目指してゆっくりと後退していた。
その数は七千。スメドアが一万三千を率いて戻り、その残りである。
「こんな街も村もないようなところが最後の地になるとは、な」
とぼやいているのは、共に残ることになったスニー・デリである。ボーザだけを残すことはスメドアにとっても寝覚めが悪いのであろう。デリとジェカ・スルートの二人も後方に残っている。
「いや、まあ、ひょっとすると、ソセロンもわざわざイルーゼン領内まで入って追いかけてくることはないかもしれないし。ハハハ」
と言った時、前方から伝令が戻ってきた。
「申し上げます。ソセロン軍とコングマ族は合流し、そのまま南下してきています!」
「ハハハ……」
ボーザの頭がガクリと落ちる。
「その数はおよそ八千。ソセロン軍六千に、コングマ族が二千人ほどでございます」
「ほぼ同じか……」
とはいえ、よく分からない事情で撤退を開始しているナイヴァル軍と、相手が撤退して意気上がっているだろうソセロン・コングマ連合軍である。士気その他では圧倒的に後者が有利なはずであった。
「……大将だったら、こういう時どうやるんだろうねぇ」
ボーザは付近を確認した。チスカプラの北は、平坦な丘陵地帯であり、機動力がキーとなりそうである。となると、歩兵主体のボーザの軍は苦しい。
(チスカプラの南には大小の丘があったし、あっちの方が布陣には良かっただろうか……)
後悔の念も生まれてくるが、今更どうすることもできない。
(チスカプラからの攻撃はないと信じよう)
可能性を考えれば、チスカプラから攻撃を受ける可能性もある。しかし、そこまで考えていたらキリがない。
(どの道、ソセロンが本気なら勝てないかもしれないんだし、な)
ボーザは少し高低のある場所を見つけると、低いところに歩兵を置き、高所に弓が得意なものを配置した。木などは生えていないが、持ち運んでいた輜重車などを壊して、簡易な柵を作成する。
「これで何とかなるとも思えんが、できることはやっておかないとな」
ボーザは溜息交じりに言い、待機態勢を整えた。
待機すること三日。
前方から無数の黒い三角旗が見えてきた。砂塵とともに騎兵が一斉に現れてくる。
「あれがソセロン軍か……。おっ?」
ボーザの視線が正面の一人に据えられた。赤と黄色がふんだんにちりばめられた派手な装束をまとい、頭には大きな白い美しいターバンを巻いている。その派手な服装だけではない。赤茶色の髪に、切れ長の目に宝石のような緑の瞳が輝く端正な容姿、ひときわ目を引く存在である。
「あれが悪魔のように美しいと言われているイスフィート・マウレティか……」
思わず嘆声を漏らした後、もう一つの異名を思い出して憂鬱になる。
(同時に、悪魔のように邪悪だとも言われているんだよな……)
イスフィートの端麗な容姿を眺めているうちに、ボーザは漫然と諦めの境地に至ってくる。
(俺、ここで死ぬんだろうなぁ……。考えたくなかったけれど、遺書を書いてスメドア様に渡しておけばよかったんだろうなぁ)
ボーザの脳裏には色々な光景が浮かび始めていた。
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