第17話

───真奈美とついに絶縁に至ってから、1ヶ月近くが経とうとしていた頃。


だんだんと真奈美のことを思い出すこともなくなり、私は気持ちを切り替えて前向きに日々の家事や子育てをこなしていた。



………つもりだった。



───言葉には、目に見えない魔力みたいなものが宿っているんじゃないか、と私は思う。


言霊ことだまという言葉があるぐらいだし、そんな魔力が宿った攻撃的な言葉を一度まともに受け止めてしまえば、忘れるのにはそうとうな時間がかかる場合もあると思うのだ。


そう、自分では忘れたつもりでいても、いつどんなことをキッカケにまたフラッシュバックするのかなんて……想像もつかない。



私の場合はやはり…


育児ストレスにさらされる瞬間だった。



───自分が望んで夫と決め、作り、産んだ子供たち3人。


可愛い反面、どうしようもない『お手上げ状態』の瞬間なんて挙げ出したらキリがない。


頭も手もいっぱいいっぱいで、心に余裕なんて持てない。


1日でいいから、朝から晩まで、何も考えずに何もせずに一人で過ごしたい。


誰にも邪魔されずに、好きなだけ眠りたい。


何でもいいから、ちゃんとイスに座ってゆっくりと味わってご飯が食べたい。


濁ってない、綺麗なお風呂のお湯に浸かって好きな入浴剤なんか入れたりして気が済むまでリラックスしたい。


1日でいいから。


そしたら、次の日からもっと頑張るから。


『好きで産んだくせに何言ってんの?』……そう言う人も世の中たくさんいる。


でも、そういうことじゃないんだよ。


毎日のことだから。


休日なんて1日もないから。


母親だって、人間だから。



───2才を過ぎた末っ子の次男は、まさしくちっちゃなモンスターだった。


自我が強く出始め、この世のものとは思えないほど可愛いくせに上の子たちに負けないぐらい激しい。


ワンパクでしかない小学生の長男と、男勝りな年中の娘、そしてちっちゃなモンスターで走り回って狭いリビングは運動場と化し、物は散乱を繰り返す。


兄弟喧嘩に発展したらまさに戦争だ。


「やめなさい!!」なんて一言怒鳴ってすんなりやめてくれるなら、世の中のお母さんはみんな苦労しないよね。(笑)


なんとか前向きになって頑張れる時もあれば、ひたすら疲れきって廃人になってしまいそうな日もある。


私は……ひどく疲れていたんだ。きっと。



ある日、母が久しぶりに家に来てくれた。


連休中で子供たちも勢揃いだったし、もちろん部屋の中は散らかりっぱなしだ。


「ちょっと、いくら子供がまだ小さいからって散らかりすぎじゃない?あんた、大変なのはわかるけどもうちょっと片付けなさいよー!」


母のそんな言葉がチクッと刺さった。


…そんなの、できるならとっくにそうしてるよ。

でもね、片付けた尻からまた子供たちに散らかされて汚されるんだってば。



『気持ちはわかるんだけどさ、子供のせいにしちゃダメじゃん(笑)』



……うるさい。


 

真奈美に言われたことが、怖いほど鮮明に脳内で再生され始めた…



「お母さんこないだ愛子(姉)の家に行ってきたんやけど、愛子も仕事が忙しそうで大変な中ちゃんと部屋も綺麗にしてるで!」


悪気のない、母からのいらない情報。


お姉ちゃんは看護師やもんね、大変やのに偉いね。

でも、お姉ちゃんのとこは中学生と小学校高学年の娘二人だけでしょ?

うちみたいに、部屋中汚して荒らされるなんてこともないやん。



『みんな大変な中、それでも明るく前向きに頑張ってるんだよ!』


『サエみたいに育ち盛りの子供育てながら起業してる人もたくさんいるんだよ。

みんな、子供のために仕事も頑張っててすごいんだよ!』



……うるさい、だまれ。



『そんなに大変なの?なんか、私の周りって“あんまり子育てが大変だとは思わない”って子が多いんだよね…』



うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!!!!



『私の周りの尊敬できるお母さんたちとサエがあまりにも違いすぎて、前から心配やってん!それは今回も見てて思ったから、それだけはわかってね!』


『サエは子供がいるとかどうとかの前に、一人の女性として自分と向き合う必要があると思います。それが、私のサエへの率直な思いです。』



……そうか。


私って、ダメな母親なんやわ、きっと。


だから子供たちも言うこと聞いてくれなくて、部屋も散らかって、それでこんなにもイライラして、怒鳴り散らして、騒音と子供の泣き叫ぶ声にひたすら耳を塞ぎ続けて……



───でもね。



真奈美あんたなんかに、一体私の何がわかるっていうんだ!!!!



───気がつけば、小言を言いながらも部屋を片付けてくれていた母に向かって私は…



声を荒げて、怒鳴りつけていた。



「うるさいねん!!もう黙ってよ!!普段何も手伝ってもくれへんくせに……何も知らんくせに好き勝手文句ばっかり…!!

私はちゃんとやってる!!

洗濯も、掃除も、洗い物も、買い物も、料理も、子供の学校行事も、子育ても!!!

誰の手も借りんと全部!自分でやってるやんか!!

それやのに、私に一体何が足らんっていうんよ!!!」



ポカンと口を開いて呆然とする母を、私はさらに責め立てた。



「お姉ちゃんのとこはいいよな!!

娘二人はもう大きくてしっかり者で手もかからへんし、旦那さんも夕方には帰ってきてくれるし!

だから看護師っていう立派な仕事だって好きにできてるんやろ!!

そりゃあ、あんな広い新築の一戸建てにも住めて当然やん!

うちには一生無理やわ!!

自分のやりたいことがあったとしても、それ以外の負担が大き過ぎて私にはできへんねん!!

だからもう比べんといてよ!!!」




───その瞬間、私は思い知ってしまった。


『言葉』という凶器が持つ、その破壊力を…



『でもねサエ、本当に幸せだったら、周りと比べたりしないと思うよ…。』



───それは、静かにその細い刃先で私の胸を貫き、私自身に虚しい納得をもたらした。



そう…やな。

……その通りやわ。


私、幸せじゃないんやわ。


…なんでなんやろうね。


子供たちも明るくて健康で、浮気もしない真面目な旦那とも仲は良いし、衣食住に困ることない生活だってできてるのに。


……それやのに、なんで私は幸せじゃないの?


───自分自身が、何かに蝕まれていく感覚を、私はこの時確かに感じたのだ。



こんな奴が母親で、子供たちも可哀想やな。

子は親を選べないから…。


私、なんで母親なんかになったんやろう。


世の中、いくら子供が欲しくても恵まれない人だっていっぱいいるのに…


そんな人たちからしたら、私みたいなクズみたいな母親なんて心底ムカつくんやろうな。


ああ……こんなこと考えてる時点でほんま、私ってダメな母親。


生きてる価値、ある?


……………。



───死にたい。



そう思うようになってから、私は…


不眠症にくわえてご飯がまともに食べられなくなり、1ヶ月で10kg近く体重が落ちた。


間違った痩せ方をしたその顔は不健康そのものだったらしく、夫から何度も病院に行くように勧められた。


そんな中、長男の入学当時からお世話になっていたスクールカウンセリングの相談の時期がやってきた。


発達障害というわけではない長男だけど、『授業中に席を立ち上がって他のことをしようとする』などといった所見を懇談会の時に担任から聞いて以来、長男がいろいろと気がかりだった私は…長男について学校専属の無料カウンセリングを定期的に受けていたのだった。


長男の家庭での様子や、学校でもどんなふうに取り組めているのかをカウンセラーさんに話して、心配事の解決に向かう目的だ。


カウンセラーさんは私の姉と同い年の3つ年上の女性で、半分は友達か姉妹のような関係でいられました。


そんなカウンセラーさんと数ヶ月ぶりに会った時、部屋に入って挨拶した途端にやはり、私の変化に気づかれたようだった。


「……痩せたね?」


そう聞かれ、『ダイエットしてるから』と答えた。


そして、長男についての相談をしているうちに、いつの間にか時間枠がいっぱいになってしまっていた。


話もまとまったのでそろそろ帰ろうかと思い、帰り支度をしていた時…



「ねぇ、もしも子育て以外のことで何か悩んでることがあるんだったら…今、話してもらえないかな?」



唐突にそう持ちかけられ、私は戸惑った。



自分自身、何について『悩んでいる』のかがわからなかったからだ。


しかし、漠然とした不安感や恐怖が影のように付き纏っているのは確かであり、それから逃れたいと願う自分も確かにいたのだ。


そして、私は…


重いその口を開いた。



「私……できることなら、消えてなくなりたいんです。

私みたいな母親の元で育つ子供たちが可哀想だから。

でも、子供たちを残していなくなるなんてこともできなくて……どうすることもできなくて、辛いんです。」



それを聞いたカウンセラーさんは、私にこう訊き返しました。



「あなたはなぜ、自分のことをそんなふうに思ってるの?その理由はある?」



すぐには答えられなかったけど、一番先に出てきたのは自分自身への劣等感だった。



「それは…私が単純に、ダメ人間だからです。

外で人並みに働く根性もないし、かといって子育てもうまくできない。

自分が感じてる不満ですら子供のせいにして……世の中の『お母さん』はもっともっと大変な環境でも前向きに頑張ってるのに、私はなんで同じようにできないんやろうって…!私、どこかおかしいんですよ。他人から指摘されて、やっとそんな自分に気づいたんです。」



真奈美の存在が、再び私の中にその暗い影を落とした。



「…その『他人』って、誰のことですか?あなたのことをよく知ってる人?もし言いたくないのなら無理はしないでいいけど、話せるなら話してみて?」



しばらく相槌を打っているだけだったカウンセラーさんにそう訊かれ、私はしばらく口を閉ざした。


なんとなく、言葉にするのが怖いのだ。


思い出したくもないことをまた思い出し、それを口にするという恐怖──。


救われたいのに、怖い。


『そんなことでクヨクヨ悩んでるの?』なんて、思われたくない…。


そんな私でも、カウンセラーさんの言葉に導かれることとなるのだ。



「人が抱えるトラウマというものに、重いも軽いもないんですよ。でも、あなたはこうして私に会いに来て話してくれた。おそらく食事もまともに摂れなくて、睡眠も十分に取れていないのにも関わらずね。だから、私はあなたを助けたい。助けさせてもらえないかな?」


それは、まさに差し伸べられた救いの手だった。


カウンセラーさんによれば、専門は子供の教育に関するスクールカウンセラーだけど、心理学についてはいろんな分野を学ぶ機会も多いのだそう。


そして、『子供の心の健康を保つには、まずは母親の心の健康が第一』だということ。


そんなアドバイスに納得した私は、真奈美との関係性と一連の出来事を包み隠さず話し始めた。


真奈美とのLINEの履歴画面を直接見せながら。


───そして、だいたいのことを掴んだカウンセラーさんから出た言葉は、私にとってはまったく聞き慣れない言葉だったのだ。



「あまりにも露骨なマウント…マウンティング行為ですね。それも、かなり毒性が強い。」



……マウント?マウンティング?



初めて聞いたそのワードについて、カウンセラーさんは順を追って説明してくれた。


これにより、私は思いもよらない形で『真奈美』という一人の女性の心の闇を知ることとなり…


マイナスへと落ち込んでいた自らの自己肯定感を取り戻すことになるのだ───。

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