第10話

義実家とも晴れて疎遠になれた。

だがしかし、当時3才の長男と生まれたばかりの長女のワンオペ育児となると時々こう思うようになった。


『もし義実家がもっとマトモでそれなりにうまくやっていたら、子供を預かってもらえたりして、たまには息抜きできたのかな?』…と。


夫は当時長距離ドライバーの仕事をしていたので、帰ってくるのは三日に一回だった。

帰ってきたら子供たちのことは相手になって可愛がってくれたけれど、やはり疲れているのでほとんど寝て過ごし、また仕事に出る。


両親は離婚していて、一人暮らしをしている実母は仕事を掛け持ちしている。

自分のことで精一杯だと言われてしまったこともあり、頼ることなどできない。

乳癌を患って手術して以来、どちらかといえば私が実母の通院などのサポート役になっていた。

それでもたまに手伝いに来てくれた時には大感謝だった。


そして仲良くなるママ友は、みんな子育てしながら子供を預けて仕事をしていた。


「私は家でずっと子供と向き合ってるのが性に合わないタイプだから、仕事がいい気分転換になってるよ」


ママ友のそんな言葉を聞いて、私も自分の現状を変えてみようと決意したのだ。

それに、私にも子育て以外に誇れるものが欲しかった。

家で子育てしかしていないのに、その子育てすらうまくいかなくてストレスを溜めている…そんな自分に自信が持てず、あまり好きではなかったのだから。

そして、家計が少しでも潤うのならば一石二鳥だと考えたのだ。


保育園が満員で中途入園はできなかったので、4才と1才の子供を預けられる託児所付きの倉庫で働き始めた。

求人広告でもよく目にする、ピッキング作業や検品、梱包なんかの仕事だが、派遣ではなくてパート社員として入った。

朝9時から夕方5時までのフルタイム勤務で、時給は920円の週休二日制だ。

かなり海の方の工業地帯に職場があるため、交通手段は自転車とバスだった。

子供たちを乗せて自転車で30分かけて指定の駅へ向かい、駅と職場を行き来する社員バスに乗って職場に到着する。

バス内には他の子連れの社員さんもいたので、子供が泣いたりしても周りに気を遣いすぎることもなかった。

しかし、帰りとなればひたすら焦りと時間との戦いだった。

本来なら残業は普通だが、私は子供がいる主婦ということで5時の定時上がりにしてもらっていた。

それから託児所に子供たちを迎えに行き、買い物をして帰ればもう夜の7時を過ぎている。

もうクタクタで料理なんてする気にもなれなかった。

休みの日に作り置きしていたオカズなんてすぐに消費してしまう。

朝寝坊して食器洗いをすっ飛ばしてしまった日なんかは、まずは台所を片付けないと料理もクソもない。

「ごめんなぁ、今日だけ許してー」なんて言いながら、レトルトカレーや冷凍食品を食卓に並べた夜も決して少なくはない。


そして、その頃から私は薄々と感じていた。


『別にやりたかったわけでもない仕事のために、子供たちに満足にご飯も作ってやれないのが本当に“なりたい自分”だったのか?』と。


職場が遠すぎるのも、体力仕事なのも、勤務時間が長すぎるのも、選択ミスだったと気づいた。

保育園の申し込みをして4月から子供を預けられるようになったタイミングで、私は倉庫の仕事を辞めた。


そして、次に始めたのはスーパーのレジ係だった。

朝9時から昼2時までのシフト制だから、家事育児との両立もそこまで苦にならなかった。

高校生の頃にバイトの経験があったので、仕事自体の飲み込みは早い方だったと思う。

他県にある他店舗での新人研修にも行った。

おまけに、自宅からもそこそこ近くて保育園にも近い。

頑張ってみようと思った。

……が、しかし。

その職場こそが、私が自分のメンタルの弱さを痛感するキッカケとなったのだ。


2才の長女はしょっちゅう保育園で病気をもらうようになり、仕事中に迎えの電話がかかってくることも少なくはなかった。

私にとって、1ヶ月皆勤できただけでその達成感は相当なものだったのだ。

そんな私のことを理解してくれる人ももちろんいたが、そうではない人がいた。

部門リーダーとお局だ。

ちなみにリーダーは未婚、そしてお局はバツイチ。


「そんなに熱ばかり出すなんて、あなたの子供ちょっとおかしいんじゃないの?」


ハッキリ私にそう言ったリーダーにはもう、仕事以外のことで二度と話しかけまいと決めた。


そしてお局だ。

まず、こちらから挨拶しても無視が基本なのだ。

「おはようございます」、「お疲れ様です」

そんな社会人として当たり前の挨拶すらできない50過ぎのお局。

私は意地でも懲りずに毎日挨拶してやった。


しかし、そんな日々が続けば続くほど仕事に行くのが嫌になってきてしまった。

子供の病気で早退や欠勤をするたびに嫌な顔をされ、頭を下げ、仕事で返そうと頑張ってみても一旦始まった嫌がらせが無くなることもない。

そして、お局が陰で私の悪口を言いふらしていたことを知った時、わりとすぐに『こんな所もう辞めよう』と思えた。


小さな子供を持つ働くお母さんならば、誰もが通る道だろう。

悪口を言われるところまでいかなくとも、子供の病欠などで周りに気を遣って疲れてしまうことはあるだろう。

しかし、それはみんな自分自身のリスクを理解して辛抱しているのだ。

辛いことなんてきっと山ほどあるに違いない。

それでもみんな割り切って頑張ってるのに。

シングルマザーの人なんて、自分一人で子供との生活を支えてるっていうのに。


仕事を辞め、再び専業主婦に戻ってすぐ、私は自己嫌悪に陥った。


『なぜ私は周りの人たちと同じようにできないんだろう』

『私が精神的に弱すぎるから?』

『結局私は、養ってもらえてる旦那に甘えてるだけなんじゃないのか?』

『もし旦那と離婚したり、最悪旦那を亡くしてしまったりしたらどうするつもり?まともに働けるの?』


…と、そんな自分を責める日が続いた。

そしてある日、夫は私にこう言った。


「別に仕事したくないなら無理にしなくていいと思う。子育てや家事だって立派な仕事だよ。俺には真似できないから」


仕事をしたくないんじゃない。

したいけど、できないんだ。

やりたい仕事も手に職もなく、要領も悪くて他人の目を気にしてしまい、嫌なことがあると引きずってしまう性格の私には…社会的な居場所なんてない。


昔から私はこうだった。

だから…


──歯科衛生士として、一つの仕事に生きて社会的に自立している親友の真奈美のことがずっと羨ましかった。


上から目線で嫌なことを言われたりしても、やっぱり一人の人間として私はずっと劣等感を抱いていたのだ。

そんな自分のことがこの上なく嫌いだった。


でも、私には可愛い子供たちもいるし、なんだかんだで私のことを想ってくれている夫がいる。


それだけで充分なのだ。


できないことはもう『できないこと』のままでいいと思うようになった。

私は主婦で母親なのだから、子供たちと家族の生活のために生きていく…それでいい。


やがて長男が小学校に上がった頃、3人目の次男を妊娠、出産した。


子供たちはみんな可愛い。

自分の命なんて何回でも投げ出せるほど大切な宝物だ。

子供とのコミュニケーションなんて、まさに笑えるネタの宝庫。

生まれた直後から親を癒やしてくれるうえに、笑かしにかかってくる。


そして、何よりも私が子供たちに感謝すべきことは、五体満足で生まれてきてくれて、大きな怪我や病気もすることなく健康に育ってくれていること。


──だから、私は恵まれている。


世の中、もっともっと大変な境遇の中子供を育てている人だって山ほどいるのだから。


そう頭ではわかっていても、毎日の中で小さなストレスは蓄積されていった。

可愛いだけなら、世の中の母親はみんな苦労しないだろう。


末っ子が1才半を過ぎた頃から、部屋の中は掃除しても意味がなくなった。

トイレに行って戻れば、台所の棚の中の米びつを荒らされて床に生米でできたお砂場が広がっている。

棚の扉に何度も付け替えたチャイルドロックは、いとも簡単にぶち壊される。

ため息をつきながら静かに後始末をする時もあれば、末っ子をまったく見ないでゲームに夢中の上の子供たちに怒鳴り散らす時もあった。


幸せと楽しさが70%、イライラとストレスが30%といったところか。


そんなある日の真っ昼間、私のスマホがメッセージの受信を知らせた。


──真奈美からだった。


真奈美とは年末年始の挨拶だったり、LINEで軽く近況報告をし合うぐらいの関係になっていた。

何年も会うどころかじっくり話したこともなかったので、私は感覚的に思った。


『さすがにもう昔のように嫌なことを言われることもないだろう』


確かにあの頃の真奈美には嫉妬心があったのかもしれないが、もう過去のことなのだ。


──30歳を過ぎた私と友人の真奈美。

既婚の専業主婦で子育て中の私…そして未婚でバリバリ働く真奈美。


いまだにくすぶり続けていた悪意が向けられ、スマホの画面を流れる文字の羅列によって自己肯定感がゼロになってしまうことなどつゆ知らず、私はスマホを手に取るのだった───。





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