変わってしまった関係
詠月
変わってしまった関係
「お前は僕を知らないよ」
あの日。そう告げた彼の瞳を、俺は今でも鮮明に覚えている。
「は……知らないってどういう意味だよ」
突然の言葉に訳がわからず聞き返した俺に彼は、そのままの意味だよと答えた。いつも柔らかい微笑みを浮かべているその瞳には静かな光が宿っていて。
それを見た時から、何だか嫌な予感がしていたんだ。
「ねえ彰人」
彼は目を細めた。決心したように口を開く。
「僕はね――」
◆◆◆
「おーい松崎、そっちボール行ったぞ!」
クラスメイトの声にハッと我に返る。
目の前に転がってきたサッカーボール。物凄い勢いで迫ってくる敵チームの連中に俺は慌てて動き出した。
残り時間はあと僅か。もう回ってこないだろう、という予想は外れたようだ。
試合終了のホイッスルが響く直前なんとかシュートを決め汗を拭う。
「松崎」
顧問の声で片付けを始める部員達の合間を縫ってやって来たのは、同じニ年の堀川だった。
「試合中に考え事なんて珍しいな、どしたの」
バレてたかと俺は苦笑いした。
「いや何も。ちょっと昔を思い出してた」
「なんだそれ」
片付けを一年に任せ部室へと向かう。
歩き出しながら俺は何気なく空を見上げた。夏らしくじりじりと照り付ける太陽。それがあの日の光景と重なって俺は目を細めた。
今頃、彼はどこにいるのだろう。
三年前、何も言わずに突然姿を消した親友……いや、幼馴染み。
『僕はね――』
俺は今も、あの日の彼の言葉に囚われたままだった。
「お疲れ、明日の練習試合サボんなよ」
「わかってるって。じゃあな」
着替えと終礼を終え校門で駅を目指す堀川たちと別れる。途端に静かになるこの時間に俺はもう慣れていた。この日常に。隣の何もない空間に。
当たり前は変わった。
だから。
「……なんで」
俺は足を止めた。
辿り着いた自宅。その門に背を預けスマホに視線を落としている人物に俺の目は釘付けになった。
記憶よりも伸びた身長に見知らぬ制服。気配に気づいて上げられた瞳に浮かぶ落ち着いた光。
「久しぶり、彰人」
彼は……瑞希はあの頃と変わらない表情で微笑む。
俺は何も発する事ができなかった。
頭の中では言いたかった事がぐるぐると回っているというのに。
そんな俺を見て瑞希は笑う。
「なに、そんなに驚いたの。もう僕が二度と帰ってこないとでも思ってた?」
思っていた。だってお前は……
そこまで考えたところで馬鹿馬鹿しくなりやめた。どんな理由があろうと文句の一つくらい言わないと気が済まない。
瑞希に詰め寄りその肩を掴む。
「瑞希、何で急に消えたんだよ。俺はなあ!」
「あーはいはい、その話は今度ね」
「そう言ってお前絶対言わない気だろ!」
逃がさないぞと力を込めた俺に瑞希はまた笑って。
あっさりと俺の手を払った。
◆◆◆
本当に、瑞希は戻ってきた。
「橘瑞希です。よろしく」
昔と同じですぐに周りには人が集まってきている。この光景も懐かしい。
空白だった三年間なんてまるで存在しなかったかのように。
瑞希はあっという間に俺の時を埋めていった。
「なあ松崎、橘と知り合いってまじ?」
放課後の部活中。同じサッカー部に入った瑞希がコートでボールを追っている。
その姿を特に理由もなく眺めながら休憩していた俺は、隣に並んだ堀川の問いにああと頷く。
「……幼馴染み」
「へー」
意外そうな堀川にだろうなと心の中で賛同する。
瑞希と俺は正反対だ。
人望が厚く勉強も運動も何でもできる瑞希、対して俺はサッカーしか能のない凡人。幼馴染みでなかったら俺たちは一生関わる事のなかったはず。
「じゃあなんで転校生なんだ?」
「さあ」
「さあって何だよ、幼馴染みなんだろ?」
知らないものは知らない。
「いろいろあるんだよ」
休憩終了の号令にタオルを置き立ち上がる。入れ替わりになる瑞希がすれ違いざまに俺の肩を叩いた。
「僕シュート三本ね。頑張れ」
「はあっ?」
これ練習試合じゃなくて普通の練習だぞ。
しかもお前のポジションそんな華じゃないだろ、と内心で呟くうちに瑞希はニヤリと笑って休憩に入ってしまった。
「うわ、お前らバチバチのライバルじゃん」
堀川の面白げな視線に肩をすくめる。
「どうだろな」
俺は瑞希にとって何なのだろう。
きっとこの答えもまた、見つからない。
◆◆◆
「今日も僕の勝ちね」
「普通の練習でシュート取りに行くなよ……」
練習試合や大会ならともかく、普通の時は自分のポジションの練習をしろ。
そう言えば瑞希は別にいいじゃんと悪びれもせずに歩みを再開した。思わずため息をつく。
「お前マイペースなとこは変わらないな」
良い意味でも悪い意味でも、自分の世界へと周りを巻き込んでいく。
俺にはできない。
全部瑞希だからできる事。
「……すごいな」
前を歩く瑞希が突然ピタリと動きを止めた。
どんな表情を浮かべているのかは見えない。
「彰人もさ、そういうとこ変わってないね」
瑞希は振り返った。
「何もわかってないくせに他人を誉めるとこ」
戸惑う俺をよそに。あの忘れもしない光を瞳に宿して、彼は立っていた。
目の前にいる瑞希の姿があの時と重なっていく。
彼はゆっくりと口を開いた。
あの日と同じ。
「ねえ彰人」
あの日と。
「僕はね……」
あの時と。
「彰人の事が大嫌いなんだ」
……ほら、また。
俺はぎゅっと拳を握った。
『僕はね、お前が大嫌いなんだよ』
二度目のはずなのに。その言葉に息がつまる。
「っ……だから、消えたのか?」
ここから。俺の前から。
「理由は俺が嫌だから?」
「そんな訳ないじゃん。第一この程度の理由で何かするなんて無理だし」
その自然な口調がひどく場違いに感じた。
「……なんでだよ」
俺は問い詰めるような目を彼に向けた。
「それは彰人を嫌いな事と消えた事の、どっちに対する疑問?」
「両方」
「欲張りだねえ」
「いいから」
ヘラヘラとふざけた笑顔に苛ついて声が冷たさを帯びる。自分でも止められそうにない。
「答えろよ、瑞希」
何もわからないのが嫌だった。
あの時の瑞希は嫌いと言って消えた。ショックだった。親友だと、思っていた。
何度も瑞希の言葉が頭に響いて離れず同時に腹立たしくも感じた。わざわざ告げた意図も理由もわからないままで。どうすればいいんだと怒鳴りたかった。
「三年待ったんだ。いい加減説明しろよ」
はあ、と瑞希はわざとらしくため息をつく。
「そこまで大袈裟な話じゃないんだけど。伝えなかっただけで事実ただの親の転勤だし」
「だからなんで言わなかったんだよ」
「別にわざわざ言う必要なくない?」
「あるだろっ!」
「ないよ」
憐れむような冷たい目。
「お前の事嫌いって言ったじゃん」
ゾクッと背筋が震えた。
「ね、僕がお前を嫌いなのなんでだと思う?」
「……さあ」
「だろうね。彰人にとっては普通だもんね」
俺を見て瑞希は笑った。
「何でも持ってるから」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
何でも持ってる?
俺が?
俺よりも瑞希の方ができる事は多い。勉強も運動も。サッカーだって遅くから始めたくせにどんどん上手くなって。
「何言ってるんだよ、俺よりお前の方が……」
「そうだよ。僕の方ができる。今はね」
だってそうなるように必死だったから、と瑞希は続けた。
「僕はできるようになるまで時間がかかるんだよ。必死に努力しないとできない。でも」
泣いているような。そんな光が瞳で揺れた。
「彰人は全部始めからできてる。僕は無理なのに。そんな奴がずっと隣にいる僕の気持ちなんてわからないでしょ。それなのに……すごいって何さ。馬鹿にしてる訳?」
激情を無理やり抑え込むように笑った瑞希は。
「……だから僕は、お前が嫌い」
静かに俺を見つめた。
もう俺たちは親友には戻れないのだと、そう悟った。
いや、俺が勝手にそう思っていただけで親友だった時なんて本当はなかったのだ。
瑞希にとって俺は、そんなに大切な存在ではなかった。
「……俺は、」
「わかってる」
わかってるからと瑞希は俺の言葉を遮る。
「わかってる。これは僕の勝手な話だって。わかってる。だから今のままでいい」
「……」
「今まで通り。これからも何も変わらないよ」
変わらない、訳がないだろ。
そう言いたいのを俺はグッと堪えた。
人々が行き交う夕暮れの住宅街。
俺たちの間に流れた時間は、これまでになく重かった。
変わってしまった関係 詠月 @Yozuki01
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