薄明の空

三夏ふみ

薄明の空

あかりは一人、ピアノの前に静かに座り、目を閉じた。


開けた窓からは、カーテンを揺らす風に乗って、生徒達の声が聞こる。

校庭から力強く叫び自らを震える立たせる声、窓の下からは花が咲いた様な笑い声が通り過ぎ、廊下の奥の図書室からはただ無心に学ぶ、その息使いさえも、聞こえて来るようだ。

その音達を感じたまま、指先を鍵盤へと落とす。


ゆっくりと、ゆっくりと。


音達が溶けて混ざり合うように、豊かに響くその音色が、ピアノから溢れ出し、音楽室を満たしてゆき、やがて開け放たれた窓からも広がっていく、どこまでも。

まるで全てを包み込むように、いま、この瞬間を内包して、そっと、ぎゅっと、抱きしめるように。

静かに、ただ静かに。



階段を鳴らす甲高い足音、その勢いのまま廊下を進み、音楽室の扉を開ける。

胸まである明るい髪を贅沢に下ろし、白のニットにタイトなジーンズ、黒のファーコートに身を包んだ姿はまるでモデルだ。だが、その容姿だけではない、彼女はなにかを纏っている、圧倒的な存在感、街を歩けば誰もが振り返り魅入られる、“美”が具現化したような存在。

そんな個の塊が迷わず向かってきて、あかりが座るピアノの前で止まる

「貴方、こんな所でなにしてるの?」

美しい唇から静かに発せられた言葉は、矢のようにあかりに放たれる。

「あっ、えっと、合唱部の子達に伴奏を頼まれて、その練習を…」

ピアノが乱暴に鳴り、音が音楽室の壁に叩きつけられる。

「そんな事を聞いてるんじゃない」

苛立った声でそう言うと、手に持っていたコピー用紙をピアノに広げた、そこには『天海真子ピアノコンクール』と書かれた見出しと、何十人かの名前が羅列してあった。

「招待状、届いてるはずだけど。なんで貴方の名前が無いの。コンクールのエントリーは明日までよ」

その真っ直ぐな問い掛けから逃れるように、あかりは窓へと席を立つ

「答えなさい」

「相変わらずね、欄ちゃんは」

振り向き弱々しく笑顔を作る

「もう無理よ、コンクールなんて、私には弾けないわ」

「うそよ、さっき聞いたソナタ、あの音色はピアノを諦めた人から出る音色じゃない」


「先生さようなら〜」

窓際に立ったあかりを見つけた生徒が、手を降る。それに答えて、手を振り返す

「先生の作ったコンクール、今年は約束の10年目よ、志帆もドイツから帰っくるわ」

あかりは窓際に立って黙ったまま、外を見つめている

「忘れたなんて言わせないわよ、私達の為に先生がどんな思いでコンクールを作ったか、貴方には出る義務がある」

欄の眼差しはピアノに向かうそれと同じで、真剣そのものだ。

「ねぇ覚えてる、卒園式の前日、遊戯室のグランドピアノをどうしても弾きたいって、あなたが言い出して、3人でこっそり忍び込んだの。あなたが真ん中に座って得げに弾き出すの、志帆ちゃんも、いつもみたいニコニコして弾き出して」

欄は黙ったまま、あかりを見つめている

「私はドキドキしてた。勝手にピアノを弾いたことじゃなくて、二人の演奏に。二人共、私と変わらない背丈なのに、すごく奇麗で、凄く力強くて、それでいて優しいピアノの音色に。でも私はどうしていいか分からなかった、目の前にピアノがあって手を伸ばせば届くのに、でも、どうしても弾けなかった」

風があかりの髪を優しく抜けていく

「でも、あなたが、あかりちゃんもひいて、って私の手を取って、そして鍵盤に触れたの。あの時、あの時なの、私が始まったのは。本当に楽しかった、3人で弾いた3連弾」

窓の外を紅く日が染めていく

「その後、私はピアノに夢中になった。本当に楽しくて、ピアノは私の全てだって思えるくらい。でもね、あの人が居なくなって、あの人に会えなくなって、私の中から音が消えたの、あんなに好きで自分自身って思えるほどだったのに、消えてしまったの。なのにまだ私はピアノにしがみついてる。音なんて遠の昔にどこかに行ってしまったのに、私の身体はまだピアノを求めてる。私は、」

いつの間にか近づいていた欄が、あかりを抱きしめた。

あかりは泣いていた。涙を流し、それでも前を向いたまま

「わたしは、」

「もういいよ、もういいから」

その声であかりは顔をくしゃくしゃにして泣き出した、ただ泣いた、迷子の子供のように。



欄は黒い車に乗り込む

「どうでしたか、お嬢様」

運転席の山岸が問いかける、がバックミラーの欄は黙ったまま窓の外を見つめている。

山岸は車のエンジンをかけ、静かにアクセルを踏んだ


「待って」

欄が声をかけ窓を下げる。

微かに聞こえるピアノの音色。

静かに、優しく、そして力強く。

ついた時に流れていた、あの音色とは全く違うその音は、山岸にも分かった。

空の一点をじっと見つめたまま。

やがて、笑い出しす欄。大きく、涙を流す程に。

「山岸、出して」

「よろしいのですか」

「えぇ、もう大丈夫よ」

窓を開けたまま走り出す車は風をうけ、欄の髪をなびかせる。

晴れやかな顔の欄が見上げ空は、いつの間にか日が暮れ、薄明はくめいに染まっていた。

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薄明の空 三夏ふみ @BUNZI

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