帰りたい世界があるから

稲荷竜

第1話

 未だ戻れない世界のことを思い出す。


 それは大晦日の日のことだった。


 その時の俺は、除夜の鐘が鳴り終わるころ頭の中にうずまく雑念がすっかり消え去っていればいいなと願っていた。


 恋人ができて初めて迎える大晦日だったんだ。


 初詣には行かない。年越しそばも食べない。でも、ボイスチャットをしながら生放送で流れる除夜の鐘を二人で聞いていた。


 その気になればすぐに顔を合わせられる距離にお互い住んでいた。

 でも、俺たちは会って新年を迎えようとは約束しなかった。


 向こうがどういう意図かはわからないけれど、俺にとってはありがたいことだ。


 浮気。


 最近の俺が彼女のことを思い返すたびセットになって頭によぎるのはそんな言葉で、ようするに俺は、彼女と、彼女の部活の先輩との浮気を疑っていた。


 たぶん勘違いで、ちゃんと話を聞けば『杞憂だった。疑って申し訳なかった』という結論が出るんだと思う。


 でも、なかなか、直接は聞けない。


 だからたぶん、なにかきっかけがほしかっただけなんだと思う。

 これ以上引っ張ったら限界で、でも踏ん切りがつかないから、除夜の鐘の最後のひと突きをもってうじうじ悩む時間を終わらせようと、そういうことを考えているんだろう。


 ごぉん、ごぉんと鐘が鳴る。


 俺たちは無言のままだった。


 鐘の音になんだか夢中になってしまっているのかもしれなかったし、お互いの腹の中に言葉を交わすのを邪魔する『なにか』があって、それが声の一つも発せられなくさせているのかもなんて邪推もしてしまう。


 俺の側にはなんの問題もなくて、恋人として人に誇れる男だ━━だなんて傲慢なことは到底言えなかった。


 俺たちは幼なじみで、なんでも言い合える仲で、でも、不思議なことに、付き合い始めてからというもの、距離が遠ざかったというか、隠し事が増えたというか、そういう感じがあった。


 俺は彼女を裏切るようなことはしていないけれど、彼女が俺の行動一つ一つをどう感じているかまでは、わからない。


 ごぉん、ごぉん、と、鐘が、鳴る。


 気まずい沈黙のせいで鐘の回数カウントははかどった。

 

 すでに九十回を超えた鐘の音がすっかり鳴り終えたころ、俺たちのあいだにある薄く、しかし強固で、思い切り突き破ろうとしても奇妙な感触でこちらからの働きかけをすっかり無効にしてしまうみたいな、そんな見えない壁が消えさってくれてればいいなと願った。


 だから俺は、


「あのさ」


「……うん」


 百五、百六。


 ごぉん、と響く鐘の音は去年までお茶の間のBGMだった。


 聞くともなしに聞いていたどうでもよかったはずの音は、今年に限ってやけに腹に響くものになっている気がした。


「……二人で並んで、見よう。初日の出」


 百七。


 彼女は一瞬息を飲んで、


「うん!」


 百八。


 ━━その瞬間、世界が真っ白になった。



 ……これは、戻れない世界の、果たせていない約束の話だ。


 その日俺は、初日の出より早く異世界へと送り込まれた。


 きっと約束を果たそうと願って、今も異世界をさまよい、帰る方法を探し続けている。

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