温かくて優しい地獄

丸 子

第1話

もう長くはないな…。


身体が教えてくれている。

全身が痛くて苦しくつらい。

「もう楽になってしまいたい」

そう言ってしまいたくなる。


でも、この老いぼれの手を必死に掴んでくれている存在がある。

血色が良く艶やかな手。

生命力溢れる握力。


まだ28歳の妻だ。


82歳の老いぼれのところによく来てくれた。

「財産目当てだ」などと言う輩がいたが、財産などない。

あるのは隙間風吹く古家と老猫のみ。

年金で細々と暮らしていた。

とても財産と呼べるものではない。

財産もないが借金もない。


一人暮らしの老人のところを見廻るのが彼女の仕事だった。

市役所から「担当になった」と挨拶にきてから月に一度うちに立ち寄るようになった。

最初の数ヶ月は役人と二人で来ていたが、彼女が一人で来るようになり、わたしが宅配弁当を毎日食べているのを知ると、手作りの弁当を持ってきてくれるようになった。

掃除は自分でやっていたが飯だけは作れなかったので大変ありがたいと思った。

御礼に何か渡さなければと考えて花を贈った。

小さな花束だが「生まれて初めてもらった」と顔を赤らめて喜んでくれた。

そんな彼女を見てわたしの耳も赤くなった。


月に一度の訪問は変わらないが、手作り弁当から家で料理をしてくれるようになった。

それと同時に彼女は仕事を辞めた。

月に一度が隔週になり毎週になり、まあ、あとはご想像のとおりだ。

一緒に住むようになった。


歳を聞いたら孫のような年齢だ。

わたしに孫はいないから孫がどういうものかわからないが、多分そのくらいの歳の差だろうと思った。


一緒に生活して家のことを一緒にするようになった。

掃除も買い物も日課の散歩も一緒。

ただ、料理だけは彼女にやってもらった。

わたしには手伝いすら無理だった。


はじめは「一人暮らしの老人と付き添いの役人」と見られたようだった。

何も言われなかった。

ただ、一緒にいる時間が増え、二人でいるところを多く見られるようになってくると噂が広まった。

まるで蛇のように、人の影を狙って這い回った。


ある日、友人だと思っていた奴から「やめておけ」と言われた。

「騙されている」と。

「わかった」と言って、そいつとの付き合いをやめた。


そして、今だ。

わたしは病気になり、もう病に全身を食い尽くされている。

あとは気力だけだ。


彼女の声がする。

小さな声だ。

優しく慈しむような声だ。


許された。

ああ、これで行ける。

そう思った。

正直ほっとした。

肩の力が抜けた。

お役御免だ。

きっと彼女は大丈夫だろう。

老猫が気になるが、こちらも大丈夫だろう。


お迎えは誰かな。

そんなことを思った。

おふくろかな、親父かな、それとも兄貴かな。

親族は皆、先に行ってしまった。

皆で迎えに来てくれるかもな。

そうだと賑やかでいいな。

みんなの顔を思い出すと、何だか、子どもに戻るようだ。

楽しくなってくる。


もうすぐ行くよ。

また、缶蹴りしよう。

大広間で宴会だ。

さあ、今


彼女の声がはっきり聞こえた。


「だめ。逝っちゃだめ。私より先に逝かないで。私を置いていかないで。ひとりにしないで。私より先に逝かないで」

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