9.10 強制された臣従礼(3)

 ロンドン塔には、居場所のない人物がもうひとりいた。

 中庭でシャルル・ドルレアンに話しかけられて、リッシュモンは儀礼的にひざまずいた。


「イングランド王に臣従したそうだな」

「……はい」

「別に咎めているのではない。同じ虜囚の身分とはいえ、背負っている事情はみな違うのだから気にするな」


 オルレアン公ことシャルル・ドルレアンはシャルル六世の甥である。

 ロンドン塔の虜囚たちの中でもっとも身分の高い重要人物だが、趣味の詩を書いたり、大鴉レイブンクロウを手懐けたり、はたから見れば幽閉生活を楽しんでいるようにも見えた。


「もうすぐロンドン塔から解放されるのだろう? おめでとう」

「おそれいります」

「羨ましいよ」


 シャルル・ドルレアンは微笑んでいたが、どことなく寂しげでもあった。

 周りを見回すと、幽閉以来いつもそばにいたブルボン公やブシコー元帥ら、取り巻きの側近たちの姿がなかった。


「きょうはお一人なのですか」

「ひとりではない。コルネイユがいる」


 リッシュモンの記憶では、コルネイユという名の虜囚はいなかった。

 だが、目の前の傍系王族と長話をするつもりはなかったため、聞き流すことにした。


「裏切り者にも、裏切るだけの理由があるのだろうな」


 シャルル・ドルレアンは「咎めているのではない」と言ったが、リッシュモンは責められているような気がして居た堪れなかった。

 言葉に窮していると、視界の片隅でネズミが駆けずり回っている姿が見えた。

 黒死病ペストの感染源はネズミだと言われており、ロンドン塔でカラスが野放しにされているのは害獣駆除の意味もあった。


「失礼いたします」


 言い終わるより早く、リッシュモンはむんずとネズミの尻尾をつかむと中庭の石畳に叩きつけた。びしゃりと水気を帯びた不快な音がして血溜まりが広がった。


「見苦しいものをお見せして申し訳ありません」

「いや、見事なものだ」

「下僕に片付けさせましょう。不潔ですから近寄りませんように」


 ネズミの死体処理を口実に、リッシュモンはこの場から立ち去ることにした。


「フランスに帰って、私を知る者に出会ったら『私は元気だ』と伝えて欲しい」

「仰せのままに」


 シャルル・ドルレアンは、足元のネズミも頭上のカラスも気にする様子はなく、「今日はいい詩が書けそうだ」と独り言をつぶやいた。



***



 同じころ、ロンドン塔の一室で虜囚たちは密談をしていた。

 暖かくなったらイングランド王ヘンリー五世はフランス遠征に出かける。

 セーヌ川流域を騎行してパリに着き次第、カトリーヌ王女と結婚する予定だった。


「恩赦があるぞ!」


 王家の慶事には恩赦がつきものだ。

 終戦と和平を知らしめるため、アジャンクールの捕虜が解放される可能性が高い。虜囚たちは色めきだっていた。


「イングランドに協力的な者から優先されるだろう」

「だが、イングランドに臣従するのはちょっと……」

「いやいや、イングランドとフランスは連合王国になるのだぞ」

「つまり、イングランドに協力することはフランスのためでもある」


 フランス王シャルル六世は、この結婚を祝して王位をヘンリーに譲ると噂されていた。

 末息子の王太子ドーファンシャルルはブルゴーニュ公殺害の主犯とされ、王位継承権をはじめすべての称号を奪われようとしていた。また、王太子に次ぐ王位継承権第二位のシャルル・ドルレアンが帰国する可能性は絶望的だった。


 ロンドン塔の虜囚たちは、元はと言えばアルマニャック派貴族だ。

 だが、五年にわたる幽閉生活に終止符を打つため、ヘンリー五世のフランス王位継承を支持する署名を発表した。


 本来、平和のための結婚は、祝福すべき慶事である。

 しかし、国王の嫡流男子と甥が生きているにも関わらず、ヘンリー五世が王位を継承することに疑問を持つ者も多かった。


「仮に、王女と結婚した配偶者に王位継承権があるとすれば」

「ジャンヌ王女の配偶者にも継承権があるのでは?」


 ジャンヌ王女の配偶者とは、リッシュモンの兄ブルターニュ公である。

 相続の基本は「男子優先」と「長子優先」の二通りで、妹のカトリーヌ王女よりも姉のジャンヌ王女に優先権があると考えるのが筋である。

 だが、ヘンリーにとって都合の良いことに、ブルターニュ公は失踪して生死不明の状態だった。


 王位継承問題は混沌をきわめた。

 男子優先でも長子優先でも、ヘンリー五世がフランス王位を継承する法的根拠がなかった。


 はじめ、パリ大学ソルボンヌの法学者たちは疑問を投げかけたが、総長ピエール・コーションは教授と学生に圧力をかけた。今後も学籍を置きたいならば、聖書に手を置き、神の御名にかけて「王太子を廃嫡し、ヘンリー五世のフランス王位継承を支持する」宣誓を強要したのだ。

 神と法を尊重する学者は、名門大学から自由な気風が失われたことを嘆いた。

 副学長ジェラール・マシェらは宣誓を拒否してパリ大学から去り、王太子がいるポワティエに身を寄せた。


 余談になるが、数年後、私がジャンヌ・ダルクと会ったのち、この元パリ大学副学長ジェラール・マシェがジャンヌの素行と予言の信憑性について調査した。さらに数年後、捕らわれたジャンヌの異端審問と火刑を主導したのがパリ大学総長ピエール・コーションである。

 このように、知識人の間でも「王位継承」の解釈がまっぷたつに分かれていた。ジャンヌの取り扱いも同じだ。


 話を1420年に戻そう。


 5月21日、英仏間でトロワ条約が締結。

 フランス国王シャルル六世の死後、カトリーヌ王女を嫁がせることでイングランド国王ヘンリー五世をフランス王位継承者とし、王太子シャルルの王位継承権を剥奪することが定められた。


 条約の最後は、次のように締め括られている。


「自称王太子シャルルは、フランス王国に対して嫌悪すべき莫大な罪を犯した。そのため、王は親愛なる息子ヘンリーとブルゴーニュ公と同じ想いを共有し、あのシャルルとかいう者とは精神的にも現実的にも絶対に和解も交渉もしない」


 この物語を読んでいる読者諸氏の時代では、ヘンリー五世は舞台や映画の題材となり、すばらしい「名君」として印象付けられている。

 しかし、私から見ればきわめて極悪な策謀家である。

 法も道理も捻じ曲げて、人の命を奪い、心を軽んじ、財産を掠め取る卑劣漢だ。


 父シャルル六世は狂王と呼ばれている。

 精神を病んで統治能力がないことは、広く知られていた。

 いくつもの悲劇・惨劇に耐えられず心が壊れた哀れな老王に、このような条文を書かせたヘンリーを私は決して許さない。


 王弟オルレアン公も、アルマニャック伯も、無怖公も、もう誰もいなくなった。

 ブルゴーニュ派もアルマニャック派も指導者を失っているのに、いまやヘンリーの手の上で踊っているただの駒になっていた。


 王都パリでは、シャルル六世とイザボー王妃夫妻、そして娘婿ヘンリー五世とカトリーヌ王女夫妻が勝利と結婚を祝して凱旋パレードをおこなった。

 父王はヘンリーを「余の息子」と呼んで歓迎したと伝わっている。


 私には理解できない。

 父と母は、一体何に勝利したというのだろうか。









(※)今回のこぼれ話。前半、リッシュモンの会話シーンは、実在するシャルル・ドルレアンの詩をモチーフにしています。簡単に説明すると、フランス各地で「あいつは死んだ」というニュースが駆け巡り、シャルル・ドルレアンはネズミさんに次のように語りかけます。


「私のことを嫌っている人は、訃報(誤報)を聞いても何も感じないだろう。私を愛している誠実なまことの友がいるなら、私は元気だと伝えておくれ」


ネズミに話しかけて伝言を頼むという設定は、ぼっち度がとても高く(笑)それでいて可愛らしさも感じます。


Nouvelles ont couru en France,

Par maints lieux, que j'étais mort,

Dont avaient peu déplaisance

Aucuns qui me hayent à tort,

Autres en ont eu déconfort,

Qui m'aiment de loyal vouloir

Comme mes bons et vrais amis,

Si fais à toutes gens savoir

Qu'encore est vive la souris!


Je n'ai eu ni mal ni grevance,

Dieu merci, mais suis sain et fort,

Et passe temps en espérance

Que paix, qui trop longuement dort,

S'éveillera, et par accord

A tous fera liesse avoir,

Pour ce, de Dieu soient maudis

Ceux qui sont dolens de voir

Qu'encore est vive la souris!


ついでに詩の後半も。

「長く眠り続けた平和が目覚め、調和と喜びをもたらす」ことを祈りつつ、「平和を嫌う奴らは神を呪うだろう」とまたまたネズミさんに語りかけています。なんだか人柄が偲ばれますね。


シャルル・ドルレアンが幽閉中に書き残した膨大な詩は、19世紀の古楽ブームのときに曲付きでリバイバルされました。世界史の百年戦争ではマイナーな人物ですが、クラシック音楽分野と文学分野ではそれなりに有名だそうです。フランスの中学・高校では、ほぼ必ず履修するとか。

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