8.22 悪夢の記憶(1)

 ひどい悪夢を見ていた。

 私はモントローの橋上で意識を失った。

 次に目が覚めたとき、本当は私が死んだのかもしれないと思った。


「ここは天国なの?」

「どうしてそう思うんですか」

「だって、ジャンがいる」


 幼なじみのジャンは王太子ドーファンの身代わりとなってパリに残った。

 どんな理由があるにしろ、私は親友を置き去りにして逃げたのだ。

 あれからずっと手を尽くして探しているのに行方がわからない。


「俺は死んでませんよ。生きて帰ってきました」


 頭がぼんやりして、何を言っているのか理解できない。

 侍医が来て気付け薬を飲まされた。

 味覚と嗅覚と喉ごしの不快な刺激で、思わずむせた。


「うぅ、まずい……」

「どうかご辛抱を」


 最近の私は辛抱してばかりである。

 口直しに冷えた果汁ジュースを飲まされると、ようやく意識がはっきりしてきた。

 侍医のかたわらで、デュノワ伯ジャンが心配そうに私を見つめていた。

 にわかに信じられなくて、「本当に? 本物?」とたずねた。


「もちろん本物です。触ってみますか」


 ジャンの手が伸びて、子供のときのように私の頭をぽんぽんと撫でた。

 しばらくの間、されるがままに撫でられていたが、疑り深い私はやはり自分で触ってみないと信じられない。ジャンの手を取り、自分の手を重ねた。


「あたたかい」


 さっきよりだいぶマシだが、まだ意識が完全に覚醒していないようだ。

 感触を確かめるように互いの指を絡めた。

 指先が少し痺れている。頭も体もふわふわとして曖昧だったが、懐かしい友人の手に違いなかった。


「ずっと探していたんだ。でも、全然見つからなくて……」

「聞きました。俺も連絡したかったんですが、色々ありまして」

「ときどき、悪い想像をしてた。ジャンは死んでしまったのだろうかと」

「あいかわらず悲観的ですねぇ」


 ジャンはからからと屈託なく笑い、「王太子の方がよっぽど死にそうな顔をしてますよ」とからかった。侍医は「縁起でもない!」と呆れていた。


 侍医の見立てによると、私は暑気あたりで倒れたらしい。

 この物語を読んでいる読者諸氏にわかりやすく例えると、熱中症だ。

 まだいくらか暑さが残る9月上旬、綿を入れた布の服と鎖帷子チェインメイル甲冑プレートアーマーを重ね着して、日中の屋外で一日中飲まず食わずでいたら「暑さにやられて倒れるに決まっています」だそうだ。

 侍医は、体力が回復するまで安静に過ごすようにと言い含めると、どこか気遣うように「精神は正常ですからご安心ください」と付け加えた。


「精神だって?」

「少し物忘れがあるかもしれませんが、思い出して父君のように心を病むよりは……」


 侍医の話は歯切れが悪くて要領を得なかった。

 違和感を感じたが、私は意識を取り戻したばかりで物事を深く考える余裕がなかった。

 言われるまま、風通しの良い部屋でおとなしく休むことにした。


「何か飲みますか。どこか痛いところは?」

「うーん、大丈夫だと思う」


 昔のようにジャンが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。

 頭が割れるように痛かったが、またまずい薬を飲まされそうなので黙ってやり過ごした。

 この一年間に何をしていたのか、数日かけて少しずつ話をした。

 アルマニャック伯の非業の死を悼んだとき、いつも快活なジャンが不自然に黙り込んだ。


「どうしたんだ」

「ありがとうございます!」


 唐突に礼を言われたが、さっぱり理由がわからない。


「急にどうしたんだ」

「俺は王太子に礼を言いたかったんです。心から感謝しています!」


 ジャンは居住まいを正すと、深々と頭を下げた。


「よくわからないけど、どういたしまして」

「この先、俺は王太子のためなら何でもします!」

「う、うん。程々にね……」

「きっと兄も喜んでると思います」

「シャルル・ドルレアンが?」


 まったく話が噛み合わない。

 ジャンは私の顔色を伺うようにじっと覗き込んできた。

 私は背筋を伸ばすと親友を見返した。


「私はジャンを信じている。気遣いは無用だよ」

「俺も王太子を信じています。前よりも見直したと言ってもいいくらいです」


 私は吹き出した。昔も今もジャンは遠慮を知らない。

 もう子供ではないのだから主従らしく一線を引くべきだが、このままの方が心地いい。

 私が元気そうなのを確認すると、ジャンは意を決したように告白した。


「では、はっきり言います。アルマニャック伯と父の仇を取ってくれてありがとうございます!」


 頭で理解するよりも早く、心臓がどきりと跳ねた。

 あの日以来、意識の底に沈んでいた記憶がじわりと浮かび上がった。

 アルマニャック伯とジャンの父、すなわち王弟オルレアン公の仇といえば無怖公ブルゴーニュ公に相違ない。


「私が仇を取った……?」

「はい。アルマニャック派の人たちはみんな大喜びで王太子を称えて……シャステル隊長も……」


 ジャンの声が遠のき、モントロー橋の殺戮の記憶が急速によみがえってきた。

 シャステルの恐ろしい怒号。仲間たちの目を疑うような凶行。10人がかりで滅多刺しにされて、私の足元にブルゴーニュ公のちぎれた右手が飛んできた。解体されたばかりの手は大きな蜘蛛に似ていた。生々しくも鮮やかで、血と脂にまみれて艶を帯びている。今にも動き出しそうだ。きもちがわるい。私はそれに触りたくなくて足を引いた。

 ひざまずいていたブルゴーニュ派の立会人がようやく剣を抜いて止めに入った。

 見知らぬ誰かがすさまじい形相で私をにらみながら「王太子、貴様のしわざか!」と叫び、飛びかかってきた。私は首を横に振った。知らない、知らない、こんな話は聞いていない、こんなひどいことが起きるなんて想像もしなかった、和平のために条約を結ぶ、署名をする、花嫁を迎える、そして、それから——


 誰かが私を引っ張り、橋上から引きずり出されるように撤退した。

 馬車に押し込められるとものすごい勢いで走り出した。

 びっしょりと汗をかいていた。血の気が引いているのに暑くてたまらない。早くこの甲冑を脱ぎたかったが、ひとりで着脱できる代物ではない。甲冑の脚部に、血と脂と肉片がまざった手形がべったりとついていた。よく見ると、床は血染めの足跡だらけだ。何かを叫んで逃げ出そうとしたが馬車には外から鍵がかけられていた。私はここから逃げられない。逃げることは許されない。血まみれの右手が追いかけてくる。私をつかんで離してくれない。

 喉の奥から胃液がこみ上げてきて何度も吐いた。涙と血と吐瀉物にまみれて馬車から下ろされた。


「私は狂ってしまったのだろうか」

「いいえ、侍医がいうには正気だそうですよ」


 ジャンも侍医も、誰もが皆「倒れたのは暑気あたりのせい」だと言い張った。

 アルマニャック派の重臣たちはブルゴーニュ公を憎んでいた。

 彼らは王太子の偉業を称え、私が眠っている間に祝福の手紙や贈り物が山ほど届いた。

 その一方で、ブルゴーニュ派は王太子を糾弾し、報復と失脚させるための計画が進んでいた。


 私は手紙や贈り物を差し出されても喜ぶ気分になれず、片付けるように頼んだ。

 ジャンは「礼状を書くのは回復してからにしましょう」と気遣ってくれた。


「違うんだ、そうじゃないんだよ……」


 私は心痛と悔恨でむせび泣き、ジャンは「王太子は勇敢なことをしたんです。誇ってください」と慰めてくれたが、私の心情は一向に晴れなかった。

 ジャンは戸惑い、いつしか私もわかってもらうことを諦めた。

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