6.4 皇帝の仲裁(2)一番ほしいもの
それぞれの野心と欲望が交錯し、事態は着実に進行していた。
皇帝の権威を味方につけることができれば頼もしい。
だが、ジギスムントは気分屋で言うことがころころ変わる。
人がいいが抜け目がなく、残酷でもあり、あまり信用できない人物だった。
ジギスムント一行は帰国の途につき、パリを出発すると東へ向かった。
その先に帝国があるのだから何もおかしくない。
「十字軍か、何もかもが懐かしい」
ジギスムントは豪華絢爛な馬車に揺られながら、遠い未来まで語り継がれる自分を夢想し、若き日の郷愁に浸っていた。
「くっくっく。久しぶりにあいつに会っていくか」
帝国の手前、フランス東部にブルゴーニュ公の広大な領地があった。
中心地はディジョンで、近ごろはベルギーやフランドルまで勢力を伸ばしている。フランス最大勢力の貴族である。
神聖ローマ皇帝ジギスムントと無怖公ブルゴーニュ公は、若かりしころにニコポリス十字軍に参加し、ともにオスマン帝国と戦った戦友だった。
***
一方その頃、イングランドから派遣された密使がドーヴァー海峡を渡って港湾都市カレーに到着していた。
「フランスへようこそ」
密使を出迎えたのは、他ならぬ無怖公ブルゴーニュ公だった。
密使は若い男だったが、ブルゴーニュ公を一瞥すると「ここはイングランド領です」と言った。
アジャンクールの戦いを経て、イングランドはノルマンディーからカレー港までを支配下に置いていた。
ブルゴーニュ公とブルゴーニュ派貴族は、アジャンクールに参戦しなかったおかげで無傷で戦力を維持している。
ブルゴーニュ公の嫡男・シャロレー伯フィリップはフランス宮廷の内輪もめを嫌い、父に反発して参戦を試みたが、無怖公の豪腕に阻まれて領地に幽閉されていた。
戦いの翌年、ブルゴーニュ公とイングランドはカレーで密談をおこなった。
偶然かもしれないが、アジャンクール以前から内通していた可能性が高い。
イングランドから来た密使は、ヘンリー五世の弟でジョン・オブ・ランカスターという。称号で呼ぶならベッドフォード公だ。
「兄は……イングランド王はフランス王位をお望みです」
「性急すぎる。フランスの王冠はカネで買える代物ではない」
「ならば、戦って奪い取るまで」
ブリテン島から旧君主の一族を追い出したように。
あるいは、リチャード二世を餓死せしめ、王冠を奪ったように。
ベッドフォード公は若かったが、無怖公——王族殺しの怖いもの知らず——ブルゴーニュ公に物怖じする気配はなかった。
「まぁ、待て……」
さすがのブルゴーニュ公も、口約束で王位を譲り渡すことをためらった。
「好きなだけお待ちいたしましょう。交渉相手はあなただけではありませんから」
「アルマニャック伯とは何を?」
「ご想像にお任せします」
双方の駆け引きが何日も続いた.
「見返りは?」
「王冠を渡すと確約していただけるなら、そうですね」
ベッドフォード公は値踏みするように、ブルゴーニュ公を一瞥した。
「あなたにはパリ統治を委任しましょうか」
にやりとブルゴーニュ公の口角が上がり、ベッドフォード公は「例えばの話です。兄の意向を聞かなければなりません」と釘を刺した。
***
あちこちで綱渡りの交渉と計画と密約が進められていた。
宮廷の主流派、アルマニャック伯とアルマニャック派貴族たちも例外ではない。
「何が起きているのか包み隠さず教えてほしい。いま、王国がひどい状況にあることは分かってる。私はもっと知らなければならない」
私が問いただすと、アルマニャック伯は知り得ていることを教えてくれた。
アジャンクールの勝利で、ヘンリーはあらためてフランス王位を要求した。
パリの宮廷にはさらにもうひとつ条件が突きつけられていた。
「シャルル六世の第五王女、カトリーヌを妃にしたい」
私の父、狂人王シャルル六世には10人の子供がいた。
王子と王女が5人ずつ。
私は10番目の子で五男だ。
姉カトリーヌ王女は9番目の子で五女。私の二歳年上だ。
一説によると、少年時代のヘンリーは私の長姉イザベル王女に恋をしていた。
当時は、イングランド王リチャード二世の妃だった。
29歳と7歳、政略結婚でありがちな年の差婚だった。
リチャード二世のいとこの息子がヘンリー五世で、当時9歳。
歳の近い者同士、イザベル王女に特別な思いを寄せていても不思議ではない。
だが、イザベル王女はすでに他界している。
そこでヘンリーは姉に生き写しと言われるカトリーヌ王女に目をつけた。
初恋成就のために百年戦争を再開したのだとすれば、はなはだ迷惑な話である。
「フランス王位を渡すことは絶対にできない。だが、ヘンリーの本命が、王冠ではなくカトリーヌ王女だとしたら……」
アルマニャック伯が率いる宮廷は、ヘンリー五世とカトリーヌ王女の結婚で和平が実現するならばと一縷の望みをかけた。
なにしろ、ロンドン塔には有力貴族出身の騎士たちが何人も囚われている。
王族も「何か」しなければ、王家の求心力は下がる一方だ。
「いやです。わたくしはイングランドなんかに行きません!」
ポワシーの女子修道院で、カトリーヌ王女は断固拒否した。
「イザベル姉さまは、夫のリチャード二世が餓死していく様子を見せつけられて、持参金も何もかも奪われてぼろぼろになってフランスに帰ってきたのよ!」
そう言って、修道院の院長でもある三番目の姉マリー王女に泣きついた。
宮廷からポワシー修道院に派遣された使者は、必死に説得を試みた。
「先日、イングランドを訪問した皇帝は、ヘンリー五世はハンサムな好人物だったと……」
「決して悪い縁談ではありませんから……」
「王国を救うために、王族がたにもご尽力をお願いいたしたく……」
カトリーヌ王女をなだめすかし、何日も説得し続けた。
「ひどいわ。私が何をしたって言うの。生まれてこのかた、宮廷も父上も母上もずっとわたくしのことを無視してきたのに!」
私は、修道院時代はジャンを、アンジュー時代はヨランド・ダラゴンを頼りにしていた。
カトリーヌ王女にとって、姉のマリー王女が母親がわりだった。
「カトリーヌ、あなたももう16歳。人生でもっとも美しい時期を、地味な修道院で過ごすのはもったいないわ。還俗して、華やかな宮廷にデビューするのも悪くないわよ」
そういうマリー王女もまだ24歳という若さであった。
母のように慕うマリー王女の説得も、カトリーヌ王女には通じなかった。
「いやよ、いやいや! 姉上までそんなことを言わないで!」
「カトリーヌ……」
「お願いだからここから追い出さないで。わたくしは死ぬまで尼僧のままで結構です!!」
イザベル王女の悲劇を教訓とするなら、無理強いはできない。
修道院長であり姉でもあるマリー王女は「どうか、お引き取りください」と使者に告げた。
アルマニャック派宮廷の交渉も暗礁に乗り上げていた。
***
ブルゴーニュ公は耳ざとく、情報を聞きつけていた。
「ほぅ、ヘンリー王はカトリーヌ王女を欲しているのか」
「ええ。ですが、あなたは王族から嫌われています。カトリーヌ王女を交渉カードにすることはできない」
ブルゴーニュ公はしばらく考えると、「私にもカトリーヌという名の娘がいる」と言った。
「王女の代わりに、我が娘ではダメだろうか」
「ダメです」
手をこまねいている間に、イングランドは再びノルマンディーに上陸。
カン、リジュー、バイユー、アランソン、シェルブールなどを次々に攻略していた。
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