4.5 旅立ちの朝(3)
ついに出立の刻限が来てしまった。
謁見用の大広間で、私はアンジュー公夫妻に別れを告げた。
「ここへ戻ってきてはなりませんよ」
ヨランド・ダラゴンが突き放すようなことを言った。
だが、私はヨランドを冷たい人だとは思わない。
慈悲深く聡明な貴婦人だが、ヨランドはアラゴン王国出身の王女だ。
私情とは別に、王族には果たすべき義務があることをよく分かっていた。
「はい。その代わり、王城にご招待します」
そう答えると、ヨランドは優しく目を細めた。
養育した子を王太子として送り出す喜び、誇り、別れの悲しさ、淋しさ。
瞳の奥に、複雑な感情が見えた気がした。
他にも何か言いたそうだったが、それ以上聞く時間はなかった。
護衛の先導で馬車に乗り込もうとして、私は護衛隊長のシャステルを呼び止めた。
「あの、少しだけ待って!」
誰かに引き止められる前に、私は一目散に駆け出した。
「マリー! ルネ! シャルロット!」
「シャルル兄様!」
アンジュー家の子供たちが見送りに来てくれたのだ。
孤児同然だった私を迎えてくれたのがヨランドで、王子らしい振る舞いを教えてくれたのがアンジュー公なら、何の疑いもなく「兄さま」と慕ってくれたのがこの子たちだ。可愛くないはずがない。
ルネは素直に別れを惜しんでくれた。
マリーは「最後のお見送りくらい『兄さま』は止めましょう。兄さまは王太子殿下になられたのですから」と弟をたしなめると、子守の侍女からシャルロットを抱き上げて連れてきてくれた。
両手を広げて受け取ろうとすると、マリーは「待って、外套が汚れてしまうわ」と躊躇した。シャルロットは「おねむ」な様子で、口の端から少しよだれが垂れていた。
「いいから、いいから!」
「あっ……」
私は構わずに、マリーからシャルロットを抱き上げた。
「書庫で別れたときに、『あとで』抱っこをしてあげると約束してたんだ」
「ん、にいさま……?」
「元気でね」
シャルロットの頬に顔を寄せて別れのキスをすると、私はルネにシャルロットを託した。
「はい、ルネ兄さま。あとはよろしく」
「任せてください! シャルル兄さまも……王太子殿下もお元気で!」
マリーは貴婦人らしい所作で、王太子のために見事な
私は、「別れの挨拶」を言おうとしたマリーを遮ると、その手を取った。
「ねえ、マリー!」
「はい……」
「しばらく大変だと思うけど、向こうの生活が落ち着いたら必ず迎えにくるから。そうしたら、君は晴れて王太子妃殿下だからね」
早口でそれだけ言うと、マリーの手の甲に口づけを落とした。
顔を上げる間もなく私はきびすを返し、足早に馬車に乗り込んだ。
「あー、恥ずかしかった!」
こういうことは時間をかけるとどんどん恥ずかしくなって結局何もできなくなる。
さっさと済ませて馬車に乗ってしまえばいい。
旅路は長く、馬車は密室だ。
ひとりになったら赤くなった顔を気にしなくていいし、反省会する時間ならいくらでも——
「失礼いたします」
ひげのおじさんが乗ってきた。
王太子の護衛隊長を務めるタンギ・デュ・シャステルだ。
彼も馬車に同乗すると聞いて、ぎょっとした。
(今の、一部始終を見られていたこの人とずっと一緒に?)
私は平常心を装ったが、変な汗が出てきた。顔も暑い。
たぶん内股になっていると思う。
***
マリー・ダンジューは、王太子の旅立ちの行列を見送りながら「ずるいわ」とつぶやいた。
「この四年間、婚約者らしいことなんて何もなかったのに」
アンジュー公はマリーに寄り添いながら、「おや、王太子殿下はお嫌いかい?」と尋ねた。
「そうではなくて!」
マリーは父の言葉にかぶせるように即答した。
このような話し方はマナーに反するが、別れぎわの告白は私の想像以上にマリーを動揺させたらしい。
「私たち、いままで兄妹みたいだったでしょう? それに王太子妃だなんて唐突すぎて……」
「唐突ではないだろう。婚約したのは四年前だ」
「結婚の約束をしたけれど、まだ結婚の誓いはしてません」
人同士の約束と、神の名の下に誓う約束は重みが違う。
この物語を読んでいる読者諸氏には馴染みがないだろうから、説明しよう。
私たちの時代は、結婚する約束を破ることはできるが、婚姻の儀を済ませたら誓約を破ることはできない。原則、離婚はできない。
私とマリーは婚約しているが、お互いに約束を解消する権利を残していた。
「ずるいわ。口約束ばかり」
「ふふ、宮廷には美しい貴婦人が多数いらっしゃるだろう。王太子殿下が目移りしないとも限らない……かも……?」
アンジュー公は軽い気持ちでからかったが、マリーは抗議しなかった。
父をたしなめる言葉はなく、みるみる目が潤み、大粒の涙をこぼした。
アンジュー公はあわてて愛娘を抱きしめた。
「冗談だよ、マリー。泣かないでおくれ」
「ひどいわ。王太子さまはそんな方じゃないもの」
長女のせいか、マリーは幼いころから自己抑制的な性格だった。
けなげな少女のこらえきれない涙は、とりわけ見るものの胸を打つ。
「そうだね、殿下もマリーもまじめないい子だ。兄と妹みたいだと思っていたが、マリーはあの方をお慕いしているのだね?」
「わかりません。でも、涙が止まらないの……」
「機を見て、王太子殿下に会いに行こう。みんなで追いかけてもいいし、マリーだけを連れて行ってもいい」
「……はい」
アンジュー公は旅の計画を話しながら、内心では「アンジューも王太子もただでは済まないかもしれない」と予感していたようだ。
そして、アンジュー公の懸念は現実のものとなる。
(※)主人公が14歳、マリー・ダンジューが13歳。アンジュー編の最後に初々しいカップルを書きたかったので満足。
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