3.7 アジャンクールの死闘(2)正しい狂人

 時間を少しさかのぼる。

 朝、その一報が入った時にはもう別働隊は動いていた。


「イングランド軍に進軍の兆しあり」


 森の外周を迂回してイングランド陣営の背後から潜入し、物資を奪う。

 任務完了後、戦闘が始まっているなら別働隊も攻撃態勢を敷き、後方からイングランド軍を挟撃する。


 多くの騎士は、正面から派手に突撃することを好むため、背後から物資を奪うような地味な任務をやりたがらない。

 組織において、目立たない仕事をまじめに遂行する人材は貴重だ。

 目立たない功績を正しく評価できる上官も。


「貴公はイングランド王家ともブルゴーニュ公とも縁が深い。内通者ではないかと疑う者もいる」


 戦いの前夜、リッシュモンはブシコー元帥に呼び出された。


「司令官の目が届かない別働隊に配置すれば、裏切って単独行動するかもしれない。それでも、疑惑の絶えない貴公を起用する理由はなんだと思う?」


 正直に答えよ、とブシコーは言った。


「泳がせるため、でしょうか」

「疑惑を認めるのか」

「噂があることは知っています」


 リッシュモンは、「真実が何であっても噂を消すことはできない」と思っていた。

 だから何も言わない。

 普段から淡々と鍛錬し、黙々と仕事に専念した。


「別働隊に起用したのは、貴公を信じているからではない」

「……はい」

「信じる、信じないなどという浮ついた理由を思いつく愚者バカでなくて良かった。貴公を起用する理由はただひとつ、よく動けるからだ」


 重騎士といっても、日ごろからプレートアーマーをフル装備しているわけではない。

 見た目の印象よりもスムーズに動作できるが、とにかく重い。


「アレを着たままでよく鍛錬しているだろう。何度も見かけて私は感心していたのだよ。軽装でも重装備でも同じように動けることは貴公の強みだ」

「光栄です」

「もしや、私の本を読んだのか?」

「参考にさせていただきました」


 ブシコーは1409年に自伝を書いた。

 まだ印刷技術のない時代だから、本を量産することはできない。

 人気のタイトルは、本の持ち主から借りて回し読みするか、まるまる書き写して写本を作る。

 「本を所有している」ということは、熱心な読者に違いなかった。


「良かったら、サインを書いてあげよう」

「手元にありません」

「そうか、それは残念だ」


 リッシュモンが退室すると、ブシコーは堪え切れなくなった。

 ぶふっと吹き出し、人目が気になって咳払いをしてごまかした。

 総司令官、そして元帥という立場上、ブシコーの周囲には従者と士官が多かったが、幸い、この時は誰もいなかった。

 遠慮なく、にまにまと笑いながら独り言をつぶやいた。


「あの本を真に受けて、愚直に鍛錬するバカがいるとは思わなかったな……」


 リッシュモンが聞いていたらどう思うか、興味深いところだ。

 そして、あの本を真に受けて騎士を目指すバカがもうひとりいることをブシコーは知らない。




***




 戦いの前に、酒を大量に飲む騎士は多い。

 臆病なおのれを隠し、勇気を奮い立たせるために、酒の力を借りる。


 いつの時代も、「戦争」とは狂気の沙汰だ。

 剣が閃き、槍が突きつけられ、矢の豪雨が降り注ぐ敵陣へみずから突っ込むなど正気ではできない。


 酒の力を一滴も借りずに、平常心で戦場に立っていられる者は、何も考えていない脳筋バカか、生まれつきの狂人だろう。

 脳筋バカはすぐに戦死する。

 飲酒なしで、平常心で血みどろになって戦い、いつまでも生き残っている者は本物だ。


 アルテュール・ド・リッシュモン伯は、まれに見る本物の狂人だった。

 だが、リッシュモンに言わせると、この私も「正常に狂っている」らしい。

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