2.1 王家からの使者(1)ボーボー卿
アンジュー公一家が住んでいるアンジェ城は、フランスの北西部・ロワール川の下流にある。
私は物心がつく前から王立修道院で10歳まで世話になったが、私物がほとんどなかったため身ひとつで送り出された。
青地に
しかし、1日も経たないうちに私は馬車の旅に飽きてしまった。
馬車の中は殺風景で、ずっと閉じ込められているのは退屈きわまりない。
せめて退屈を紛らわせる本があれば良かったのだが。
やがて、むくむくと好奇心が湧いて来た。
「ねぇ、外はどんな風になっているの?」
私は、アンジューから派遣された迎えの使者に尋ねた。
「今はロワール川沿いの街道を走っています」
「川! 街道!」
私は身を乗り出して、「外を見たい」とせがんだ。
しかし、馬車に同乗している護衛兼使者は「治安が良くない」ことを理由に、たとえ車窓越しでも顔を出すことを許してはくれなかった。
「ちょっとでいいから!」
「なりません」
私はため息をつくと、座席の肘当てにほおづえをついて寄りかかった。
「つまらないな」
「ご辛抱ください」
少しだけふて腐れた態度を出して見たが、使者は微動だにしない。
使者の名は「ナントカ・ボーボー」といって、アンジュー家で厩舎番などを務めている地方貴族の出身らしい。
ボーボー卿の使命は「王子を無事にアンジェ城へ連れて行くこと」で、彼の主君はアンジュー公である。私の従者ではない。
ようするに、私の願いを叶える義務はないのだ。
「あーあ、ジャンも一緒に来れたら良かったのになぁ」
ジャンは、私を送り出したらオルレアンへ帰ると言っていた。
いま、私は西のアンジューへ向かっているが、オルレアンは正反対。
ロワール川流域の中ほどに位置する。しばらく会えないだろう。
「つまんない!」
馬車に閉じ込められた閉塞感のせいだろうか。
私はすっかり不機嫌になっていた。
そもそも、子供はじっとしていることが苦手だ。
私は駄々をこねるほど小さい子供ではないが、不機嫌をごまかせるほど大人でもない。
私は肘掛けに寄りかかるだけでは飽き足らず、馬車の内壁に頭をぐりぐり押し付けた。
髪が乱れようが、帽子の形が崩れようが、ふて腐れた私はおかまいなしだ。
足や腕を組んだり組み直したり、落ち着きなくもそもそと動いていたら、あることに気づいた。
窓を覆うカーテンと車窓の隙間からうっすらと光が差し込んでいる。
私は馬車に寄りかかって居眠りするふりをして、車窓を覆っているカーテンを少しだけずらした。
(わぁ……!)
視界に、まばゆい光景が飛び込んで来た。
居眠りするふりを忘れて、私は車窓から見える景色に釘付けになった。
子供の浅知恵などお見通しだっただろうが、ボーボー卿は見て見ぬふりをしてくれた。
ロワール渓谷一帯は、別名・フランスの庭園と呼ばれる風光明媚な地域だ。
川幅はとても広くて、水面はきらきらと輝いていた。
川を渡る小舟や、上流と下流を行き来する行商人の大きな船が見える。
対岸の向こうには緑ゆたかな丘陵が広がっている。
ときどき、木々の合間から城塞のシルエットが見えた。
修道院を出てから、私の世界は鮮やかに色づいた。
書物に描かれた飾り文字や
日の角度や天候によって、景色の色合いは幾重にも変わるのだ。
このときの感動は、私の心に深く刻まれた。
私は病めるときも健やかなときも、生涯にわたってこの地域を愛した。
ロワール川流域には城塞がいくつも点在していた。
アンジューもオルレアンも、のちに私とジャンヌ・ダルクが出会うシノン城も、ロワール川流域の城塞群のひとつだ。
城塞が多いということは、すなわち戦いの中心地でもあるのだが、このときの私はまだ無垢で無知だった。目に映る景色にただ見とれていた。
広大な川と深淵な森は、古来より防衛の要衝だった。
何度も血が流され、川底には数え切れないほどの屍体が沈んでいる。
私もまた、否応なく血なまぐさい歴史に巻き込まれていくことになる。
***
数ある城塞の中でも、とりわけアンジェ城は圧巻だった。
十七もの巨大な塔が建ち並び、まるで対岸を威嚇するように、城の一部がロワール川にせり出している。
私を乗せた馬車は、跳ね橋を渡ってアンジェ城へ吸い込まれていった。
旅の終着点だ。
「ここが……」
「はい。アンジュー公とご一家がお住まいになるアンジェ城でございます」
アンジューは天使という意味だ。天使の一族。天使の住まう城。
もちろんこれは言葉のあやだが、アンジュー公の一家は、私が不遇なときにいつも守ってくれた。さながら守護天使のように。
だが、天使は優しいだけではない。おそろしく厳しい一面も持ち合わせているのだ。
(※)この辺り一帯、「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」は世界遺産に登録されています。
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