1.14 貴婦人とご令嬢(1)嵐の日に
教会を訪れるのは巡礼者だけではない。
急病や悪天候に見舞われた旅人が助けを求めてくることもあった。
教会組織にはさまざまな宗派があったが、よほどのことがない限り、食事や宿を提供することになっている。
私が世話になっていた王立修道院は、各教区の教会よりも規模が大きかった。
行商人の
***
その日は嵐だった。
昼間だというのにずいぶん暗かったことを覚えている。
激しい雷雨の中を、ずぶ濡れの先触れがやってきた。
とある貴族の夫人と子女が、一晩の宿を求めているという。
「この悪天候では、馬車が事故を起こしかねません」
王立修道院の責任者は、急な申し出を快く引き受けた。
宿泊する部屋の準備、食事のしたく、馬車を迎える厩舎の整備、飼い葉の用意など、一行が到着する前にやることがたくさんある。
誰もが忙しく働いているが、私は王子ゆえに手伝いをやらせてもらえない。
ジャンも使いっ走りに駆り出されたまま帰って来なかった。
私はせめて邪魔にならないように、私室で静かに過ごしていた。
客人と会うことは滅多になかった。
「何か本を持ってくれば良かったな」
何もすることがなく、採光用の細い小窓からぼんやりと外を眺めていたら、馬車の一団が近づいて来るのが見えた。
「ああ、あの人たちが……」
今晩、修道院に宿泊する貴婦人の一行だろう。
思った通り、馬車は修道院の
雨足が強くて外はけぶっていたが、かろうじて人影が見える。
暗雲立ち込める空が光り、雷鳴がとどろいた。
私ははっとして部屋から飛び出した。
雷が恐かったのではない。
雷鳴にまぎれて子供の泣き声が聞こえた気がした。
たまたま、この日の私は女子塔の付近にいた。
階段を一段飛ばしで駆け下りて、正面玄関を目指した。
二階から下は吹き抜けになっていて、一階を見下ろすことができる。
みな慌ただしく動き回っているせいか、途中で私を引き止める者はいなかった。
尼僧たちが、雨に濡れた人たちを迎えて介抱していた。
これほどの人数の随行員を連れているのだから、相当な身分の大貴族だろう。
人がごった返しているのに、その子と目が合った。
向こうもこちらを見ていた。
一行の中に、やはり子供の姿があった。
衝動的に部屋から飛び出したが、私は「客人のもてなし方」を知らなかった。
何を言えばいいか分からなくて、とりあえず「こんにちは」と声をかけた。
その子は分厚い外套を羽織っているのにずぶ濡れで、透き通るような青白い顔をしていた。
外ではあいかわらず稲光がびかびかと光っていて、おそろしげな雷鳴がとどろいていたが、女の子は泣いてはいなかった。
(あ、あれ? さっきの泣き声は空耳?)
疑問が浮かび上がったのもつかの間。
「あなたは男の子? それとも女の子?」
怪訝そうにじろじろと見られた。
まるで私が不審者みたいだ。
居たたまれない気分になってきたが、それでも質問に答えた。
「えっと、男の子……です」
「男の子が知らない女の子に話しかけることは、礼儀に反するのよ」
叱られてしまった。
そのような礼儀作法があることを知らなかった訳ではない。
王子として儀礼的な挨拶を受ける以外、修道院の関係者以外の人と接する機会がないため、つい礼儀を忘れて無作法なことをしてしまった。
「あの、ごめんなさい」
「別に責めてないわ。少し驚いただけ」
私がしょんぼりして謝ったせいか、その子はばつが悪そうに目をそらした。
無作法な声かけに気分を害したわけではなさそうだ。
「こちら側の塔は、女子用の住まいだと聞いたわ。なぜあなたは男の子なのにここにいるの?」
「まだ子供だから。小さい子は
「そうなの」
そうは言っても、私はもうそれほど小さい子供ではなかった。
遠くないうちに、男子塔が生活の場となり、女子塔には入れなくなる。
「良かった。それならルネも一緒にいられるわね」
「ルネ?」
「あの子ったらどこへ行ったのかしら」
「あの子……?」
女の子は独り言をつぶやきながら、きょろきょろと周りを見回していた。
もう私のことは見ていなかった。
「ねえさまー、ねえさまー、どこにいるのー」
「ルネ、こっちよ」
もう一人あらわれた。
最初の女の子よりももっと小さい子だ。
「わあぁん、ねえさま!!」
「もう大丈夫よ」
「かみなりこわい! かあさまはどこにいっちゃたの?」
泣きじゃくりながら、くしゃみを連発した。
顔中、涙と鼻水と雨水にまみれてぐちゃぐちゃになっている。
きっと、さっき聞こえた泣き声の主はこの子だろう。
「すぐにいらっしゃるわ。それより早く着替えないといけないわね」
「びえぇぇん、さむい!」
もとは鮮やかな仕立てのドレスだろうに、女の子たちは頭のてっぺんから爪先までぐっしょりと水を含んで黒く濡れそぼっていた。
(あっ、そうだ!)
この子たちには着替えがいる。
水を拭き取る大きなシーツを持って来たら、役に立てるのではないか。
そう気が付いた矢先。
「お嬢様、こちらにおいででしたか」
子守り役らしき侍女が割り込んできて、私たちの間を隔てた。
「湯を用意してもらいました。さあ、参りましょう」
きっと、どこにでもある光景なのだろう。
けれど、私の知らない光景でもある。
(あれ、どうしたんだろう)
なぜか、目の奥が熱くなった。
私にできることはない、ここは私の居場所ではないと悟ったせいかもしれない。
(いいなぁ……)
私はいつも蚊帳の外で見ているだけだ。
何かしてあげたいのに、何をしたらいいのか分からない。
気が利かなくて、気づいた時にはもう手遅れなのだ。
「
人波をかき分けて、ジャンがあらわれた。
私は動揺を悟られないように、あわてて目元を拭った。
「図書室にも部屋にもいなかったから探しましたよ」
「ああ、ごめん」
「行きましょう、ここは冷えます」
「うん」
ジャンが私の手を取った。
「足元が滑りやすいから気をつけてください」
「うん、ありがとう」
別れが名残惜しかったのか、ジャンに手を引かれながらちょっとだけ振り返った。
「あっ……」
またさっきの女の子と目が合った。
幼い姉妹たちは、侍女に促されて客間がある区画へ行こうとしていた。
(何だろう。言いたいことがあるような、そうでもないような……)
ほんの一瞬、私たちの視線が絡み合ったような気がした。
けれど、このときはお互いに無言のまま、その場を離れた。
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