第65話 生きてるよ

 僅か二歩でトップギアに至ったカナタは、真っ直ぐにモリタへと突き進んだ。敵の挙動をつぶさに観察しながら、残り数歩しかない彼我の距離の中で仕掛けの機を見極める。

 一方、それはモリタも同じこと。敵の予備動作を一切見逃さない、アスリートならではの同格にして極限の集中力。

 互いに無手。武器は己が肉体のみ。


 故に、勝敗を分けたのは純粋な実力の差だった。


 仕掛けたのはカナタ。踏み込む右足をつける前に、踏み切った筈の左足を先に接地する、得意のグースステップ。前傾になりながらも、体は瞬時に右へスライドした。



(大した精度だっ!!)



 しかし、この歩法はアメフトやラグビーでも使われる基礎技術だ。カナタよりも、むしろモリタの方が馴染み深い。故に、そのキレに驚愕しながらも、巨躯はムササビの進路を塞ぐため機敏に反応していた。


 一方のカナタ。加減もミスも委縮もない。キレを鈍らせる要因は何もなく、満足のいくステップだった。それでもなお、ズレた先に敵の上半身がある。

 足捌きは流石にカナタが上だ。だが、体格の差は如何ともしがたい。モリタは下半身をほぼ残したまま、半歩でカナタの行く手を塞ぐ。

 それを見たカナタは、次の踏み込みで前へと向かわず、すぐさま左へ切り返した。近距離で対峙していれば、消えたと錯覚するほどの凄まじい転換だ。



(それも見えている!!)



 しかし振り切れない。右足の角度から、モリタは敵の進路を看破した。ムササビを追って踏み込んだ足をすぐさま踏ん張り、重心の流れを無理矢理止める。そのまま、再度ムササビの正面へと上体を持って行った。

 ほんの数瞬の攻防。この間も距離は詰まっている。じきにモリタの間合いだ。ムササビはステップを交えつつも速度は落としていない。当然、体は極度に前傾となり、加速を続けていた。

 凄まじい速度で、超低空を駆ける都市迷彩の忍者。


 瞬間、モリタはムササビの手を読み切った。



(股下か!!)



 体格の勝る相手に、足元攻めは定石。まして、二人の身長差は30cmほどもある。モリタからは既に、敵の頭頂部しか見えない姿勢だ。そんな前傾で、次のステップが切れる筈がない。

 即ち、モリタの手が届くまでに最も時間がかかる地面際で、ヘッドスライディングを敢行する気なのだ。


 そこまで察したモリタは、すぐさま応手を講じた。

 残した右脚を曲げ、膝を地につける。これにより股下を塞いだ。同時、隙が大きくなる右翼を右腕でカバー。また、重心を落としたことで、巨躯と地面との距離が縮まった。


 必然。左手が早く届くようになる。




「獲ったぞ!!ムササビっ!!!」




 獰猛に歯を剥きながら、その顔が見えぬほどに低姿勢で迫る忍者を睨みつけ、モリタは左腕を振り下ろした。


 掌がその背中を捕え、ムササビを地に打ち付ける。






 そんな幻影を見た。






「…わぁお…」


 聞こえたその声は、ミズグチのものだった。勝利を確信していたモリタは、その呆けた響きで我に返る。

 地に叩きつけた筈のムササビの背。その残影が霞の如く消えていた。己の手は虚しく地を掴んでいる。


 それを認識した瞬間、真後ろから着地と思しき音がした。間を置かず、遠ざかる足音が続く。


 肩越しに振り向くモリタの目に映ったのは、何事もなく駆けていくムササビの背中だった。無意識にそれを追おうと膝を持ち上げ、体ごと振り向く。その頃にはもう、ムササビは今いるビルを踏み切っていた。

 狭い路地を挟んだ隣のビル。届かせるだけなら造作もない距離だが、向こうの方が1階分高い。こちらに向いているのは壁面で、着地できるような足場など無かった。

 ただ唯一、屋上から真っ直ぐ降りる排水用のパイプがあり、壁に張り付くと同時にムササビはそれを掴んだ。そのままロープがわりにして、屋上まで駆け上がる。


 そうして、都市迷彩を纏った忍者の姿は、あっさりと見えなくなった。




 のたのたと数歩ほどその後を追ったモリタは、完全に自失していた。何が起きたのか、彼にはまるで分らなかったのだ。

 しかし、離れていたミズグチには全てが見えていた。見えていたからこそ、ムササビが組み立てた一連の戦術に鳥肌が止まらない。 


 最後にムササビが行ったのは"腕立前方転回"。俗にハンドスプリングと呼ばれる体操技術だ。

 カナタは、モリタの間合いに入る直前に地面へと手を付き、振り下ろされる左腕のギリギリ外で倒立。そのまま信じられない程高く、美しく跳ねたのだ。

 背中合わせにモリタを飛び越えた後は、その背後へと完璧に着地。停滞なく一瞬で駆け出した。


 ただ、真に問題なのは挙動そのものではない。確かに身体能力も半端ではないが、それ以上に、そこへ至るまでに整えた仕込みが、ミズグチには空恐ろしかったのだ。


(ステップワークでモリタさんの重心を揺らし、自身は前傾となることで意識を下へと向けさせる。膝をつかせることで上のスペースをこじ開けると同時、地に手を付けるための態勢の不自然さを違和感なく掻き消した…)


 言葉にすればこれだけで済む。が、それを全て遂行して見せたムササビの技量は、全くもって底が知れなかった。

 なにせ、こちらの思惑通りに真っ向からモリタへと挑んだくせに、結局その間合いには一切入らなかったのだ。足捌き一つで膝をつかせ、敵の間合いを狭め、奴はその外を悠々と飛び越えて行った。


 "相手の土俵で戦わない"


 対人技能の基礎にして極意であるそれを、奴は完璧に体現して見せた。

 読み合い一つで、対峙したモリタどころか、離れて見ていたミズグチすらも完全に上を行かれたのだ。


 手も足も出なかったモリタが呆然と立ち尽くし。

 まかれた組員たちが、ようやく後方へと迫る中。




「…はてさて、どうやって利用したもんか…」




 柵に肘でもたれかかったミズグチが、ムササビの消えた先を呆れた目で眺めていた。









「良いわよカナタ。今なら誰も見てないわ」


 とあるマンションの最上階。その外廊下の端で、配達員のバックパックを背負ったサナが小さく呟いた。その声を、ネックフォンに付いているマイクが不足なく拾う。

 ほどなくして、都市迷彩を身に纏ったカナタが、屋上から少女の傍へと降り立った。手摺より下へと身を屈め、早々にその姿を隠す。


「待たせてごめんね。急いで着替えよ」


 サナはすぐさまバックパックを下ろし、ジッパーを開けた。その中から、着替えのTシャツとGパン、追加のドリンクを取リ出す。


「それから、すぐに」


 水分補給を、と。そう言おうとしたサナの口が、唐突に止まった。

 手摺を背に作業をしていたサナ。その左横にいた少年の額が、少女の華奢な肩へともたれ掛かったのだ。


「…カナタ?」


 横目に見た少年は、背中を丸めていた。両膝をついて、腕は力なく垂れ下げている。

 フードもゴーグルも、マスクすら外さないまま。



 その全身が、震えていた。



 肩を通して伝わるそれに、サナの目が揺れる。


 カナタがどれほどの恐怖にさらされていたか、少女は分かっているつもりでいた。けれど、それはあくまで作戦行動中のこと。少年が死地から脱したことで、サナは安堵した。少年自身もその恐怖から開放されたと、そう思っていたのだ。


 なんて浅慮。現場で銃口に晒される彼と、画面越しにそれを見ているだけの自分。二人の感じる恐怖が、同質の筈がない。



 カナタは今も、無理矢理飲み込んだ恐怖に心を侵され続けている。



「……てる…」

「え?」


 サナが弱々しく眉根を寄せている間に、カナタは何かを呟いた。掠れて聞き取れなかった一言を、サナは思わず聞き返す。


 鈴を鳴らすような少女の声。それはカナタにとって、俯きかけた心を奮い立たせる力の源泉だ。作戦中も、骨伝導のスピーカー越しに何度前を向かせてもらったことか。

 生で聞こえたその声に今一度の勇気を貰い、心を覆い尽くす恐怖を僅かに霧散させる。


 垣間見えたその隙間から、今度こそはっきりと、本音を零した。




「…生きてる…っ!」




 さして意味などない、当たり前の現状を己に言い聞かせるだけの独り言。それを少女に伝えるため、カナタは精一杯の声を張り上げたのだ。


 返ってきたその言葉に、サナが思わず目を見開いた。次いで優しく細められ、手探りにカナタの手を取る。


「…うん、生きてるよ。カナタは生きてる」


 汗の滴るグローブ越しに、優しく、優しく握りしめた。

 その感触に、カナタの震えが一層大きくなる。


「…サナの飯、食べたい…」

「うん。いっぱい作るよ」

「…帰りたい…。あの部屋に…。早く…」

「うん。だから着替えよ。ね?」


 震えながらも確かに頷いたその仕草に、少女は手を離して少年へ向き直った。フードを手ずから外し、跳ねる髪から飛び散る汗を、いくらか浴びる。

 ゴーグルとマスクにグローブ、それからポーチを預かると、代わりにタオルと着替えを手渡した。そのまま反対方向を向き、人目がないか見張る。

 心より体の方が、まだ余力はあったのだろう。思いのほか滞りなく、少年は着替えを済ませた。素肌を晒したその手をもう一度、サナがおずおずと握る。

 掌に感じた熱。それを離したくないと。カナタもまた躊躇いなく、しかと握り返した。


「…帰ろう。カナタ」


 無言のまま頷いたカナタを見て、サナは立ち上がる。その手に引かれ、少年もゆるゆると立ち上がった。

 二人連れ立って、早々に帰路へつく。


 日はまだ高く、街を行く人の数もまた多い。その隙間を縫うようにして、少年と少女は無言で歩いていた。

 前を行くはサナ。時折チラリと、リュック越しに後ろの様子を確認する。その視線の先には、手を引かれながら大人しく追従するカナタがいた。その顔は未だ俯いたままながら、足取りはしっかりしている。


 常の様子からは想像もつかないほど、静かな時間。直ぐ傍にある雑踏すら、二人には蚊帳の外だった。


 掌に感じる少年の汗に、少女の心が安堵と心配に揺れ動く。

 掌に感じる少女の熱に、少年の心がゆっくりと回復していく。


 一時間ほど歩いただろうか。二人はようやく、いつものアパートへと辿り着いた。

 遠目に見えた、木造の古い建物。その前に、小さな人影がある。


「オミ…」


 その姿を認めたサナの声に、カナタがようやく顔を上げた。

 照りつける陽光と、熱された湿り気の多い空気。そんな中で、しばらく待っていたのだろう。徐々に近づくオミの顔には、玉の汗が浮いていた。


「…おかえり、カナタ」


 不快なはずのそれに頓着せず、オミは微笑んで口にした。

 心を震わせるその言葉に、カナタのまなじりが自然と下がる。


「ただいま、オミ。…一つ、聞いていいか?」

「なに?」

「帰り道、ずっと考えてたんだけどさ…」


 オミが突き出す拳。そこに自身の拳を合わせたカナタは、今にも泣き出しそうな目で、笑って言った。





「サナの胸、視姦するなら今日だと思うんだ」

「いいよ。許す」





 少年達が震える声で笑い合い、

 頬を染めた少女が胸元を隠して二人を睨む。


 吹き抜ける青空の下。

 肌を撫でる夏風の中で。




 ゲンコツの音が2つ、柔らかく響いた。

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