第5話 晴れ時々変態

(超怖ぇぇぇぇぇ!!)


 肝心の“黒づくめ”ことカナタは、普通に泣いていた。涙を流しながら、屋上を必死に駆けている。

ただ、その内心はどうあれ、意図通りに連中の顔をしっかりとカメラに収め、その上で奴らを釣り出すことには成功していた。


 目的は2つ。

 1つ。こっちの顔がどの程度バレているか探ること。

 2つ。連中の規模を確認すること。


 1つ目の目的は、後日この界隈を素顔でうろつくことで確認するつもりだが、そのためにも連中の拠点と顔はしっかりと確認しておく必要があった。

 2つ目の目的は、今しがた11人までは確認できた。だが、この後増える可能性もある。屋上に釣り出した人間を引き連れつつ逃げ回り、逃走中にどの程度増えるかで、組織の規模にアタリをつけるつもりだったのだ。









 一度逃げ切った後。マンションの屋上で一応の方針を立て、再び見つけたヤクザを上から付けていったカナタは、奴らの入っていくビルを確認。そのまま向かいのビルから、しばらく各フロアを探っていた。しかし、いくつか部屋はあるが、どれも中はよく見えない。

 さてどうしよう、と。逡巡し始めたとき、唐突に窓が開いた。見れば見覚えのあるラガーマン。

 あ、いた。と思った瞬間、目が合った。急激に険しくなるヤクザの表情に「あ、これアカン奴だ」と察するも、時すでに遅し。

 突如響いた怒号に、脚が竦んだ。


 次いで現れる顔顔顔…。都合11の強面が一堂に会し、カナタは失神しそうになった。


(って逃避してんじゃねぇ…っ、目的を果たせ…っ!)


 そうかつを入れ、11人全員をしっかりとカメラに収めていく。ただそれだけで、10km走ったかのような汗が出た。堪らず掌で顔をあおぐ。


 瞬間響き渡った「殺せ!!」の声に「なんでだよ!?」と内心大慌てだった。


 ラガーマンを除いた10人が動き出し、1人が向かいのビルの屋上に現れた。3人がビルの外に出て路上で待機し、6人がカナタの居るビルに入ってくる。それだけ見届けたカナタは、恐怖のあまり早々に撤退を開始した。


「待てごらぁ!!」

「逃げたぞ!北の方だ!」


 見張り役が向かいの屋上から身を乗り出して他の9人に無線で指示を出す。

 駆けだして直ぐに迫る屋上の端。隣のビルまで3m弱。50センチほど向こうの方が高い。地上高は25mほど。落ちたらまず助からないだろう。

 しかし、カナタは躊躇いなく踏み切った。膝を抱えることもなく、ただ走っているだけのような自然さで着地。スピードを落とすことなく、次のビルも走破する。外階段から作業用のラダーを上ってきた6人が息を切らせながら屋上に現れるも、カナタはすでに3軒となりのビルにいた。


「あの野郎!!」

「追うぞ!」


 6人はカナタ同様にビルを渡って追いかけるも、あまりに速度が違い過ぎた。凄まじい勢いで、その距離が離されていく。

 原因は躊躇。カナタはビルを移る際に全く躊躇いがない。しかし、普通はそうもいかないものだ。いくら届くだろうと思える距離でも、25mの高さでは足も竦む。飛び移る前にしっかりと距離を測り、失敗しないよう歩幅を図る。


 カナタの移動は、その作業が全く無いのだ。


 これはパルクールという技術の一端だ。歩幅の調整や足捌き。ルートの選別と、その判断の速さ。それらが群を抜いている。

 自身の能力を過分にも過小にも評価しない把握力、体をイメージそのままに動かすセンス、地形や周囲を正確に掴み取る空間認識力。この3つに、抜群に長けたカナタだからこそできる芸当だった。


 しかし、飛び移れる屋上が、いつまでも続くとは限らない。ヤクザの姿が点に見えるほど引き離したところで、ついに高所での移動が限界になる。

 隣のビルまで目算で約15m。さすがに飛び移れない。


 端までたどり着いたカナタは縁に片足を乗せ、下をざっと眺めた。

 歩道付き片側1車線の、少し広めの道路。すぐ右手が交差点になっており、信号が設置されている。道路案内の青看板や電柱など、高めの路上設置物が多い。今いるビルにも、壁面にいくつか看板が設置されており、小窓や転落防止柵など、足場はいくつもある。


(伝って下まで降りられる!)


 一瞬でそう判断したカナタは、後ろを振り返り、ヤクザを見た。






 屋上を追ってきた6人のヤクザは、馬鹿にしたようにほくそ笑んでいた。

 黒づくめがたどり着いたのは袋小路。25m下は少し大きめの道路で、信号付きの交差点になっている。その先に飛び移れるビルはなく、このまま半包囲するだけで終わりだ。


 そう確信していたヤクザは、目の前で起きたことに啞然とした。




 黒づくめが、躊躇ためらいなく飛び降りたからだ。




「「「は?はぁぁぁあああ!!?」」」


 ヤクザの野太い絶叫が、コンクリートの狭間に木霊した。









「暑い…」


 そう言って、自転車にまたがって信号待ちをしていた少女が、キャップのつばを少し上げ、左手につけたリストバンドで額をぬぐった。空は青く、夏の強烈な日差しが斜めに照り付けてくる。その容赦のなさに、少女はやや釣りがちな眦を下げた。反面、普段はハの字がちな垂れ眉はやや尻上がりだ。眉間にははっきりと皺を作っている。

 日に焼けないように着込んだ黒色の長袖インナーが、汗で張り付いて少々鬱陶しい。その上から重ね着たフード付きの白い半袖シャツはワンピースになっており、股下まで裾がある。下は足首まであるレギンスと、デニムのショートパンツを纏っており、スレンダーな体にはよく似合っていた。少しゆったりした上着の裾が、うなじで丸く纏められた栗毛の柔らかな髪と一緒に風にたなびいている。


 しかし、最も特徴的なのは、背中には背負われた大きな四角いリュックだ。某有名フード配達員の証であるサービス名が、でかでかと書かれていた。


 彼女「有澤沙那ありさわ さな」は勤労少女だった。朝から夕方頃までファミレスやファストフード店でバイトをした後、ボーナスのつくピークタイムを狙って配達を始めるのが日課になっている。今日はまだ1時間程度だが、既に4件の宅配を終えていた。時給に換算すると2500円前後だ。

 いいペース、と、サナは信号待ちの間にアプリをチェックしようと、スマホを取り出した。


 その時、上から変な音が聞こえた。


 固いものに何かがぶつかる音や、靴裏で強く壁を蹴ったような音、金属のたわむような音。それらが短いスパンでいくつも聞こえ、しかも近づいてくる。

 その場にいた他の通行人が、揃って訝し気に頭上を見上げた。当然サナもその例に漏れず、眉をしかめながら顔を上げる。

 同時、黒い影がサナの目の前に落ちてきた。


「ひゃあ!!」


 ズダン、と、サナの目の前に着弾した塊。それに驚いて、サナはスマホを取り落とした。ガシャンという画面が砕ける音と共に、その塊が立ち上がりサナを向く。


 空から降ってきたそれは人間だった。

 他の通行人が目を剥いて凝視する中、虹色に輝くスモークゴーグルとサナの視線がしばしかち合う。


 サナは混乱していた。身長が同じくらいとか、いったい何処からとか、突然危ないじゃないとか、いろいろ思うことは多かった。

 だが、その全身を眺めた瞬間、全ての思考が吹っ飛んだ。


 ゴーグルとマスクとフードで隠された顔。指先まで含めて全身黒づくめ。“らめぇ♡”とラメで書かれたスウェット。胸元から覗く“SEX”の字。ポタポタと滴る汗。荒い息。


 どう見ても変態だった。


「ひっ…!」

「あ、ごめ…、っ!」


 変態ことカナタは謝ろうとするも、何かに気付いて弾かれたように上を見た。つられてサナもその視線を追う。


「いたぞ!下まで降りてやがる!!」

「嘘だろ…!信じらんねぇ!!」

「そこの交差点だ!急げ!!」


 屋上から顔を覗かせた6人が怒声を上げ、地上で追っていた3人に指示が下る。

 その声、視線、表情、仕草、その他あらゆる生理現象から、戸惑いや焦燥の他に純粋な悪意まで感じ取ったサナは、たまらず身を震わせた。

 一方、敵の動向を確認したカナタは、目の前の少女とその足元で壊れたスマホを一瞥いちべつ


「…ごめんっ」

「え?」


 一度だけ少女に向けて両手を合わせると、カナタは後ろ髪を引かれる思いできびすを返した。

 あっちへこっちへと視線が忙しいサナが振り向くと、既に見えるのは黒い後ろ姿だけ。それもすぐに、日の届かないビルの隙間へと消えていった。


「待ちやがれ!」

「ひっ!!」


 黒い姿が闇に溶けると同時、罵声が少女の両脇を通り過ぎる。それはどう見てもヤクザだった。それが3人、黒い背中を追いかけて行く。


「…何?なんなの…?」


 サナは頬を引きつらせながら、震える両手を口元に寄せ、その喧騒を見送った。



 突然すぎる意味不明な状況。

 あごから滴る、暑さによらない汗。

 あわ立つ肌に思わず体をき抱いた少女は、唇を震わせて視線を落とす。


 その視線の先には、見慣れたスマホが転がっていた。

 


 なけなしの貯金を放出して買った、貴重な我が家のライフラインが。

 本体代も払い終わらぬまま。


 見事に、砕け散っていた。




 目の前の惨状を理解するのに数秒を要した彼女は。


「…………ーーーーーっっっ!!!」


 頭を抱えて、声にならない悲鳴を上げた。

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