ツェーザル家の末娘ユリアナ 後編

ツェーザル家の末娘ユリアナ 後編



何日か、何週間か。私は沼の底、暗闇の中でもよく見える瞳で溶け固まった金属の天井その凹凸をジッと見つめながら自分の中に何か新しいものを探していた。


自分の中で生まれた絶望は、あっけなく飼い慣らされてしまった。自分が愚かだった。力があったはずなのに、勇気も何も無かったのだから奪われて当然だ。


頭の中が冴え渡った。この答えは私にとって、いや、彼らにとってとても理解しやすいものだろう。奪われてしまった懺悔は、結局奪われたことから逃れられないことへの嘆きに過ぎない。私は自分から全てが奪われるだけの存在だ。その理由は弱いから、愚かだったから、強い力がありながらも躊躇ったから、大切なものがどれなのか見誤ったから。ただびと故に。ただそれだけだったのだから。


私はよしと思った。ただびとである自分を私は殺すことにした。この数週間かあるいは数時間の思考は端的にそれこそが最適解であると言っていた。


その最初の嚆矢こそが、今自分を抑え込むこの訳のわからぬ鉄の箱なのだ。この箱を破壊して、私は森を見る。そこで私は初めて生まれることができるのだ。


何もない私は、自分自身を取り返さなければならない、生まれ直し、私はただびとの愚かしく脆弱な私から私自身を取り返さなければならない。


もう、二度と、決して、何も、爪の垢一摘みでさえも奪われてはならないのだから。死ねないのならば、私は生きる意味を決めようと思った。私は奪うつもりなど毛頭ない。決して奪われることだけはあってはならないが、奪うつもりは毛頭ない。


しかし、奪われるだけの存在になり下がらぬために、物体や概念が私と他者の間で、脆弱な私を殺すための手段として行き来を繰り返すのであればそれは致し方ないことであり、私は強靭無比の私を絶対に肯定する。


私は奪われないためならば如何なる手段も厭わない。その間に私が発する尽くの力は全てが善である。


私はもはやただびとではおれないのだ。何か、測り難い天秤を打ち壊すことがただびとではなくなるための絶対条件なのだから。


私は力を込めて叛逆を開始した。


腕をただ、力任せに押し上げる。ギシギシと金属が歪む。ただ、力を込める。万感を乗せて。押し上げる。


数分後、鉄の箱は私の力に屈した。歪に切り裂かれた錫と鉄と銅と銀と…。私は水中で一息吸い込むと昔家族で川遊びをしたのを思い出して手をかいた。


息苦しさなどまるでなく、一かきで数十メートルを、浮上した。


ごうん。ごうん。気泡が漏れ出、その気泡が浮き上がるのよりも早く私は浮上する。水を切り裂いて浮上する。


ざばり。光が目に飛び込んできた。沼底の泥を体から払いながら、私は初めて自分の足で森の土を踏み締めた。


一人で立った。緑の屋根と巨木の壁に囲まれた森だ。


鼻から息を吸う。当然だが苦しさなどない。行くあてもなく、前へと進むことに決めた。私は自分がきっとさぞかし笑顔であろうと思った。


誰もいない森を進む。


それは、今思えば運命に他ならなかったのかもしれない。火に焼かれる寸前、家族と最後に見つめた先はきっと森に違いなかった。許しも、何も与えることはないが、決して奪うことはない。心を寄せれば受け止めてくれるのはそこしか無かったはずだ。遥か遠くからも見えた微かな、しかし鮮烈は緑。あそこへ行きたかった。私から奪おうとする者は誰もいないあそこへ。


そして私は森にいる。森の中を進んだ。太陽が上がっても。月が上がっても。水も呑まず。物も食べず。


ただ歩き続けた。



十日間走り続けた。生まれてからこれほど走ったことはなかった。私はそれでも疲れを覚えていなかった。むしろ、初めての感覚に打ち震えていた。腐れ落ちた体と心が再構築されるような。それこそ、本当に生まれ変わってしまうような。爽やかだった。私の中身が入れ替わり…いや、蒙かったものが啓かれるような。そんな感覚だ。


とめどない力に任せて足をすすめた。真っ直ぐに走り、駆ける。靴も服も、全てが焼かれ、失われた私の体は驚くほど心地よい何かに包まれるようだった。それは前へ進めば進むほどにその感覚が強くなる。それと同時に、頭の中にそれまで知らないことが次々と詰め込まれるような感覚が、全能感と、そして向かう相手の分からない、しかし抗いようのない渇望と執着と情愛とが身体の全てを占めていた。


更に三日走った。果てのない広大な森はいよいよ深まりを見せていた。時折目に着く、知らない生き物や、魔物と呼ばれる者たちが営む村のようなものを横切りながら、私は進んだ。


ますます強くなる情動。感情の高鳴りは知らないものだった。胸が高鳴り、高揚していた。それに伴い頭の中にはそれまで流れ込んでいた全ての情報を整理する聡明さが宿っていた。まるで別物であった。


言葉は羅列でもってとめどなく流入し、そして私は悟った。今の自分はユリアナ・ツェーザルである。だが、それ以前の私がいたのだと。


ユリアナとして生まれる前の私は角や尻尾のことを含めて全く異なる外見をしていたように思う。不確かな自分自身の情報の代わりに、使い方の分からない未知の知識が頭に叩き込まれ、私はなぜかその使い方を理解できる。分からないのに、絶対に出来るのだ。


魔法なるものの活用方法。


電気なる力。


その電気で動く不思議な道具たち。


水をきれいにする方法。


小さな笛や美しい手品の仕方、香辛料を煮詰めた茶色の見たこともない料理の作り方や火で燃える水のこと、魔力で輝く鉄の作り方、巨大な攻城兵器さえ、私はどうすればどうなるのか理解できる。


しかし、それは元から知っていることが今頭の中で解き放たれたような感覚だった。


感覚が、情報が、知識が、とめどなく私を多い、私はますます自分の中の執着とも忠誠とも言える何かが大きくなるのを感じた。


主従を知らぬはずなのに、求めてやまない何か。


もう一つの命を生きていた私は知らない、元からここで生きていた私が知らない私が、自分の全てよりも大切にしてきた何か。もう一つの世界で生きて死んだ私が求めていた、求めてやまなかったが、結局手に入らなかったもの。それ故に死してなお、求めるもの。


不思議な感覚。私は自分一人で自問自答しているようで、今の私と、もう一つの世界の私と、そしてこの世界で私が生まれる前に生きていた私の…きっとこの体の不思議を纏っていた私との対話を重ね続けていた。


足は止まらない。高鳴り続ける胸は歓喜を叫んでいる。私はわからない。今の私は分からないのに。私は生まれて初めて嫉妬を覚えた。自分の知らないその愛しくてたまらない何かを知っている、私以外の二人の私に。仲間はずれは嫌だ。


気づかないうちに、私は巨大な原っぱに来ていた。森の中にできた、もう一つの世界で生きていた私が言うところのギャップというやつである。


小川が流れていて、私はそこで無性に今の自分の姿が見たくなった。水面に映るのは美しい女だ。


髪は前にも増して美しい白だ。銀でさえも眩むような透き通るような美しさはしかし、純白と言うべき潔白だ。瞳は青かった。奥の奥、水晶体のその先まで、脳の奥深くにはピンク色の肉ではなく、灰色に超演算を弾き出す量子の群が泳いでいる気がした。肌は白い。前世でも私の肌は白くて、でも髪は黒かったらしい。顔を構成する全てが美しく。例え瞳だけ、眉だけであってもあらゆる美を知らしめるような色気と艶やかさが放たれていた。妖しいまでの美しさが、私がそれこそ怪物になったかの様な錯覚に陥るほどに明らかだった。耳の後ろあたりから伸びる短めの角と、自由自在に動く緻密な鱗を纏う尻尾は私の姿に反逆するように漆黒だ。色を全て閉じ込めてしまうような煌めきを放つ、黒曜石が言い得て妙なそれは何人にも侵しがたい神威を放っていた。


見とれた。今、自分の顔を写すこの水の鏡を壊してしまっても、またこの私は現れるのだろうか。


そんな不安と期待が入り混じる好奇心に任せて私は乱暴に掻き回すように水を掬い取り、飲んだ。


自分の顔の美しさは素晴らしかったが、この喉を通る水もまた漏れ出る声を堰き止めることのないほど美味だった。


しばし呆然とし、ひと心地ついた。私は再び水面に映るのは神秘と対面した。


そして、今の自分の自由さに感動を覚えたのである。


それまで、復讐とも言えない複雑な何かに悶えていた私は決して自由ではなかった。何か、天秤を壊したことで私はただびとでしかなかった私との決別を果たしたが、それは真の意味でまだ見ぬ、この胸をたぎらせる大切な存在へと至る者にはふさわしくないものだったに違いない。


私はきっと振り回されてしまったことだろう。天秤が壊れたことで私の中で押し込められていた意識と知識が解放されたのだろうが、それは決して私が完成したからではないのだ。


私はもう一つ、こうして気づくことで初めて生まれ変われるのかも知れない。本当の意味で非情になることができるのは、やはりより大きな力で強すぎる力の手綱を握りしめることのできるものだけなのだ。


でなければ、我が子との対面を果たすことすらできないだろう。


これは私の言葉か、この世界の古を知る私の言葉か、はたまた命も厭わぬ渇望の末にさえ手に入れられなかった宝物を死してなお諦めることなきもう一つの世界に生きた私の言葉か。


何にせよ、私は目が覚めた思いだった。目的もできた。今日は眠ることにした。


瞼が重いと思ったのは久しぶりだった。




明け方の轟音は森中に、大陸中に、そして世界中に奇跡の誕生を知らしめる神代の産声であった。


朝起きたら目の前の原っぱが根こそぎ吹き飛び、向こうまで木々が倒れていた。


胸を抑えて起き上がる。知らない。私は知らない。こんな高鳴りを知らない。今まで、それは未知でありながら既知のものだった。けれど、失われたものであり、渇望しても手の届かないものだった。


でも、これは違う。本物だ。求めていたものだ。私の全てだ!私の光だ!!


いても立ってもいられなかった。勝手に流れ落ちる涙を振り落としながら、未だかつてない歓喜に心と体を震わせながらその輝きの元へと向かう。


龍の力は強大で、一朝一夕で扱えるものではなかった。けれど、それがどうだろうか。あの光が!あの奇跡が私に近づけば近づくほどに声高らかに私の意志に服することを宣誓するのだ!


人馬一体の妙技の如く、気づけば完全に理解しきった体を最大限に活用して、トップスピードでその奇跡の光へと擦り寄る。


巨大なクレーター。周囲には古代の遺跡らしきもの。そして、クレーターの真ん中に煌々と照る、まさに太陽ともいうべき、漆黒の石とも金属とも言える何かが落ちている。


私は体が動くに任せてその光を掻き抱く。一抱えもある、赤子が入るような大きさのそれは温かく、尋常ならざる波動をシンシンと発して、私の心と体を、私の全てを鷲掴みにした。


「あぁぁ!!この子だ!!この子なんだ!!待ってたんだ!!ずっと!ずっと!ずっと!何千年待ったろうか!!!あぁ!!君なんだな!!忘れてない!忘れるわけがないだろう!!!ぁぁ!!」


私の中の、古い時代を生きた私がそう叫んだ。たまらないのだ。堪えきれない歓喜は幸福をそのままに脳髄へ打ち込まれるような狂おしいほどの高貴な快楽だった。


「ふふふ!!まっていたんだよ!前の世界では出会えなかったね!でも大丈夫!!私がいるから!!私はここだよ!!君を最後まで腕に抱いてあげられなかったの!!!でも、君は今ここにいる!ごめんね!でも嬉しくてたまらないんだ!!あぁ、なみだがどばらないよぅ!!私の子だ!!君こそが!私の子供なんだ!!」


もう一つの世界で生きて死んだ私が顔を喜びの涙でしわくちゃにしながら訴えた。嬉しい、幸せ、母性、愛情、執着…ドロドロなそれは気味悪さを感じるほどに歪みがなく、真っ直ぐで貫くように鋭く、鉄よりも硬い。全てがほとばしりが、止まらなかった。


「…私にはもう何もない!君だけだ!!私はもう君だけがいてくれればいい!!君を幸せにする!!どんな願いも叶えてみせる!!私は知っているんだ!!君だろう?君が私を救ってくれたんだろう?なら当然だ。私は君のために生きる!!もう決めたんだ!!私は他の二人と共に全てから君を守る!!!君が望めば全てをその通りにするさ!!!だから、ね?私と一緒にいてほしい!!もう嫌だ!!失いたくない!!!奪われたくない!!!でも!あぁ…これは怒りでも、悲しみでもない。なんで素晴らしいんだろう?君への思いが私に教えてくれたんだよ?私は死んだ!今、昔の私は死んだ!!弱く、愚かだった私は死んだ!!もう死んだんだ!!君が殺してくれた!!」


「だから、もう迷わないよ。曇らないよ。間違えない。奪われない。君のものだからね。君が望む、そのすべてが。当然さ。」


そして、今の私もまた思いの丈を全て打ち明けた。こじ開けられてしまったそれはしばらく止まらなかった。結局、言葉をいくら並べても人間は難くて、私は魔のもので、家族は私のせいで死んで、家族を殺したのは人間で、弱いくへに強い私だけが生きて。


そんな私は今死んだ。迷うものは無くなった。私は自分を許すことができた。家族は死んでしまった。失ってしまったものは決して戻ることがない。私はそれを知っている。だから、一度私は死んだんだ。


この子だけが家族。父さん、母さん、兄さん、姉さん。大丈夫、この子はとってもいい子なんだ。


全部、知っているんだ。私の大切な家族がどれだけ酷い苦しみを味わったのか。姉さんたちは結婚どころかお付き合いだってまだだったじゃないか。


大切な宝物を育む大事な場所を、無遠慮に、暴力で持って引き裂かれたんだ。私は姉さんたちが残せなかった分もこの子を大切に大切に育てるよ。


私は魔のものだけど、同時に父さんたちの血が入ってる。私がこの子と一緒に全てを清算させるよ。だから、安らかに眠ってほしい。


私は腕の中の黒い奇跡を抱きしめた。この子が放つ波動はとくとくと穏やかで優しい。全てを癒してくれる。


私の中の私はこの子がまだ生まれる時ではないと言っている。私は考える。この子が生まれた時、きっと素敵なお家が必要だ。好きな食べ物もたくさんあると良い。温かい寝台も必要だ。この子を可愛がって、守ってくれる人も、愛してくれる人も…本来ならすぐさま会えるはずだったのに…なのに、足りないから会えない。全然足りない。私は腹の奥底が憤怒で満たされることを許した。



さぁ、始めよう。子育てに必要なものを揃えぬ限りには遥かなる存在を迎えることなど傲慢が過ぎるというものだ。


愛しの我が子のために用意しなければならないものは多い。そして、それらを揃えるために奮う力は全て揃っている。


私はこの子のために生きる。もう失うものはない。この子を失うなど断じて許容しない。汚れた大気を一息吸わせることすらも許さない。中途半端な美食や美姫など許さない。全てを受け止め、全てを遂行し、全てを捧げて初めて逢い見えることができるのだ。


私はもう二人の私と意志と目的を一つにした。


もはや恐れるものは何もない。


愛しい奇跡を胸に抱き、ゆっくりとすり鉢型のクレーターを出た。


クレーターを出た私は先ほどから増え続けている無数の瞳と気配にむけて高らかに宣言した。私の中から古の龍たる私が意識に現れた。魔力を膨らませ、覇気を波動にして世界に宣告する。


「今ここに!我らが大いなる主君!御宇(ユーニアスター)は座し給うた!!!」


「おおおお!!!」


名も知らぬ魔の者ども。しかし私と同じ、魔の輩故に理解できるこの奇跡の神聖を全ての頂きにして、私は堂々と続ける。


「ここに!我らが戴く御宇より幾星霜越しの勅命が下された!!御宇の威光の下に魔の民による唯一の国を建てるべし!!!真の主を迎えるための揺籠を拵える大任!確かにこの古龍人(エンパイオス)の末裔、ユリアナ・ツェーザルが承った!!!」


「主より賜りし聖なる姓はディクタトラ!!!」


「この日までよく耐えた!御宇の名の下に団結し、古の森に繁栄を築かん!!!」


オオオオオオオォォ!!!!



魔の民は血で結ばれている。その血はあらゆる過程と困難と吹き飛ばし、訴えかける信服に従うのだ。


古の森にのこる森の掟をも上回るその奇跡は、幾千年振りに宇宙(そら)の意志に守護された魔の輩の神主と崇め奉られる御宇(ユーニアスター)が再臨したことを証明していた。


ユーニアスターは最初にその奇跡に触れたものを自らの傅役と決め、最大の奇跡を与える。


奇跡は聖なる名前として現れ出でた。魔の者どもの歓喜は古の大森林奥深くから三日三晩響き続けた。


ここに、ユリアナ・ツェーザル・ディクタトラ。


またの名を、ユリアナ・カエサル・ディクタトラが誕生した。


彼女はこの奇跡の再臨から一年足らずでバルカン帝国を建国する。


大陸総面積の約十分の一を占める古の大森林全域を完全に掌握支配する前代未聞の巨大帝国の誕生であり、それと同時に、揺籠の100年の始まりであり、全ての魔の民…森人(フォームレスト)の栄光の始まりにして、散々好き放題してきた無法者が味わうこととなる絶望への始まりの時であった。

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