第2話 滴るそれは暖かく、そして……
最近は教室の話し声が良く耳に入るようになった。
それは多分、ひとり静けさを保ちながら教科書とノートに向かっているからだろう。
数学は心地よい。余計な感情を挟む余裕がなく、整然と並べられた数字や曲線、図形に対して淡々と解を探し求めるだけで良いのだから。
クラスメイトの声は邪魔にならない。通学で使っている電車の音が気にならないのと同じで、等しく私にとって背景でしかないのだから。
ただ、
「空木野さん」
「ん、なに?」
最近はその背景がずかずかと私の中に入ってくる。
その栗色の髪の毛はまだ見慣れなくて、自然と視界があの子から外れる。何かを見ているようで何も見ていない私は耳だけを彼女に向ける。
「あの、その……」
視線だけだと私が無視しているように見えたのか、それとも彼女がもともと話すことに慣れていないのかは、わからない。どちらかというと前者なのかしら。後者については……わからない。そもそも潤井さんと話なんかしたことがないのだから。話しているところも見たことがない。
はなしてくれるまでもう一問と思ったけれど、窓辺から吹き込むそよ風にページは捲られていて、仕方なくノートを閉じた。
「ちゃんと聞いてるから」
「う、うん。ありがとう。それでね、次の授業なんだけど化学室だから……そろそろ行かないと間に合わないかも」
掛けられた時計に目を移すと、始業開始のチャイムまであと5分を切っていた。二年生の教室から科学室までは遠く、クラスメイトの声はいつの間にか消えていて、ここには私と彼女ふたりだけの空間が広がっている。
「ありがとう、忘れてた」
机から教科書を探し出して筆記用具を片付けてなんてしていたら間に合わないわね。クラスの見本ともなる学級委員長がこれでいいのかと思わないことはなく、少し心が痛い。
遅れることは決まっているので準備は急がない。時間に急かされていても私は気にしない。ただ、横に立ち続けている潤井さんの、無言の圧力とも思わせられるそれからはどうしても急かされているような気がしてしまう。
「先に行かないの? あなたまで遅刻してしまうわ」
「ど、どうせ同じ場所なんだから、一緒にいきたいなぁ、なんて」
いくら遠いと言っても科学室までひとりで歩くことに不安は感じたことなんて一度もないから、わからない。どうしてそんな気持ちが彼女に湧いたのかなんて――考えようとしてやめた。解なんていうものはそもそもないのかもしれないのだから、いくら考えてもそれは徒労ともいえよう。
「よくわからないけど、うん。でも私、急ぐ気なんてないからゆっくり行くけど」
「う、うん! 大丈夫。それでいい――ありがとう」
トクン。
そんな音が聞こえたような気がした。それはまるで雨だれのようで、一滴のうるおいが何かに注がれるような、不思議な音だ。雨なんて降っていないのに。
七分咲きのその笑顔に聞いても多分、解なんて見つからないだろう。
廊下は教室から漏れ出た声があちらにもこちらにも散らばっていて、けれど扉一枚に空間を切り取られているみたいでやはりそれは私にとってそれは背景だった。だからこそ隣に歩く潤井さんの輪郭が色濃く私に映り、どうしても気になってしまう。
「どうして一緒に行きたかったの?」
「え、えぇ!? そ、それ聞くの?」
「聞いちゃいけなかった?」
「そういうわけではないんだけど、ね」
わからないことは聞きたくなってしまうのはもしかして、私の悪い癖なのかもしれない。その癖の悪さを聞いてみたかったけれど、それは止めた。
不自然なくらいに瞬きを繰り返す彼女を見て言えるわけがない。また、まただ、蝶のように長いまつ毛が羽ばたきを繰り返す。
未だ彼女に視線を向けられない私はその様子にだけ目を奪われて、また見つめてしまう。
「こういうこと、したことなかったから」
「だからたまたま残っていた私に声を掛けてみた、ということ?」
「誰でも良かったっていうわけではない、けど」
不正解ではないけれど正解でもないような解だったらしい。そういうことをしたいなら私じゃなくても良かっただろうに。残っていたのが私でなく例えば……田中さんとかでも良かっただろう。私よりも愛想の良い彼女の方がよほど適任だと思う。
「ほかの子だったらこういうことはしてなかったんだ」
「うん、そんなことしたら多分……嫌な気分にしちゃうし、わたしもそうなっちゃう、から」
「ごめんなさい、無神経だったわ」
「ううん、大丈夫」
日に雲が差し込まれたように、どこか冷たく暗い声色で話す彼女には謝らなければいけない。今朝のことだって、昨日だって、もっと前だって、クラスメイトに興味のない私でも気づくくらいのことを彼女は、されていたはずだ。
理由はわからないけれど潤井さんは、いじめられていた。多分主犯格はいつも教室で変に笑っているあの子たちだろう。顔は知っているけれど、名前は聞いたことがない。
であれば、私でなくてもその子たち以外の人に声を掛けたらいいじゃない。なんてことを言うのは潤井さんにとって酷なことというのは私でもわかる。
見て見ぬ振りをしているクラスメイトだってそれに加担していて、彼女からしたら等しく主犯格だ。それは例外なく、私も。
「だからね、やめてよって言ってくれた空木野さんじゃなきゃ、怖かったの」
言ってくれたという言葉が私の心にチクリと刺さる。それはあなたのために言ったことではないの。それは、私を救うため。
「ごめんなさい」
「ど、どうして空木野さんが謝るの? 何も悪いことなんてしてないよ?」
しているのよ。ここでもしあなたの為じゃないなんて言ったら多分、あの子はまた傷ついてしまうだろう。救ったつもりなんてないのに勝手に救われた気になって、私はあの子に夢を見せてしまった。現実とそっくりなそれはとても残酷で、目覚めてしまったら余計に苦しむことになってしまうだろう。
だから私は何も言わない。呪いとも言えるそれをかけてしまったのは私なのだから。
「空木野さん、わたしがあなたに言った言葉、覚えてる?」
「どれ、かな」
「助けてくれて、ありがとう。その言葉がわたしの空木野さんへの全部なんだよ」
トクン。
まただ、また、雨だれを聞いた。それはいったい何に注がれているんだろう。なにが注がれているのだろう。どうして私は、そんな音が聞こえてしまうのだろう。
「……うん」
うまく笑えていない、触れてしまったら壊れてしまいそうな彼女の前では、頭に浮かんだ言葉なんてひとつも喉から伝えることができない。
「わかった」
抱き寄せることも触れることも許されない私に唯一できたことは、それをただ受け止めるだけだった。
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