滴るあなたで溺れたい
テルミ
第1話 救いと報いの糸の先
母親が新しい男を連れてきた日、私は家という居場所から追い出されたような気分だった。
今まで私にばっかり構ってくれた、一心に愛を注いでくれた母はそこに居ない。隣には上辺だけの笑顔を私に向ける知らない人が居て、他人が私の家で暮らしているみたい。
けれど実際、あの家で他人なのは私の方なのかもしれない。
逃げるように一歩一歩その足を進めていく。本当はもっと早く、どこか知らないところまで飛んで行ってしまいたかったけれど生憎、私に羽なんて生えていない。
どうせ身体はどこにも行けないのだから、せめて心だけでも遠く遠く、遠く。
だから、
誰よりも早く登校した。
進学する気もないのに希望して、遅くまで学校で勉強した。
なりたくもない学級委員長に立候補した。
何か考える時間が増えた。その時は家のことなんて忘れられるから。
ノイズみたいに聞こえる街の、校内の喧騒が心地良い。家と比べてだけれど。
一段一段階段を駆け上がる度に、空に近づいているような感覚がある。そんなことでも少し救われるような感覚がある。
教室の扉を開けるとそこだけ、沈黙が広がっていた。毎日の喧騒がそこだけになくて、他愛のない話をいつもしている田中さんも今日は口を閉ざして、他の皆も沈黙を守り続けている。視線を一点に向けながら。
それは私の後ろの
彼女は何も言わない。何もせず、ただただ俯いていた。
水も注がれていなければ花も添えられていないそれはまるで、私みたい。
注がれない愛に私は干からびて、そこに花なんてものは一輪も、咲くわけがない。
教室の隅には奇妙に笑う顔がちらほらとあった。多分、そういうことなんだろう。
気分が悪い。こんな、こんなところでも考えさせられるなんて。
だから私は、そんな沈黙に亀裂を入れる。
「やめてよ、こんなこと」
鞄を置いて、潤井さんの机に置かれたそれは掃除用具入れのバケツに重ねるように捨て、扉を閉じる。しっかりと閉まるように強く、強く、叩きつけるように。こんなもの、もう目に入れたくはないもの。
その亀裂は徐々に徐々に広がり、いずれ破片をボロボロと散らせながら割れる。
どういえば昨日さ、週末の大会が、明日の小テストが、言葉は波紋のように広がる。かくして私の喧騒は守られた。
誰がやったのかは知らないけれど、もうこんなことはしないでほしい。私の求める日常を潰さないで。
鞄の教科書を机に押し込んで、誰にも吐けるわけのない言葉は鞄に押し込めた。
「
知らない声が聞こえた。小さくてか弱くて、今にも折れてしまいそうな声だ。
それは後ろから、すぐ後ろの席からだというのに、私から伸びる影よりも遠くから発されているみたい。
「ん、どうしたの?」
栗色の髪が陽光にさらされてキラキラと光る。
あちらにもこちらにも向く視線に揺れる長いまつ毛に不思議と、目が奪われる。
「助けてくれて、ありがとう」
「別に、助けたつもりではないから。潤井さんが勝手に救われたと思っているだけよ」
「それなら、それでいいから、もう一回言わせて」
「――ありがとう」
思い返すとその日が、その出会いが、その言葉が私を救うきっかけだったのかもしれない。
これから始まる物語はまるで、救いと報いで紡がれた繭のよう。
包まれた私は、どんな色の羽で飛び立つのだろう。
今の私にもそれは、わからない。
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