サイン

 今度は老人の話である。一連の話題に脈絡がない。それに、年寄りを大切にして人生が狂うとはどういった状況なのだ。介護疲れで鬱になるとか、それでその身内を手に掛けてしまうとかだろうか。


「そう言われても……『大切にする』という行為の定義が曖昧なので……なんとも……」


「なんなら敬う、優しくする、親切にする、丁重に扱うなどと言い換えても構いません」


「はぁ……そうですね……程度、によるんじゃないですかね……自分が潰れない程度に大切にするというか……」


「いえいえ、そうじゃなくて。そういった『一般に善行とされることをすると人生が狂ってしまうとしたらどうするか』と訊いているんです」


「ああ……じゃあ、関わらなければいいんじゃないですかね……」


「まったく? 一切? 少しも? 全然?」


 人生が狂うというのも漠然とした表現だが、少なくとも良い結果でないことだけは確かだ。


「あなたにできますか?」


「え? なにがですか?」


「今あなたが言ったじゃないですか」


「年寄りと……関わらないようにする……ということですか?」


 男はソファに踏ん反り返ったまま、相変わらず蔑んだような目で俺を見ていた。なぜそんな目を向けてくるのか。携帯を拾ってもらったとはいえ、こんな年下らしきチャラついた男にマウントを取られるのは面白くない。


「幸い今ここに年寄りは一人もいません」


 思わず周りを見回す。年寄りどころか俺たち以外には誰もいない。まだ夜も早いせいだろう。ウェイターもあれっきり姿を見せていない。


「あの……それで、どうしろと?」


「それじゃあ、これにサインしてもらっていいですか?」


「え?」


 男はどこからか取り出した紙とペンをテーブルの上に置いて俺のほうへ向けた。紙面には何も書かれていない。コピー用紙サイズの真っさらな紙だ。


「あの、すいません……これは?」


「受領書のようなものです。僕から話を聞いたという証明の」


 そうじゃないだろう。まだどうでもいい話しか聞いていない。ならばこれは受領書ではなく、話を聞かせた後に俺にそれを実行させるための契約書、もしくは同意書である。


「いや、でもまだなにも」


「サインしてもらっていいですか?」


 この様子ではサインをしない限り話が進みそうにない。もう一度テーブルの紙片に視線を落とす。ただの紙に名前を記しただけで法的な拘束力などあるのだろうか。


 紙を取り上げて裏面を確認する。やはり何も印字されてはいない。なにやら茶番に付き合わされているような気がしてきた。知人の誰かの手の込んだ悪戯かもしれない。狼狽うろたえる俺を見てどこかで笑っているのではないか。と、ふと奥の暗がりへ視線を向ける。


「どうかしましたか?」


「いえ……少し冷えるな、と……」


「そんなことより、急いでるんですよね?」


「え?」


 嘘をついたのを忘れていた。急がねばならない用事などない。


「ええ、まぁ……」


「サイン、してもらっていいですか?」


 粘っても時間の無駄のようだ。確証はないが、名前だけなら恐らく問題はないだろう。紙片をテーブルに置き、傍らのペンで名前を記す。つい癖で右下に小さな文字で書いてしまった。小心者の自分を表しているようで嫌になる。


「どうも」


 男は紙を引ったくるように回収すると三つ折りにして懐に入れた。


「以上で話は終わりです」


「え?」


「それと、こちらお返しします」


 テーブルの上に俺の携帯が置かれた。解放されるのだろうか。意味がわからない。


「もう帰ってもらっていいですよ」


「あの……話は、え? なにを実行すれば?」


「帰ってもらっていいですか?」




 建物から追い出されるようにして解放された。捕まった時とは大違いだ。結局、男が聞いて欲しかった話も、俺に実行して欲しかったこともわからずじまいだが、ラウンジの利用代金や携帯を拾ったことへの謝礼を要求されなかったので良しとする。


 ひょっとすると本当に知人の悪戯だったのかもしれない。あのチャラ男は駆け出しの劇団員か俳優志望で、台詞や演技はすべて事前に打ち合わせがされていたのではないか。それならば、慣れていない彼が『代金をもらっている』などと、つい依頼者がいることを漏らしてしまったとも考えられるし、高級そうなバーラウンジも実際は廃墟の一部分だけを片付けて綺麗に見せかけた可能性もある。


 そもそも男が声をかけてきたきっかけとなった携帯も、落としたのではなくられたと考えたほうが自然だ。人出が少ないとはいえ、繁華街で依頼の対象者に偶然遭遇し、その対象者が偶然落とした携帯を偶然拾得するなどあるものか。恐らく尾行でもされていたのだろう。


 突然の寒気に身震いする。寒い建物内でジッとしていたせいで身体が冷えたらしい。どこかで燗を一杯だけやってから帰ろう。

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