空手

 終わりの見えない通路を奥へと進んでいるうちに、学生時代に旅行で訪れたバンコクのカオサンロードと並行して伸びる、いかがわしい店が並んだ裏手の通りが脳裏に蘇ってきた。


 とはいえ似ているのは狭さと薄暗さぐらいなもので、噎せ返るような人々の熱気も俺に向けられる好奇の目もここにはないのだが。それでもなぜか自分の居場所ではないという異物感を異様に強く感じる。


 くねくねと歪な角度で曲がっている通路を無言で進む。靴音が聞こえない。そうは見えないがカーペットの類が敷かれているのだろう。


 しばらくすると突き当たりに黒いドアが見えてきた。振り返って男を確認する。こちらを見つめる虚ろな瞳と目が合う。見下すような嫌な目付きだ。


 ドアの前に立ち、もう一度男を振り返ってからノブに手を伸ばす。さっきのドアと違って重い。防火扉の役目もあるのかもしれない。


 半分ほど開いたドアの隙間から身を滑り込ませて暗幕を捲る。すると、通路と同様のブラックライトに照らされた広いラウンジが現れた。会員制、もしくは入店に知人の紹介が必要なバーといったところか。人の姿はなく、革張りの高級そうな一人掛けソファと正方形のテーブルがいくつも無秩序に配置されている。空間には奥行きがあるようだが暗くてよく見えない。


 ふと、襟元から入り込んだひんやりとした空気に身が強張る。外は氷点下に近い気温だというのに冷房が入っているようだ。


「どうぞ、好きなところへかけてください」


 個室のような場所に案内されるものと思っていたが違うらしい。人に聞かれるといけないと言っていたわりに、このような場所を選んだ意図が解せない。今は誰もいなくとも話を聞いているうちに他の客が来る可能性だってある。


 コートを着たまま手近なソファに腰を下ろした途端、今まで俺が立っていた場所にウェイターの姿を見つけて息を呑んだ。一体どこから、いつの間に現れたのか。近くにはバーカウンターも隠れられるような場所もない。


「なにか飲みますか?」


 テーブルを挟んだ俺の対面ではなく、少し斜めを向いたソファに腰を下ろして男が言った。


「いえ、結構です。それで話というのは……」


 男は手を軽く挙げてウェイターを下がらせると、身体をゆったりとソファに預けて脚を組み「その前に確認してもいいですか?」と顎を上げ、頭を傾けて見下すような目を向けてきた。


「なにを、ですか?」


「さっきも言いましたけど、僕の話を聞いたらその通りに実行してもらいたいんですよ」


 安易に頷いては男の思う壷だ。話を聞くとは言ったが、まだその内容を実行することに同意はしていない。もし犯罪のようなものに荷担させられるのであれば携帯は諦めるしかないだろう。


「それは……携帯を拾ってもらっておいて失礼ですが、正直、実行するかどうかはお話の内容によるといいますか……」


「映画は観ますか?」


 どうして映画の話が出てくるのだ。


「ええ、まぁ……」


「僕はどんでん返しがある映画が好きなんです。どのジャンルにせよ、筋がある程度パターン化したり似通ったりするのは仕方ないとして、そこでどうにか観客を飽きさせないよう繋ぎ止め、最後の最後でアッ! と驚くような逆転劇で度胆を抜く……あの、してやられた感が堪んないんですよ。わかります?」


「はぁ……」


「有名な空手映画があるんですけど、その映画の中で師匠は弟子の少年に毎日雑務をやらせるばかりで、まったく稽古をつけてあげようとしないんですね。ところがある日、悪漢に襲われた少年は、誰からも教えてもらっていないのに見事相手の攻撃を躱すんですよ。どうして少年にそんなことができたかわかります?」


 いつまでも稽古をつけてくれない師匠に業を煮やした少年が、通信制の空手に鞍替えしたか動画サイトで自発的に練習でもしたのではないか。


「さぁ……少年の運動神経がよかったとか、もともと才能があったとかですかね……」


 議論になるのが面倒で考えとは違う答えを適当に言った。


「そうじゃないんです。すでに稽古は始まっていたんですよ。弟子の少年が気づかなかっただけで、毎日やらされていた雑務が実は空手の動きを模したものだったんです」


 どういうわけか、子供にバレないよう野菜を細かく刻んで料理に混ぜ込む母親の姿が頭に浮かんだ。

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