素直になれないあなたへ

くろゐつむぎ

素直になれないあなたへ

 昨夜の雨で散ってしまった梅の花びらが、アスファルトの道路を桃色に染め上げた三月の初旬。


 校庭で別れを惜しんだり、再会を約束し合う卒業生たちの姿もまばらになっていく夕暮れ時。帰りゆく生徒たちの背中を、校舎の屋上から眺める女子生徒がいた。


 さらりとまっすぐに伸びたセミロングの黒髪に、すらりと伸びた長い手足。白い肌に整った顔立ちは沈みゆく太陽に影を落とし、見る者を惹きつける上品な美しさを醸し出している。


 卒業生の証である赤い花飾りが、彼女の胸元で風に吹かれて揺れる。

 文芸部のお別れ会も終わり、その片づけもとっくに終わった頃だろう。


 彼はもう帰ってしまったのだろうか。こうしてしばらく校庭を眺め続けているが、彼の姿はなかったはずだ。もしや、私が気づいていないだけで、彼はもうすでに帰路に着いてしまっていたのだろうか。


 暇つぶしにと持ち込んだ本は、結局ほとんど手をつけられないまま膝の上に置かれていた。

 帰ってしまったのならば仕方ない。そもそも、誘いもしていないくせに、都合よく私のいる屋上にやってきてくれると思う方がおかしいのだ。


 あと十分したら、おとなしくここを立ち去ろう。

 彼女がスマホの時計を確認した、ちょうどその時、屋上に繋がる唯一の扉が、キイと小さく音を立てて開いた。


 見回りの教師がやってきたのかと一瞬身構える彼女だったが、扉の陰から姿を現した人物を見て、ほっと胸を撫で下ろす。


「驚かせないでくれよ。見回りにきた先生方に見つかったと思ったじゃないか」

「だったら、見つかっても問題ないような場所にいてくださいよ」


 彼女にため息交じりに話す男子生徒、文芸部の一つ下の後輩は、屋上の縁に座る彼女の正面に立った。

 短く切り揃えた髪に、やや華奢な体つき。まだあどけなさの残る可愛らしい顔は、彼の中ではコンプレックスとなっているらしい。


「それで、先輩はどうしてこんなところで座り込んでるんですか?」

「それは前にも言っただろう? 私はここから見える夕暮れ時の景色が好きなんだよ」


 転落防止用のフェンスの向こうに顔を向けて、彼女は続ける。


「明日からは私も部外者だ。この景色も見ることができなくなるのだから、最後に見納めにと思ってね」

「……嘘ですよね、それ」


 彼女の言葉を、彼はきっぱりと否定した。


「……どうしてそう思ったんだい?」


 振り返った彼女は、ニヤニヤと嬉しそうに顔を綻ばせている。

 ああ、いつもの先輩に戻った。彼はそう思った。

 いつも人をからかって、そのたびさも楽しそうに笑う、いつもの先輩が戻ってきた。


「先輩には長いことお世話になりましたからね。先輩の考えていることも少しは分かるようにはなりましたよ」

「それは嬉しいことを言ってくれるね。私と君は以心伝心か、なるほどなるほど」

「いや、先輩と以心伝心とか嫌なんですけど」

「つれないなあ。そんなに私のことが嫌いかい?」

「まあ、どちらかといえば嫌いですね」


「今日でお別れになる先輩に対して、あんまりにも酷い言い草だなあ。私が一体何をしたというんだい」

「何をしたって、俺が文芸部に入ってからの二年間、先輩が何をしてきたか、忘れたとは言わせませんよ? 一昨年の夏休み前とか、ほんと目と耳を疑いましたからね?」


「ああ、あの合宿と称したキャンプのことか?」

「キャンプの計画だとか何とか言って、教室内でマイクロビキニ取り出すとは思いませんでしたよ」

「せっかく君のために準備したのに」

「もっと準備すべきことが他にあったでしょ」

「しかも、結局君は着てくれなかったし」

「着るわけないでしょうが」


 ぴしゃりと言い放った彼の言葉がツボに入ったのか、彼女は腹を抱えて大笑いした。


「いやあ、あれは会心の出来だった。あの時の君の慌てふためく顔といえば、ねえ? あれほど楽しかったのはそうなかったよ」


 目尻を拭う彼女を見て、彼はため息を吐く。


「他にも花見の時とか、俺が炭酸苦手なの知ってて、コップの中身をサイダーにすり替えたり」

「君の悲鳴は今でも覚えているぞ?」

「ブックカバーで偽装してまで、俺に官能小説薦めてきたこともありましたし」

「それなら、ここにあるぞ?」


 彼女は膝の上に置いていた読みかけの本を手に取り、かけてあるブックカバーの表紙を見せてきた。


「ちょっと、何でそんなの持ってるんですか」

「いやなに、ただの冗談さ。同じなのはブックカバーだけで、中身は全く別の本だよ」


 流れるようにからかってくる先輩は、やはりいつも通り楽しそうだ。


「それでも、最後まで読み切ったうえで感想まで言ってきたじゃないか。本当は好きだったんだろう?」

「あれは感想じゃなく文句です」

「顔が赤くなっているぞ? 君も素直じゃないなあ」

「ば、馬鹿言わないでください」


 彼は慌てて顔を隠してそっぽを向いた。

 顔が赤くなっているのは恥ずかしいからだ。もしくは夕日のせいだ。

 断じて件の官能小説がよかったからではない。断じて。


 彼が照れ隠しに無言になっているうちに、彼女はそれまでの思い出を懐かしむように呟いた。


「こうして振り返ってみれば、私の高校生活もずいぶん充実したものだったなあ」


 それに続くように、彼もぼそりと呟いた。


「……そうですね。先輩に振り回されていたおかげで、退屈とは無縁の日々でした」

「お互いそう思っていたのなら、これはもはや相思相愛だな」

「相思相愛、ですか」


 彼女の言葉に、彼はついに顔を正面に向けられなくなった。今の表情を先輩に見られたら、今度は何を言われたか分かったものではない。


 これはきっと夕日のせいだ。


 そうだ、そうに違いない。


「それで、だ。君はここに何をしに来たんだい?」

「……先輩を探しに、ですよ。部のお別れ会が終わってから、先輩しれっといなくなったじゃないですか。絶対何かしてくると身構えていたから、これはおかしいと思いまして」


「おや、それは申し訳ないことをしたかな? 私を探すのにも苦労したろうに」

「いえ、そうでもなかったですね。ここ以外で、先輩の行きそうな場所に心当たりがほとんどありませんでしたから」

「ほう、そんなに私のことを知ってくれていたなんて。これは本当に相思相愛なのかもしれないな」


 先輩はふふっと笑う。

 彼はその笑みに、いつものいたずら好きの先輩とは違う側面を見たような気がした。

 だが、それは一瞬の出来事で、気づけばまたもとの先輩に戻っていた。


「こういう時、卒業生は在校生に第二ボタンを渡すものだったな」

「男女逆ですけどね」

「そう、だから生憎私は第二ボタンを持ち合わせていなくてね。代わりといってはなんだが、君にはこれを渡そうじゃないか」


 彼女は、先ほど見せたブックカバーを本から取り外し、彼の目の前でひらひらと軽く揺らす。


「これって、あの官能小説のブックカバーじゃないですか」

「実はお気に入りだったんだよ」

「そうだったんですか」

「そうだったのさ。まあ、可愛い後輩へのプレゼントだよ」

「……では、遠慮なく」

「そんなに警戒しなくてもいいだろうに。さて、そろそろ帰ろうか」


 誰にも見つからないよう屋上を抜け出した二人は、そのまま何も言わずに学校を後にした。

 高校に一番近いバス停まで隣り合って歩き、先輩が乗る予定のバスを二人で待つ。


 いつもは騒々しいほどに話しかけてくる先輩が、今はいつになく静かだった。ちらと彼女の横顔を覗き見るが、時間の確認に気を取られているのか、気づかれる気配もない。


 長い睫毛に、吸い込まれるような黒の瞳。スマホの光に照らされた白い肌が、夕闇とのコントラストをより一層協調されている。


 ふと先輩が顔を上げ、慌てて彼も目線を逸らす。

 いつの間にか到着していたバスが、音を立てて扉を開く。


 バスに乗るのは先輩だけ。

 これが最後の別れになる、かもしれない。

 先輩がバスのステップに片足を乗せた。

 その背中に、何か言わずにはいられなかった。


「……先輩、確か先輩が受かったのって、○○大でしたよね?」

「そうだが、それがどうかしたのかい」

「いえ、何でもないです」


 突然話しかけたと思えば、急にしぼんでいく彼を不思議に思う彼女だったが、すぐにその言葉の意味を察して、上機嫌で振り返った。


「なんだいなんだい。もしかして、私の後を追いかけたくなったかい?」

「……そんなところですね」


 彼の言葉に、彼女はにわかに表情を綻ばせ、向かいに立つ後輩の額を指でつつき始める。


「そうかそうか、このいじらしい後輩め」

「ちょっと先輩、痛――くはないですけど鬱陶しいです」


 嫌がる彼と、面白がる彼女。

 いつもの二人が、そこにいた。

 早くバスに乗れといわんばかりに運転手から睨みつけられて、彼女は指を離した。


「さて、それではさよならの時間だ」

「さようなら、先輩」

「来年の春を、楽しみに待っているよ」

「ええ、楽しみにを待っていてください」


 バスの扉が閉まり、お互いの声も遮断されてしまう。


「「――」」


 だが、仮にも二年間、同じ部に所属した先輩と後輩だ。

 お互い口の動きだけで、相手の言いたいことはなんとなく分かってしまった。


 別れを惜しむ言葉と、


 再会を約束し合う言葉と、


 それから、――。

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