第31話 春帰:巡る、巡る、陽は巡る
祖父が旅立ったのは、例年より早く桜が綻び始めたというニュースがテレビ画面を賑わせた日のことである。
朝、起こしに施設の職員が声を掛けに言ったところ、眠るようにして息を引き取っていたとのことであった。年齢的に身体のあちこちが錆びついていたのは聞いていたので、いつかはこういう日がくることはどこかで覚悟はしていたし、だから引きずるほどのショックは受けずに済んでいる。
それでも、葬式から何からと慌ただしかったのは事実であるし、だから忘れていたわけではなかったけれども、何処かで目を逸らしたかったのはあったかもしれない。
四月も目前、穏やかな晴天の日であった。
「だーから! 気にしないでいいって言ったでしょー!? 別に一人暮らしだって構いやしないって!」
電話口で花は子どもを叱りつけるような口調で繰り返す。相手は何と母親なのだから立場が逆なのでは? と問いたいところであるが、それは今は置いておくことにする。それより優先しなければならないのは、母親の人生だ。
「離婚届も出して! 漸く自由になったんでしょうが! 別にそこで誰かに支えてもらうのが悪いとか、誰が決めたんですかー!?」
『だ、だだだだって花と暮らす約束だってしてたしそのあのまだ早』
「私を言い訳にするんじゃありません! 早いも何もないです!」
きゃんっ、という悲鳴が聞こえてきた。
葬式が終わった後、母を迎えに来たのは、昔馴染みの男友達であった。随分と相談にも乗ってもらっていたらしいし、父親とのことで疲れ果てた母の様子もよく見てくれていたのは知っていた。まあ、話を聞いていて花とて彼が母に片思いしているのはピンときてしまうもので、落ち着いた辺りで話を切り出されるんじゃないかとは思っていたのだ。まあこの様子だと、母親が先に勘づいてしまったようだが。
だから、母親がどうしよう、とおろおろしながら電話を寄越してくるのも予想済みではあったし、まあ状況が状況だから恐らく母は例え現時点で告白されていたとしても断るだろうというのも想像できた。まだ告白らしい告白もなく、先走った返事をしていないというだけ、マシと言えばマシである。
「お母さんが、いいと思ったらいいんだよ? 私も成人してるんだし、向こうが子持ちを気にしないなら別に私は構わないよ。大体お父さんに義理立てする必要なんて欠片もなくない? 感謝はまあ感謝でするにしても、だからといってお母さんを体の良い家政婦ポジションに置くのは別問題でしょうが」
落ち着いてから、という気持ちはわかるが、支えが欲しいのは間違いなく今だ。母とて一人の人間なのだ。弱ってる時に今は駄目だとか言っている場合ではない。
「とーにかく! 私のことは置いといていいから! 自分の気持ち第一にだよ!」
ピッ、と通話ボタンをタップすればぴろん、と軽やかな音を立てて母の声は途切れた。はー……と溜息を付きながら、花は自室の戸をからり、と開いた。
と。
「花、ちょっと」
「ここ座って貰って、いいかな?」
和座卓の向かいで、二人がきちっと正座をして待っていた。
あ、と思わず声を上げてしまう。自分とて、これから一山越えねばならない。この二人を笑顔で送り出さすという、大仕事をこなさねばならないのだ。お試し転生、というスナック感覚のような軽い言葉で表現されるが、彼等が次に進むための重要なプロセスだ。そこから一歩踏み出す為に、まずは自分が背中を押さねばならない。
「あ、あの」
腹を括って、そう顔を上げると予想外の光景が目の前にあった。
土下座、である。
「え? あれ? ど、どうしたん、です?」
困惑しかない。こんな顔の整った成人男性二人に土下座されるなど、人生ついぞ経験はない。いや当たり前といえば当たり前ではあるが。
「ちょちょちょ顔上げて下さいよ! 何で二人して土下座してるんです!?」
「や、ちょっとそのあの」
「予定が少々狂ってもうたからその」
二人の言葉に、うん? と首を傾げる。予定が、狂った、と?
そこで、漸く顔を揃って上げると、二人で顔を見合わせてから、まず口を開いたのは宗一の方であった。
「俺達の滞在期間が、延長やって報せが来たんや」
***
事の始まりは、まだ祖父の報せが入る前のことになる。斎藤茂吉が花の不在時に訪ねてきた、とのことだった。
「斎藤と、今後のことを話し合ったんやけどな。まあ、上の許可が下りんかった、と」
「許可?」
「まあ、僕達が命日、まあ死の概念にかなり引き摺られてしまうということが懸念材料になる、んだそうだよ。生きるに当たって、幾ら仮初の生だとしても、そこに揺らぐようでは次に転生してもたかだか知れているって、ね」
確かに、龍一も宗一も命日の辺りは大変な思いをしていたのは事実だ。自分達の死の影響をまともに食らってしまっていた、といってもいい。
「ちゅうわけで、やな。まあもう少し頑張って下さいね、って斎藤のアホンダラに軽やかに言われてもうてな」
「……で、そのですね、花ちゃん。僕ら、こうなると思ってなかったんで、不動産とか全然回って無くて、ですね」
「まだちょっとここを引き払うに少ぉし時間が要るんや……だから」
うん? つまり。つまり、つまり、これは。
「おふたりとも、お試し続行ということで間違いない、です?」
少しの沈黙の後、ふたりとも同じタイミングで、こくり、と頷かれる。
瞬間、和座卓をばあん! と思い切り叩いてしまった。
何だそれ。いや、別に怒っているわけじゃない。ああでも怒っているのだろうか、自分でもわからないが、今言いたいことをまず言ってしまっていいだろうか。
「引き払うってなんですか! 大家の意見も聞かずにしゃあしゃあと言いやがりますね!」
ひゃ、という龍一の悲鳴が聞こえたが、構わずに言葉を続ける。
「居るんなら、ここでいいじゃないですか! 私が一年だけで放り出すような人でなしに見えるんですかー!?」
「いやいやそうやないけど!」
こんな慌てた宗一の声は滅多に聞けるものではない。まあ、慌ててもらわないと困る。というか、そんな勝手に引き上げられても困るのだ。旅立ちというなら背中を押すが、まだ旅立つのでないというなら話は変わる。
絶対に、嫌なのだ。
「私が居て欲しいのに、何で勝手に出ていくって話してんですか! 馬鹿ーッッッ‼」
しん、と静まり返った室内、外でちゅん、と雀が愛らしく、鳴いたのがやけに響いた。
ぶわっと目から雫がぼったぼた落ち始めたのに、ハンカチが見当たらない。ポケットに手を突っ込もうとしたら、頬にタオルが当てられた。
「花ちゃんごめんね」
困ったような微笑で、龍一が柔く涙を拭いてくれる。その後ろで台所から宗一がぱたぱたと戻ってくるのが見えた。
「ほれ花。温かい濡れタオルで顔拭きぃ。そんな泣くなや」
「うう、だってだってだってええええええええ」
「ごめんって! ほら約束と違っちゃったからさあ!」
駄々っ子のようだな、と我ながら呆れてしまう。タオルを顔に押し当てて、ぐしぐしと顔を拭きながら、それでも軽くふたりを睨みながら、花は膨れる。
「ぐす……宗一さん、今晩はハンバーグがいいです」
「お、おお、オムライスもつけるか?」
「づげまずぅぅ」
夕飯は確保出来た。頭を撫でながら、プリンもつけるか? と聞かれたので思い切り頷いておいた。そして、じいっと龍一の方を見るとぴゃっ、と小さな悲鳴が又上がる。
「……花ちゃん、後でパンケーキ食べに行こうか……?」
「いぎまずぅぅ、季節限定苺クリーム乗せのがいいでずうううう」
「アッハイ! あっ、アイスも乗せよっか?」
「乗ぜまずぅぅぅ!」
おやつも確保した。うん、それならば。
花は濡れタオルで顔をわっしゃわっしゃと雑に拭く。ああ、うん、そうか。まだ離れなくていいんだ、と理解して。それならば、と顔を上げて、表情を綻ばせる。
「龍一さん、宗一さん」
「うん?」
「おん」
もう少し、彼等が次に歩けるようになるまでは。その背中を見守らせて欲しい。なんて。
それは我儘なのかもしれない。しかし、それは祈りでもある。次に彼等の背中を見て大泣きする時は、ちゃんと手のひらで先へ押し出してやろうと。次に大事にしてくれる、人達のところへと。
だから、それまでは。
「桜が、満開になったらお花見、しましょうね」
それに返されるのは、柔らかな春の陽のような微笑が、ふたつ。
後で可乃子さんに説明しよな、という宗一の言葉にこくり、と大きく頷いた。
***
話は、数週間前に遡る。
正直、まずいことになったなと思ったのは確かであった。
まず何故今老人ホームに居る筈の人物がここにいるのかというのを、問いたいのは山々だが、どう冷静に考えたところで、自分達がこの家に上がり込んでいるという事実には変わりがない。
「ええと、八月の時点でこの御方、既にお二方のことご存知だったそうで」
斎藤が気まずそうにそう切り出したのに、ぴえ、と思わず声を上げてしまった。横で宗一が眉間を指で押さえて何とも言えない顔をしている。まあ、それはそうだろう。自分も泣きたい。
「もう先も長くない。まあだからこそこうやって抜け出せるようになったんですが」
「幽体離脱ってやつです?」
「それ、あかんやつなのでは?」
思わず突っ込んでしまったが、まあつまりはそういうことである。定められた寿命のゴールが間近、ということだ。ここの本来の家主――佐藤花の祖父は、こほん、と咳払いをしてからきちっと正座をしている二人の顔をそれぞれ見てから口を開いた。
「……最初はしょっぴいてやろうとは思ったんですよ。うちの可愛い孫娘をたぶらかしおって、と」
うわあ、そんな。いや気持ちはわかるけども。
真顔になった龍一に気付いたのか、にこりと微笑を向けられた。
「いや、でもお二方が花を大事にしてくれておるのは伝わりました。そこは感謝致しますよ」
ほ、と安堵の息を吐く。が、しかし。
「ただ、不法侵入は不法侵入、と申し上げますか、本来は私を騙して暮らす予定だったという話ですし、結果として花も途中までは騙していたわけで、まあ流石にただで許すわけにはいかぬな、と」
室内温度が冬になっている。孫娘溺愛というのは理解出来たし、確かに不法侵入というか騙そうとしていたのも事実であって、そこは弁解の余地もない。
「そこで、私も提案をしようと思いましての」
「提案、て……?」
宗一が首を傾げるところへ、その答えが返される。
「貴方がたに、暫し花を見守って頂きたい。出来れば任せられる男が現れるまで」
……はい?
なんか今すごく、重要任務を任された気が、する。
「何処の骨のものともわからん輩に摘まれるのは、私とて業腹ですしのう」
「つまりは、俺らは虫払い、と」
「丁度いいでしょう。これで私の件に関しては水に流せるのであれば」
ねえ、と傍らに座る斎藤に笑みを向けると、眉をぎゅうと寄せたままこくり、と頷いたのが分かった。
「まあ、私達の不手際もありますし、上には許可を頂きました。めちゃくちゃ胃がこう、捩れましたけどまあ何とか」
「そういうことですので、ひとつよろしくお願いしますよ」
笑って、孫娘を溺愛する爺様は、すう、とその場から姿を消したのだった。
残されたのは、男三人、である。
確かに、命日で魂があそこまで引き摺られてしまうのは、正式に転生してから支障があるだろう。だから、斎藤もそして上も結局はその要求を呑んだ、ということらしい。
「まあ、家に関しては花さんに交渉して下さいね」
契約は一年、って言ってしまってますから。斎藤はぐったりとした表情で、和座卓に突っ伏している。まあその心境はわからないでもないでもなかった。八月末から詰められ続けていたのだから、大変だったのは想像に難くない。
「ちと、また世話掛けてまうなあ……」
横で宗一が天井を見上げながらそう呟いた。その横でぽよん、と何かが跳ねる。
「何だい、足止めかい。仕方がないなあ、お役目任命なら果たさないとね!」
うるさい菊池、と、ばちん、と宗一の手に挟まれ、痛い! ひどいよ! という悲鳴が室内に響いた。
色々と考えなければならないことだらけで、正直何から手を付けていいかなんて、まだ正解など見えやしないけれども。それでも、まだ。
まあ、まだ。ひとりにならなくていいし、ひとりにしてしまわずに済む。
そして、あの子もまだ、泣かせないで済む。
思うよりそれは龍一の心を軽くさせた。
「龍、何か嬉しそうやな」
「うん、まあね」
素直に答えれば、宗一は一瞬言葉に詰まってから、小さく唸る。
「……まあ、せやな」
それだけ言うとすっくと立ち上がって、台所へと向かっていく。恐らく茶でも入れてくるのだろう。日常が、帰ってくる。今はそれでいい。それが、いいのだ。
龍一は、応接間の書斎机の引き出しに入っている、あのメモ帳を頭に思い描いた。多分、宗一はまだ開いていないだろう。態度に変化が見えないからだ。
――あれに、僕が続きを書いているって知ったら、どんな顔、するかなあ。
これから先が続くのなら。その時を拝めるだろうと思うと、当座それを楽しみに生きることにしようと、決めた。
小さな楽しみと幸せを積み重ねて、それを前に進む飛び石として、渡っていけばいい。
勿論、それはひとりではないのは、言うまでもない。
違う色のインクは、日々を描く。彼と、彼女の為に描く。
幸せで、楽しくあれ、と。
そして、もう寂しがらなくていい、と伝える為に。
ショーメシ~さみしがりのふくろう編 来福ふくら @hukura35
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