第5話 起床


05

 翌朝。

 もともと朝は苦手だけれど、朝は早く起きることにしている。朝ごはんは僕の仕事だからだ。

 とはいえ、また三峯燐がらみでいろいろ言われるんだろうなぁ、学校に行きたくないなぁ、なんて思うと、朝起きるのがいつも以上につらい。

 昨日、家に帰ってからも心休まるときなんてなかったのだ。

 なにを考えたのかは知らないが「二人にさせておくのは心配だから」と言って、母さんが帰ってくるまでつかさが家にいたし、母さんが帰ってきてからもドタバタしかしなかった。

 葉巻家は母子家庭だ。

 両親は、僕が小学校二年の秋、父さんの浮気が原因で離婚した。

 母さんは基本的に温厚なものの、一度スイッチが入ってしまうと手がつけられなくなるほどの恐ろしさを発揮する。

 母さんに直接は聞けず、中学になってつかさの両親から聞いた話だが、なんでも一分の隙もない理論武装で糾弾したせいで、父さんは最後の方は泣き出していたそうだ。

 母さんは当時、一応働いていたもののほとんど専業主婦に近い状態だったが、父さんからの養育費を突っぱねたこともあり、それからは残業もいとわず遅くまで働くようになった。

 当時、僕は理由がわかっていないまま父さんがいなくなり、仕事で夜遅くまで働く母さんとも顔を会わせることが減った。

 隣の天原家によく行くようになったのは、この頃からだ。

 平日は天原家で晩ごはんを食べ、休日は……母さんが休みなら、母さんが費用持ちで天原家の皆と旅行に行ったり外食に行ったりするっていう日々だった。

 自分で料理ができるようになって回数は減ったが、今でも天原家で晩ごはんを食べることがある。

 朝ごはんが僕の仕事になったのも、それからだ。忙しい母さんの手伝いをしなければ、と思い、つかさの母親に教えてもらって朝食だけでも作るようになったのだ。

 最近じゃ、なぜかつかさがこっちに朝ごはんを食べに来ることもあるくらいだ。

 そのせいというかなんというか、おかげで“葉巻家の味”は基本的に“天原家の味”そのものだ。

 ベッドに横になったまま、身をよじる。

 ……さすがにそろそろ起きないと。

 いやでも、たぶんまだ六時前。朝ごはんの準備を考えても、あと少しくらいなら平気――。

 むにゅ。

 ――ん?

 なんだ?

 身をよじったら、腕になにかが当たった。

 ……なんか暖かくて、柔らかい。

 手を伸ばして、触ってみる。

 ずっと触っていたくなるようなほどよい弾力性に、体温に近い適度なぬくもり。

「あっ、んっ……」

 やけに近くから、押し殺したような声が聞こえた。

「……?」

 目を開ける。

 目が点になる。

 思考が止まる。

 身体が硬直する。

 呼吸ができない。

 ……。

 ……は?

 ……え?

 思考再開まで、きっかり十秒は要した。

 目の前には、美少女のあどけない寝顔。

 自分の手は、彼女の胸元の膨らみをしっかりと触っている。

「ほああああぁぁぁっ!」

 自分でもよくわからない奇妙な叫び声をあげながら、ベッドカバーを跳ね上げて彼女から距離を取ろうとして身をよじり――ベッドから転げ落ちた。

 どたんがたん、と音を立てながら床に転がる。

「ん、んん……」

 僕がしてしまったことのせいか、それとも騒がしい音を立てたからなのか、その、なんで僕のベッドで寝ているのかわからない美少女――三峯燐が、ぼんやりとまぶたを開ける。

「あー……ふぁ」

 あくびをする彼女の焦点が合う。彼女の視線は、床で呆然とする僕の視線と重なった。身体を起こすもののなにがどうなっているのかまったく理解できない。

「……ふふ。和彦さん、おはようございます」

「お、おは……よう?」

 そうじゃない。

 いやそうだけどそうじゃない。

 三峯さんは昨日、当然ながら僕とは別々に寝たはずだ。なんだって僕が寝ているベッドにわざわざ潜り込んで寝ているのか。

 三峯さんはそんな僕の疑問には一切気づいてない様子で、上体を起こして伸びをし、枕元の目覚まし時計を見る。

 白いフリース地のモコモコした寝間着が、やけに似合っていた。

「まだ六時前。和彦さんは早起きなんですね」

「……朝ごはんは、僕の担当だから」

「そうなんですか! 料理もできるなんてすごいです」

「いや、ご飯は昨日タイマーセットしただけだし、作るって言っても味噌汁と玉子焼きくらいだから、別にそんな大したもの作るんじゃないけど」

「そんなことないですよー」

「ていうか、そうじゃなくて――」

 ――そもそもなんで僕のベッドに寝てるんだ?

 そう聞こうと思ったんだけど、続けられなかった。

「カズ!」

 背後の扉が勢いよく開いて、床に座り込んでいた僕の後頭部を直撃したからだ。

「ぐあっ」

「和彦さん!」

「え、カズ?」

 頭を押さえてその場にうずくまる。

 扉を開けたその声も、聞きなれている。つかさだ。

「お、前な……」

 涙目で見上げると、まだ部屋着のままのつかさが立っていた。

 その目は少し泳いでいる。扉が僕に直撃するとは思っていなかったんだろう。

「えっと、あの、カズの叫び声が聞こえたから思わず……大丈夫?」

「……」

 声にならない僕を見かねて、つかさも床に座って顔をのぞき込んでくる。

 でも、つかさのせいだけどな。

「で――ええと、三峯さん?」

「はい、なんでしょう?」

「なんでさっそく、カズと一緒のベッドで寝てるのかしら」

「あら、いけませんか?」

「そりゃあ、こんな、ふ、ふ、不純異性交遊でしょ! そんなの認めないから」

「では、不純でなければいいんですか?」

「……え?」

「不純でなければ、和彦さんとのスキンシップに、天原さんは異議を唱えないということですね?」

「あ、う、それ、は……でも、あたしは、カズのお姉さんみたいなもんだから……」

「私では、相応しくないのでしょうか」

「ぐぐぐ」

 顔を赤くしながら声を荒らげるつかさは、そこまで言われて二の句が続けられなくなってしまう。

 なんだかよくわからないけれど、朝っぱらから僕を挟んで口論しないでほしい。死ぬほど頭が痛い上に、死ぬほどギスギスした雰囲気だなんて地獄だ。

「……ちょっと和彦。あんた朝からうるさ――」

 つかさの背後に、母さん――葉巻鈴子が現れる。

 まあ、こんだけ騒いでたら目も覚めるよな。

 文句たらたらで僕の部屋をのぞき込み、僕を挟んで三峯さんとつかさがなんでかにらみあっている光景に、さすがの母さんも口をつぐむ。

 ……だが、目が笑っていた。

「あ、スズママ」

「お母様、おはようございます」

「あー、うん。二人ともおはよう。あ、和彦もね」

 三峯さんが僕のベッドにいることも、つかさが早朝からうちにやって来ていることも、母さんは問題にしなかった。

 母さんはなぜかうなずくと、僕を見てにやりと笑う。

「和彦」

「な……なに」

「今日、朝ごはんなくてもいいから」

 そーじゃない。

 気を遣うところが違うだろ。

 そーゆー余計なことはしなくていい。むしろ、朝ごはんを理由にしてこの場から立ち去りたい。

「そんな顔しなさんな。まったく、息子がこんなにモテてお母さんは嬉しいよ」

 僕の表情にからからと笑い、母さんはまた寝室へと向かう。二度寝するつもりだ。

「ちょっ……スズママ!」

「ふああ……。なあにーつーちゃん」

 引き留めてくるつかさにも、母さんは動じない。

「スズママも……三峯さんになにか言ってよ!」

「んー……」

 母さんが浮かべたのは、完全に意地の悪い笑みだった。

「若いっていいわね」

 そう言って、今度こそこの場を離れて去っていってしまう。

 泡を食ったつかさが、そのあとを追う。

「そうじゃなくて! ちょっとスズママ!」

「なあによ。もうちょっと寝かせてってば」

「カズと三峯さんが一緒に寝てるのはいいの?」

「つーちゃんだって和彦と一緒に寝てたりしてたでしょ。それとおんなじだって」

「それは小学二年の頃でしょ。今は高一なの! それにあたしは……」

「つーちゃん」

「……う」

「その続きを本人にちゃんと言えるなら、あたしはつーちゃんの味方をしてあげるけど」

「ううう。スズママのイジワル」

「そりゃー何年も進展しない様を見せられたらね、イジワルにもなるってもんさ」

「……カズにはそーゆーことしないクセに」

「いろいろ言ってんだけど、和彦は未だに自覚ないからねぇ。そりゃ自覚してる方に言うでしょ」

「うぐぐ」

 なんか視界の外から二人のやり取りが聞こえてくるが、なんの話をしてるのかさっぱりだ。

 僕は後頭部をさすり、ため息をつき――改めて顔をあげると、三峯さんと視線が合う。

「大丈夫ですか?」

「うん。まぁ……なんとか」

 うまく言えないが、なんて言うか……三峯さんは、どこか申し訳なさそうな顔をしている。たぶん、僕の後頭部の痛みとは違うなにかに対して。

 ちらちらと母さんとつかさがいるはずの方向を見ていることからすると……つかさに対してだ。でも、なんで?

 わからないけれど、とりあえず……朝ごはん作るか。

 心労のせいかやけにお腹すいてきたし、とりあえずこの気まずさからは逃げられる。

 ……どうせつかさも食べていくんだろうから、三人分。

 気遣いという名の嫌がらせをした母さんの分はなしだ。いらないって自分で言ってたし。


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