フェルミオンの天蓋 Ⅱ〈Fallen Angel〉

周雷文吾

第0話 プロローグ


0

 少年は走る。

 その右手に、同じ年頃の幼い少女の左手を握って。

 二人は、ととと、と通路を駆け抜けていく。が、少年の速度に少女がついていけず、足がもつれて転びそうになっていた。

 白い壁にリノリウムのグレーの床。およそ装飾と呼べるものが一切ない、無機質な通路だった。

 家や保育園内のそれと言うよりは、研究施設内にあるような、あたたかみなど感じられない利便性重視のそれ。

 幼い二人がそこにいるだけで違和感を覚えるような、そんな通路。

「もう、む……り、だよ」

「りん!」

 半べそをかきながら、息も切れ切れに泣き言を漏らす少女に、少年は少女の名を呼んで繋いだ手をひっぱる。

「もうちょっとだから!」

 二人はなんとか通路の一番奥の扉にたどり着く。

 少年はすぐにドアノブに取り付いて、なにも記載のない金属製の重い扉を開いた。

「わっ!」

「うわぁっ!」

 まぶしい陽光に――文字通り初めて見る、そのまばゆいほどの明るさに――思わず繋いだ手を離し、日光に手をかざして二人は感嘆の声をあげる。

 扉の外は、ごく平凡な光景だった。

 灼けたアスファルトに、一応は置いておきましたという程度の、手入れもされないままのささやかな植栽。その向こうにはコンクリートの塀があって、彼らの背丈では遠くまでは見渡せない。本当に、なんの変哲もない光景。

 けれどそれでも、幼い二人にとっては見たことのない、想像だにしなかった光景だった。

「いこう」

「……」

 少年の言葉に、少女は黙ったまま一歩下がる。

「ほら――」

「――やめようよ」

 また手をつかんでこようとする少年を遮り、少女がつぶやく。その顔は青白かった。見慣れない外の光景に怖じ気づいたのた。

「あとちょっとででられるんだよ」

 少女の言葉が信じられないといった様子で、少年は訴える。

 だが、通路の奥からは足音が響いてきていた。それから「どこに行った」「早く見つけろ」といった大人たちの声も。

 今から逃げても、もう間に合わないかもしれない。

 そう思ったのだろう。少年はあわてて少女の手をとり、無理矢理にでも外へ連れていこうとする。

 ――が、やはり遅かった。

「こんなところまで逃げていたのか」

「……やはりセキュリティの強化が必要だな」

「無駄口はいい。早く確保を」

 駆けつけてきた大人たち――その出で立ちは保母や保父のようなエプロン姿ではなく、誰もが白衣をまとった研究員然とした姿だった――は、二人を押さえつけて有無を言わさず抱えあげると、通路の奥へと引き返そうとする。

 少女が泣き声をあげる。

 少年が悲鳴をあげる。

 しかし、そんな様子など少しも気を払わず、大人たちはまるで物でも扱っているかのように二人を運ぶ。

「やめろ、やめろっ!」

 少年がそう叫んだ瞬間だった。

 少年の瞳から蒼い光が溢れ、無機質な通路を照らす。

「――なんだ?」

「発現した! 何十人も世話して、これでやっと二例目か……」

「早く眠らせろ。俺たちが殺される前にな」

 大人たちが口々に言い合うが、少年の耳に入るわけもない。

「あああああっ!」

 目の前が――少年の視界が真っ青に染まっていく。

 そこら中に蒼い光が満ち溢れ、そのせいか目に映る光景もそれまでとは違っているように見える。

 無機質な通路が、少年を抱えあげる白衣の大人が、別の大人に抱えられた少女が、それまで見えていた光景が――やけに薄っぺらなものに見えてくる。

 そして、そうなったことで……今まで見えていなかった、世界のもう一つの側面が少年の視界に映っていた。

 少年には理解の及ばない光景。

 しかし、それについてなにか考える前に少年は気を失ってしまう。

 ――おとなたちのせいだ。

 ――ぜったいに、にげてやる。

 ――りんといっしょに。

 気を失う直前、ぼんやりとした意識の片隅で少年はそう決意した。


 それから数年後、少年はこの施設から脱走を果たした。


 それはほとんど衝動的で、突発的で、偶発的で。……お世辞にも、計画的とは言いがたいものではあった。

 けれどそれでも、少年は求めていた自由を手に入れた。

 しかし、叶わなかったこともある。

 “りんといっしょに”という願い。

 それでも、あの施設は再建できないほどに破壊した。彼女も自由を手に入れることができた、今はそれだけで満足するんだ、とも“せんせい”に告げられた。それで満足しておくべきなんだろう。けれど、けれど……。

 あれから何年もたった今でも、少年は“りん”のことを忘れられずにいる。

 彼女の行方を、少年は知らない。知る手段を持たない。

 だが、あきらめられなかった。

 彼女を、“りん”を――燐を、あきらめない。

 あの時、“先生”も彼女と自分の道が重なると約束してくれたのだ。

 だから今でも、少年は燐との再会を強く望み続けている。


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