生命観

東 哲信

観念の重要性について


 我々は生命というものを表象(イメージ)することが出来ます。では、生命が無いという状態を表象してみてください。例えば、宇宙空間だとか草木が全くないハゲ山であるとか、ほとんどの方が表象できると思われます。では突然ですが、時間や空間が無いという状態を表象できる方はおりますでしょうか。ほとんどの方がこちらについてはできないのではないかと思います。つまりは時間や空間というものは、我々が物事を表象するうえで欠かせない舞台であるということです。すなわち、これが失われた世界には表象を築くための舞台が無いため、我々は時間や空間が無いという状態を想像できず、したがってこれらについての表象を心の内に呼び起こすことはできないという次第であります。

 そうして、このことからもわかるように生命という表象もまたその舞台の上になりたっているからこそイメージできるのです。また、舞台上の役者が相互に関わり合って一つの作品ができるように、我々が持つ表象もこれまでの経験や、それに伴う表象が干渉し合うことにより新たな表象を創造しております。つまり、あなたが心に浮かべた生命というものに対する表象は、生命というものについての純粋に忠実な表象であるとは限らないのです。

 さて、この忠実ではない表象、いうなれば抽象性の高い表象に対してある一定の厳格な規定を与えてくれるものが概念であると言えるのではないでしょうか。概念とは科学的(客観的)事実に基づいた理屈やイメージのことで、例えば水の入った鍋を火にかけると沸騰するという因果関係も概念ですし、もっと言えば目の前に海があったとして、海があるということは客観的にも明らかなことでありますから、海もまた観測者がある場合において概念と言えるでしょう。とかく、このように概念とは客観的に明らかな事実に基づいているために、我々の表象についてある種の規定を与えることが出来るのです。

 しかしながら、表象は必ずしも概念に事足りているものではありません。先ほども申し上げた通り、概念とは客観的にみて明らかな事実に基づくイメージや理屈のことであって、例えば我々が概念に対して抱く感情については客観的事実でもなんでもなく単なる主観に過ぎません。こういったものを観念と言い、客観的に忠実な表象(すなわち概念)が我々の心の中に浮かべられないのもこのせいだと言えます。つまり、一般的な表象は概念に事足りるものではなく、必ず観念を付きまとうものなのです。例えば真上に投げられている物体があったとして、皆様はその物体が受ける力をどのように表象するでしょうか。手から離れて真上に向かっているのですから、空中でも上向きの力が働いているように表象するかもしれません。しかしながら、実は物体には下向きの力しか働いておりません。これは皆様が持つ観念によって忠実な表象(概念)が得られない一例と言えるでしょう。あるいは経験の不足により忠実な表象が出来ないとも考えられますが、ソクラテスの助産術にみられるように、すでに知ってはいた(経験していた*1)にも関わらず概念として理解できない例は多くあります。むしろ、そう言った場合だからこそ知ったつもりになろうとする人は観念で表象を埋め合わそうとするのではないでしょうか。いずれにせよ観念と表象は切り離しがたいものです。

 また、忠実な表象を得ようとする営み(科学)に対して観念は邪魔をするものとも言えます。しかしながら、わたしは決して観念を悪者にすべきではないと思うのです。たとえば、民主主義や人間主義などの思想も畢竟は客観的事実ではありませんので観念に含まれます。あるいは文学も芸術も観念をなくしては成り立ちません。写実派が芸術として適格だと思うなら、芸術の世界では良いカメラがあれば事足ります。しかし実際にはそうはいきません。また、写実派が良いとか悪いとかそう思うこともまた、畢竟観念に関わるものであって、観念はその不確定さゆえに文化の多様性を生じさせてきた、思想の革命を起こさせてきたと言えるのではないでしょうか。したがって観念の恩恵は素晴らしいもので、人間が人工知能ではなく、人間そのものとして生きていたいのであれば決して観念を棄却することなどできるはずがないのです。

言うならば「観念は概念を妨げますが、人間らしさを創るのです。」ということです。

 さて、観念の重要さが理解いただけたところで、現在の時代に当てはめてこの重要性を今一度考えてみましょう。

 我々の素晴らしき文明は人工知能というものを手にしました。おそらくそう遠くない未来に人工知能は、必ずと言ってよいほど人間の能力を超えた概念を造ることでしょう。しかし、彼らに決してできないこともあり、それが観念を持つことです。観念を持てないということは忠実な概念を得るために都合が良いように思われますが、主義や思想、価値、これら観念は人間の行動の方向性を決める実相であり、つまりは人工知能は事実としての概念をいくら編み出そうとも、それが使ってよいものか、悪いものか、という判断が決してできぬのです。未来、あるいは現在もうすでに、「概念は人工知能が、実践は人間が」という時代が来る(来ている)かもしれません。そうなったとき我々は自身の持つ観念についてより深く注意して、推敲して人工知能が生み出した概念を捌く必要があります。とくに命の生き死にが関わる現場では必須として検討すべきでしょう。また、そうでなくとも高度化する社会において何か一つ、生命に対して軸となるような思想を有しておくべきです。近年は全くの高度化で、拳銃で人間の頭が吹き飛ぶ瞬間がホラー映画の感覚で自宅で見れる時代です。むろん、そういったものを見ることが怖いもの見たさであれども、良い機会だといえるでしょう。しかし、多くを知っているということと、多くを考えているということは違います。自分が納得できる正論や、死後の世界、生命観について他者から説明されるのを待っていれば、ついにはその答えを知ることもなしに死ぬるでしょう。現在はその傾向が強いように思われます。誰かが言ってくれる、考えてくれるのを待っているのではなく、自分から考えるべきなのです。我々は必ず死にます。こんなこと良く知っていることでありますが、よく考えていることではないように思われます。同じく我々は生きております。しかし、生きているということを考えることはそれほど多くないのではないでしょうか。死と生、総ての人間に普遍的に当てはまるこのテーマについて観念を抱くことは人間にしか出来ぬのです。もっと言えばあなたにとって正しい答えはあなたにしか創れぬのです。

 以上より、今一度生命観(生命についての観念)について考えてみたいと思いませんか?生命とは何で、何故に大切で、何故に死ぬるのか、考えてみたいと思いませんか?

 あくまでも私は自説を述べず、問題提起をするにとどめたいと思いますが、そのようなつまらないものでも読んでいただけるようでしたら二話でお待ちしております。


脚注

1.ソクラテスは魂の想起説として、人間はあらゆるものをすでに知っており、学習はこれらを思い出すだけのことであるとした。

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