球、球、球。
夏野篠虫
数村との出会い
「誰もが納得する完全無欠の球体を描きたい」
後に芸大で唯一の親友になった数村が、まだ桜の蕾が堅く閉じる2年生終わりの春、僕にぽつり言った。
僕がその言葉の意味を真に理解するのはずいぶん後になる。
数村は僕と同じ油絵科に入学した。学内には同期も先輩も個性豊かな変人が多い中、さらに異質を放っていたのが数村だ。どんな日でも全身真っ赤なジャージを着て髪の毛は肩甲骨に達していた。両目を覆う黒髪の隙間から樹海の獣のような眼光が覗いていたので、当然人は近寄らなかった。
僕も当初はそうだったが、2年生の春休みに学科内の飲み会に、いつもはいない数村が珍しく参加して部屋の隅に一人で酒を飲んでいた。近寄りがたさを感じてきていたが同時に彼を気にもなっていた。彼の描く絵を発表会で見たことがあった。黒に紫緑青赤をかき混ぜた銀河のように渦巻く背景の上から鋭い筆致で同心円が何重も描かれていた。それらは大きく画面をはみ出すものから徐々に小さくなって最後は消失点に同化していた。濃密な画面から漂う妖しい雰囲気に僕は惹き付けられた。あの絵を思い出しながら初めて数村に話しかけた。
「あの……君の絵、よかったです」
数村の視線が僕の目を刺した。
「……誰?」
「あ、僕は同じ油絵専攻の――」
「俺はさ」
熱のこもった声で僕の自己紹介を断るように数村はあの言葉を言ったのだった。それを聞いたとき、まるで十数年の片想いを告白された気分だった。僕は数村にとって重大な目標を知ったこの世で二人目の人間になった。どうして僕にそれを伝えたのか、今でもわからない。
僕は次の日から数村と同じアトリエで絵を描き出した。隣の彼は朝来て夜にアトリエ棟が閉まるまで、講義の時間以外は食事もトイレも行かずひたすらキャンバスに向き合った。僕が空き時間に自作を勧めていても、お互いひたすら無言で時間が流れた。その代わりに時折横目に彼を見た。握る細筆を左手のパレットで油絵具に慣らし、粗目の布地に愛する者に触れるように接して色が薄く乗る。繰り返される一つ一つの動作が信念で形作られていた。長髪は束ねることなくだらりと垂れ下がったままで毛先が色づいていた。
でき上がった数村の絵は以前見たものと異なり、正方形の20号キャンバスの中央に一つだけ球形の物体があった。背景は何もない白色、球形は青系のグラデーションを使った陰影で立体的に仕上がっていた。画面の情報量は少ないが、洗練された作品といった印象だ。
「だめだ」
数村はひとしきり絵を眺めて評価を下した。
これでも十分じゃ? と思ったが胸から出さなかった。僕は彼の絵のファンになっていた。せっかく近づいた関係性を台無しにする可能性は排除したかったのだ。
筆を止めたままの僕と数村の間に沈黙が続いた。
動いたのは数村だった。
「まだ足りない。もっと、もっと球体に……」
小声の自省を聞いて、彼の球体への執着をこの時はまだ作品の質に貪欲な姿勢から来るものだと思っていた。僕の中で彼が変わっていった、いや本当の彼に気づいていったのはさらに先のことだ。
数村は油絵で球を描いたが、普段は鉛筆か木炭で描く方が多かった。スケッチブックの全ページを一週間で使い果たす。
円を描いて陰影を付ける、これがアカデミックな球体の立体的な描き方である。僕もそう習ったし他の学生も教授陣も(色々あるけれど)基本はこの描き方だ。
数村もそう描いていたが、ある時から「それじゃあだめだ」と言い出して描き方を変えた。線ではなく面で描く。西洋的古典絵画のような輪郭を用いない描き方ならより自然な形に近づく。数村ほどの腕があればなおさらだ。
しかしそれでも彼は満足しなかった。これじゃだめだ、これじゃあだめだと繰り返しては考える。行者の修行にも似た苦痛を伴う作業に僕には思えた。何も言わない僕に、彼曰く
「俺は平面上に否定しようのない完全な球体を創り出したい。絵画でそれを生み出すために今生きているんだ」
その思考の境地にゾッとした。信じられないことに彼は2次元上に3次元体を作ろうとしていたのだ。絶対に無理だ。物理学がそれを許さない。どうしてありえないことを実現しようとするのか、何がきっかけでここまでの執念が燃えているのか。依然不明なままだった。
数村と同じ空間で過ごすようになり1年が過ぎた。
3年生が終わり4年生になれば、同級生は芸術家として食っていくか就職するかの選択をしていく。入学当時は作家志望だった主席のあの子も“天才”と煽てられたあいつも、志半ばで美術の先生や絵画塾講師の道へ追いやられていった。
横でみんなを見ていた僕も差し迫る未来に少なくない不安を感じていた。この1年、自作制作は調子よく進んだが描けば描くほど自信は失った。垣間見える異常性を恐れて会話こそ少なかったが、僕にとって親友と呼べるほど仲が深くなった数村はシンプルな球体の絵で、現役学生ながら大規模公募展で複数受賞歴をもつ画家となっていた。それを素直に尊敬できる自分と現実を理解したくない己がせめいだ。
「駄目だろっ! こんなんじゃ、全然違う!!」
球が描かれたキャンバスを殴り破いて打ち捨てる、数村は自分にとても厳しかった。球体を描くだけと言いきれない、感情が爆発するものが彼にはあったようだ。
だから当の本人は周囲の評価に納得していなかった。苛立ちを作品にぶつけて毎日何枚も描き続ける数村。その背中を見ながら、彼の絵はとっくに目標を超えていると思っていたため何が不満なのか僕は解らなかった。
しかし、その“何か”を聞けなかった。万が一下らない理由とわかり嫉妬心を大きくしたくなかったのも確かだが、これ以上彼の心中に入ってしまうと僕まで深淵に囚われてしまう気がしたのだ。継ぎ目も欠けもない光無き完璧な球体の内側に。
その年の6月頃から数村はだんだんと大学に来なくなった。
1年以上一緒に絵を描いたアトリエには彼が創り破壊した作品の残骸が灰色に汚れていた。やがて僕もそこから足を遠ざけるようになった。
数村とは連絡も取れなくなって、大学最後の夏休みを迎えた。彼の家は去年に1度だけ行ったことがある。地方から上京して一人暮らしのそこは大学からほど近い苦学生の多い商店街のアパートだった。ワンルームは絵を描くために作られたような、壁はキャンバスが掛けられ、床に置かれた油画用のリンシードやサフラワーオイルや顔料類の臭いが室内に充満していた。
その臭いを思い出しながら、蒸し暑い8月の夜に僕はその部屋を目指していた。
辿り着いたアパートで、廊下の照明は羽虫を集めつつ明滅を反復した。塗装が剥がれて錆びたドアが数村の部屋で、そこに生活感はない。ドア横の小窓も灯りが透かしてなかった。2回、ノックした。反応は無い。腕時計は21時前を指す。以前の彼ならまだ絵を描いている時間帯だ。もう一度ノックをした。
ゴトン。
物の落下音が聞こえた。ノックで反応がないのをもう一回だけ確認して、ドアノブを回した。鍵が開いている。
ドアの蝶番の鳴き声を耳に入れながら中に入った。驚くほど物がない玄関から伸びる短い廊下、奥に部屋が一つある。じっとりした熱気が嗅ぎ慣れた油の臭いと共に流れてきた。
一歩ずつ足元を確かめて歩いた。着いた部屋はキャンバスと絵画道具の墓場と化していた。その中央に一つの絵だけが、イーゼル台に貼り付けられて僕に正面を向けていた。その手前の床に仰向けの数村が寝ていた。
「おい数村……? 寝てるのか?」
指で頬を突いた。痩けた顔にはまだ人肌の柔らかさと温度があった。首筋に手をあてれば、予想に反して数村は脈がなかった。右手には絵筆が、左手の親指はパレットの穴に入ったまま倒れていた。部屋に入る前に聞こえた物音は彼が倒れた音だったのかもしれない。ということは今さっき息を引き取ったのだ。
僕の頭から血が一気に下へ落ちていくのがわかった。人の死はこんなにあっさりしてるのかと思った。けれど悲しみは不思議と湧いてこなかったのを覚えている。
冷静なまま、僕は正面の絵を見た。正方形の20号キャンバスに球体。けれど数村が描き続けたものとは違うものがそこにあった。布地は球体の形に沿って切り取られていた。その効果もあるのか、完成度にこの目を疑った。確実に片側だけの平面体のはずが裏側もある完全な球体にしか見えない。錯覚じゃない、けれどそうとしか見えない。
窓から月光が射し込む。暗闇に浮かぶ一個の球体はまるで宇宙に留まる未知の惑星のようだ。少し手を伸ばせば丸い表面に触れそうな30cm程度の存在は部屋の主の命を糧に誕生した卵に見えた。数村の夢はこれで叶ったのだろうか。真夏の夜が静かに温度を下げていった。
僕は完成された球体を手に取り、潰れないようバックにしまった。
警察が来たのは電話してから30分もあとだった。
意外と遅いんだと思った。
あれから3年が経つ。僕は卒業後、芸術家の道を諦めて中学の美術教師になった。
生徒に絵を教える時、数村の執念がちらつく。今でも隅から隅まで彼の記憶が残っていて頻繁に思い出している。日に日に彼への思いが強くなるばかりだ。
手元にはあの球体がまだ残っている。
部屋の中央に天井から吊るして、暇な時間にぼんやりと眺めて過ごしたりそれをスケッチしたりする。
あの時、あの部屋で見たこの絵は間違いなく誰が見ても球体だったが、ここに来てからは単なる一枚の絵にしか見えなくなってしまった。
数村については解らないことの方が多かったままだ。検死もしたが死因は不明と判断され、普通に火葬されて灰になった。
何を持って球体なんだろう、球体であるには何が必要なんだろう、どうすれば平面に立体を生み出せるんだろう。教員人生この先40年弱の休日をいくら費やしても答えなんて出るわけがない。無駄だとわかっているけど、気になって落ち着かない。
画家として数村は100%の不可能を、3年前の夜の一瞬だけかもしれないが、覆した。所詮凡人の自分にできるのは彼の思考の欠片だけでも理解しようと努力するくらいだ。だから、せめてそのくらいは僕にもやれるだろう。
今年もやってきた8月の蒸し暑い夜。消灯した部屋にぶら下がる球体だった絵画が網戸越しの風を受けてクルクルと回っていた。
球、球、球。 夏野篠虫 @sinomu-natuno
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