紫は雨に笑う

工藤 みやび

1

 かれこれ一時間、久慈岡は悩んでいる。眉間に思い切り皺を寄せて、きらびやかなピンヒールの並んだ棚を睨みつけて悩んでいる。私はその横で、大きな紫色のイヤリングが久慈岡の耳で揺れている様子を眺めていた。

 平日のショッピングモールは大変空いており、母親に連れられた未就学児や隠居生活の只中なのであろう老人などがちらほらといる程度だ。そんな平日のショッピングモールにどうして私と久慈岡がいるのかと言うと、答えは簡単、ふたりとも全休だからだ。授業がひとつもない、土曜と日曜以外の心のオアシス。そんな週の中日を、私は高校も大学も一緒の久慈岡と過ごすことが多い。

 しかし、こんなふうに「買い物に付き合って」と言われるのは珍しいことで、普段はお互いの家で漫画を読んだりだらだらしたりしていることが多いのだが。

「久慈岡は身長もあるし、そんなに高くなくていいと思うよ」

「うん」

 うんと言いながらも、彼女の視線は八センチのヒールから離れない。白くてきらきらしたピンヒールだ。お値段もそれなり。お金がないとか言っていたような気がするが、それはいいのだろうか。

「それがいいの?」

「いい……のかな」

「他のお店も見てみる?」

 提案してみるが、私は知っていた。久慈岡は別の店に行ってもきっとこの靴のことばかりが思い浮かんで、この店に舞い戻ってくる。様々なものと見比べるのが一番正しい買い物方法だと知っているから一応別の店にも行ってみるけれど、どの靴を見ても心に刺さることはない。

「ついでにどこかでお茶しよう。立ち疲れちゃったよ」

「うん……ごめん」

 相変わらず白いピンヒールを見つめながら久慈岡は小声で呟いた。うんうん唸りながら首を傾けると、イヤリングが強い輝きを放つ。私はふうと溜め息をつくと、名残惜しそうに靴屋を振り返る久慈岡を引っ張りながらエスカレーターのほうへと歩を進めていった。

 休憩しに入った喫茶店で、ようやく久慈岡は息を吐き出して私を見た。悩み疲れたらしい。マグカップを両手に持ってげっそりとしながら、ぽつりと口にする。

「小柴はどう思う」

「あの靴? 綺麗だしいいんじゃない、あんたの身長だと一七〇センチ超えるけど」

「高いほうが強そうに見えない?」

「そんな小学生的意見には賛同しかねる」

 ずずっとまずいコーヒーを啜りながら切り捨てる。久慈岡はぶうたれながら尋ねた。

「小柴はもう靴もドレスも決まったの」

「決まった。年内で閉店する近所のデパートで選んできた」

「そっか」

 久慈岡がふうと紅茶を冷ます。こんなに悩んでいる彼女とは対照的に、私はあっさりと適当に決めてしまったのだ。どうせクラス会、それも二年前に卒業した高校のクラス会なのだ。そんなに気合を入れる必要もない。

「ドレスはどうしようかな。大人っぽくてシンプルなやつか、ふりふりしてて可愛いやつか」

「似合うほうでいいんじゃない」

「どっちのほうが強そうに見えるかわからないじゃない」

「だから強そうってなんだよ」

 はははと笑い飛ばすと、久慈岡も同じように笑った。

 久慈岡はどういうわけか「強そうに見えるかどうか」に重点をおいて衣装選びに励んでいるようだった。よくわからない選考基準だが、彼女なりに思うところがあるのだろう。久慈岡はたまに理解不能なことをするが、それは彼女なりにぐるぐる考え込んだ末のことなのだ。

「大学生活、どう」

 まずいコーヒーにミルクと砂糖を足しながら、何とはなしに尋ねてみる。同じ大学ではあるが、学部もサークルも別だし、その分交友関係も違ってくる。久慈岡は紅茶の湯気のようにふわっと笑みを見せると、嬉しそうに数名の知らない名前を口にした。

「この前そのメンバーでカラオケ行ってきたんだ」

「楽しかったみたいだね」

「うん」

 高校の頃、久慈岡はこんなふうに笑う奴ではなかった。もっと頬がこわばっていて、傘もなく雨に打たれているときのような目をしていて、それでいて「なんでもないよ」と私に笑いかけるような、そんな奴だった。

「『楽しい』って、なにも障害がないときに初めて完成するものだと思うの」

 久慈岡は唐突にそう言った。私はやや面食らって「そうかもね」と返すことしかできない。

「大学って、自分の在る場所をずいぶん自由に決められる空間じゃない。だからその障害を突破するんじゃなくて、相対せずにいられる場所を選び歩けるのって、幸福なことだと思う」

 久慈岡の言わんとしていることが、なんとなくだが伝わってくる。私は曖昧に頷いた。

「障害に立ち向かっていく必要なんてなかったんだわ。なんで前までわからなかったのかな」

 彼女の目がひときわ強い輝きを放つ。それは耳を飾るイヤリングにも劣らない、強い輝きのように思えた。

 喫茶店を出た私たちはまた何軒か靴屋を見て回った。しかし結局、久慈岡は私の予想通り、懐を痛めながらあの白いピンヒールを購入した。

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