? 9 (リャン視点)
ふっと意識が浮上する。
穏やかな波の音が耳をくすぐり、落ち着く間もなく息苦しさに咳き込んだ。
全身が痛い。
鈍器で殴られたような鈍い痛みが頭と肩、背中と太腿と、とにかく全身隈なく痛かった。
咳と一緒に水を吐き出す。
口の中が塩辛い。海水を飲んだようだ。
遅れて鉄な味がする。口の中が切れていて塩水がしみる。
頬に貼り付く髪も、全身にまとわりつく襦もびっしょり濡れている。
いつの間に海に落ちたのだろうか。
いいや、違う。
痛みのおかげで意識の覚醒が早かった。
状況を確認しようと目を開けると、見知らぬ浜辺に寝そべっていた。
周りはゴツゴツした岩ばかりなので、波に流され引っかかった、という方が状況的には正しいかもしれない。
最後の記憶は曖昧だった。
魔の森で魔に侵された木に襲われた。
腕を取られ、伸びてきた蔓に全身を絡められ、抵抗する間もなく痛めつけられた。
遠くでクロウの声が聞こえたが、何を言っていたのかわからないくらいに意識が混濁していた。
気付いたら崖の上から海に投げ落とされ、真っ逆さまに落ちていた。
海は危険と教わった。落ちれば荒波に揉まれ、固い岩に叩き付けられる。
水圧に耐えきれず、体の一部がもがれて魚の餌になるだろうと脅されたこともある。
すでに体力も気力も底をついていたので人生終わったと諦めた。
体が縛られて自由が利かなくとも、本当に指一本すら動かせないのだ。
クロウを守って討たれたのなら仕方がない。子供の頃から覚悟していた。
後悔があるとしたら、結婚の約束をしていた最愛の女性に謝れなかったこと。
優しい彼女はきっと泣いてしまうだろう。
もう一度会いたいと強く思った。
クロウもきっと、同じようにリーに会いたいと思っているはずだ。
死んだという証拠がない限り、生にしぶとい弟分は生きている。
会わせてあげるつもりだったのに、無様にもここで生を潰えてしまう。
海の冷たさを感じることなく意識を飛ばした。
薄らとある記憶はこれがすべて。
五体欠けることなく生きていることが信じられない。運が良かった。
ぱちゃぱちゃと揺れる水面が肌を濡らす。
こんな穏やかな海は知らない。
邑での海はいつも荒々しく、魔のように人を飲み込んでしまうものだった。
小さな入り江の浜辺でさえ、立つ波は高い。
帰る場所はあの小さな邑だ。
居場所も大事な人もあそこにすべてある。
帰りたい、帰らなくては。
問題は、見知らぬ場所からの帰り道がわからない。
指一つも動かせないほど疲弊した体で厳しい土地へ帰るのは無理がある。
全身痛いし腹も減っている。
どこかに休める場所がないだろうか、と視線を彷徨わせる。
岩以外にあるのは海。
見渡す限りの水平線の先に陸地は見えない。
「?」
しばらくの後、船が通った。
白い帆が立っている大きい船が横切っていく。
よく見ると、船の進行方向に海鳥が飛んでいた。
つまり、人がいる町がある。
リャンは身を起こし、さらに周囲を確認した。
岩を辿っていくと陸地がある。
動かない体を叱咤し、岩を登って陸に上がる。
目の前に現れたのは道だった。
人の手で作ったことがわかる踏み固められた道。
その先には木組みの門があり、門番らしい人が二人いた。
助かる。
門へ向かって一歩、また一歩歩く。
すでに限界を超えている。
鎧も靴も重いけれど、脱ぐ気力すらない。
気持ちは逸るのに体がいうことを利かず倒れそうになる。
「! 止まれっ!」
リャンに気付いた門番が静止を口にしているが止まろうとしなかった。
止まってなるものか。生き抜くために門を潜らなければ。
生にしがみつくあまり、門の内側に入ることだけが頭を占める。
「貴様どこから……」
「おいっ!?」
門番の目の前までたどり着いたリャンは、門を潜る前に気を失い、倒れた。
門番たちの声を意識の遠くで聴きながら、深いところまで落ちていく。
彼女の泣いている声が聞こえるのは、きっと幻聴だ。
次に目が覚めた場所は建物の中だった。
窓から光があまり入っていない所為か少し暗いが、掃除が行き届いているとわかるこぎれいな部屋だ。
傷は手当てされ、簡素な寝台に寝かされていた。
身に付けていた鎧もない。
体を覆っているのは包帯がわりの白布と褲。どちらも自分の荷ではない。
門に辿り着いてからの記憶がないので、誰かに運ばれたのだろう。
リャンが使っている寝台の隣にも同じ寝台が並んでいる。
薬草の匂いが鼻につく。
治療院か診療所だろう。
周囲に人気がないので、この部屋は患者を休ませる部屋だと予想がつく。
とにかく人に会って状況を確認したい。
ここは何処で、意識を失っている間に何があったのかを。
耳を済ませると隣の部屋から人の声がする。
おそらく治療師がいるはず。
目が覚めたと知らせておくべきだと寝台から起き上がり部屋を出た。
地面を踏みしめただけで立てない程の痛みが走る。
足の骨が折れているとすぐにわかった。
片足をひきずり、壁に凭れながらゆっくりと進む。
部屋のすぐ外は廊下があり、隣が診療部屋だった。
そこには老齢な男性と中年女性がいた。
リャンに気付くと二人は相好を崩した。
よく似ている。親子だろうか。
「起きたな。気分はどうだ?」
老人が話しかけてきた。こちらが治療師だろう。
「問題ない。迷惑をかけた」
「お前さんみたいに担ぎ込まれるもんをよく診ておるからさほど迷惑に思っとらんよ」
老人はカッカッカッと笑う。
女性はリャンに水を渡してくれた。
好意を受け取り、水を含むと一気に飲み干した。喉が乾いていたと自覚したのだ。
ーーきゅうぅぅ~~~
水を飲んだ所為か腹の虫が空腹を訴えた。
無神経かと揶揄されることも多々あるリャンも、恥ずかしさに顔を赤く染めた。
図々しいにもほどがある。
助けてもらって手当てまで施してくれた恩人に、飯も寄越せとか。
「はははっ! 食欲があるなら心配いらんな。もうすぐ出前が届く。食べていけばいい」
「…………何から何まで。感謝する」
リャンは小さな会釈で返す。
女性に支えられ、席につく。
治療に使うであろう机の上は片付けられていた。
窓の外から喧噪が聴こえる。
商売人の声、姦しい複数の女性の声、子供が走り回る小さな足音、時折乱暴な怒号もあった。
人通りの多い場所なのだろう。
懐かしいような、寂しいような複雑な心持ちになった。
「ちわーっす! 老師(せんせい)、飯ですよー」
「おぉ。来たようだ」
診療所の入り口から来客の知らせが響いた。
いつものことなのか老人たちは部屋で待機し、出前を待つ。
食事を届けに来た元気の良い声は女性のようだが、聞き覚えがある気がする。
部屋に入ってきた女性は木桶から皿を取り出した。
「今日は野菜炒めと蒸し鶏と……あれ、患者さん?」
「珍客だ」
料理を机に並べるまでが仕事のようで、手際良く料理を置いていく。
美味しそうな料理を前に腹の虫が暴れ出しそうだ。
気を紛らわせるため料理が入った桶を担いできた女性の手元を見ていた。
田舎で田畑でも耕していたのか、傷痕がありやや太めで皮膚に厚みがあった。少なくとも町で育った娘ではない。
視線に気づいたのか女性の手が止まる。
どうしたのかと顔を上げたリャンは驚愕した。
それは相手も同じだったらしく、口を半開きにしたまま固まっている。
そして同時に叫んだ。
「リー!?」
「リャン!?」
老人だけが愉快そうに笑っていた。
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