ダニエル・コールマンの肖像

高里奏

ダニエル・コールマンの肖像


 それは、偶然だった。

 骨董品蒐集を趣味とする翠は新居に合う品を探していると、なにかに惹かれるようにたまたま目に入ったその店に入った。

 商店街の片隅にあるその店の名前は看板の文字が掠れていて読めない。たぶん外国語で書かれていると思った。横書きで、古びた板に金の文字が掠れている。

 店内はなんというか奇妙な空間だった。あっちにもこっちにも様々な時代の品物が法則性なんて予測出来ない乱雑さで並べられている。

 古物の匂いが充満している。

 翠にとっては楽園のように思える空間だった。

 椅子やテーブルも骨董品で集めたい。

 英国から輸入されたというボルドーの分厚いカーテンはまさに骨董品の風格で、翠の心をがっちしと掴んだ。

 念願の独り暮らし。好きな物にだけ囲まれて生活したい。

 多少値が張っても構わない。理想の自宅を作るのだと、翠は店内を念入りに見て回った。

 一人がけのソファーにするか、長椅子にするか。

 テーブルは歴史を感じさせる素晴らしい品が破格だった。

 カーテンは絶対にあのボルドーにしよう。

 ベッドは天蓋付きがいい。これも骨董品で選ぶ。

 ついでに絵を飾るのもいい。花瓶も骨董品で選ぼうか。

 昼間に入店したはずなのに、夕方までどっぷりとその店に居た。そして、いくつかの品を選んで会計をしている最中に、一枚の絵に目を奪われた。

 油彩の人物画。少年の絵だ。

 貴族と言うほどではないけれど、身形の良い少年。金持ちのひとり息子という印象だ。少し寂しそうな表情に見えるけれど、薔薇色の頬が美しい。

 翳りのある美少年。

 そんな印象の絵だ。

 随分と安い。無名の作家なのだろう。

 即決でその絵を購入した。

 そうして、その少年の絵は家具と共に新居に運び込まれることになった。


 新しい家というのは気分がいい。それが自分の趣味で選んだインテリアならなおさら。

 新しい家、とは言っても中古マンションの一室だ。バブルの頃に作られたのか洋風の作りで、骨董品店で揃えた骨董家具と相性がいいように思える。

 絵はどこに飾ろう。

 考えるだけでわくわくする。

 他の家具の配置を済ませ、絵は寝室に飾ることにした。

 美しい少年だと思う。

 その絵にとても満足して、眠る寸前まで眺めていた。


 深夜、どこからかすすり泣くような声が聞こえた気がした。

 翠は重い瞼を持ち上げて起き上がる。

 一体どこから聞こえるのだろう。隣の家だろうか。

 うるさいなと思うけれども古いマンションなら仕方がないことなのかもしれない。壁が薄いだの気難しいご近所さんがいるだのそう言った問題はよくある話だ。ただ、初日からこれというのはうんざりしてしまう。

 もう一度眠ろう。そう思うと泣き声が強くなった気がした。

 一体どこから聞こえるのか。

 ベッドから抜け出して音の方向を探る。

 声は絵の方角から聞こえている気がする。隣か。子供のいる家庭は大変だな。

 そう思って二度寝を決め込んだところで、おかしいと気がつく。

 この方角は外だ。部屋はない。

 どうしてこんなところから泣き声が聞こえるのだろう。

 そう考え、もう一度絵に近づく。

 ぐずぐずと泣き声は、どうも絵の中から聞こえる気がする。

 まさか。絵が泣いているとでも言うのだろうか。馬鹿馬鹿しい。

 きっと気のせいだ。

 そう決め込んでその日は眠った。


 翌朝、体が重かった。なんとなく気怠い。寝た気がしない。

 あの妙なすすり泣きに気を取られ、眠りが浅かったのかもしれない。

 絵の場所を変えよう。寝室に置くから良くないのだ。

 そう思い、絵をリビングの壁に掛け替えて買い物に出かけた。

 食料品と日用品。新しい生活には必要な物が多い。

 ついでに引越祝い代わりにワインでも買っていこうと寄り道したりしていたら、家に着いたときには既に夕方だった。

 両手一杯の買い物袋を片付け、やれ一息とコーヒーでも飲もうとすると、おかしなことに気がつく。

 今朝、リビングに掛け替えたはずの少年の絵がない。

 掛け替えたつもりで忘れただろうか?

 そう思い寝室を確認すると、寝室の壁に少年の絵があった。

 うっかりしていた。掛け替えたつもりで忘れていたのだろう。

 絵を移動させる。

 どうやら前の住人もここに絵を飾っていたらしく、同じサイズの絵を飾っていたような痕跡がある。趣味が合う人だったのかも知れないと思うとなんだか嬉しくなってしまう。

 上がった気分のまま夕食の支度をする。少しいいお肉でハンバーグを作り、赤ワインと共に楽しむ。

 破格で買えた絵を眺めながら美味しい夕食だったと思う。

 薔薇色の頬が美しい。

 物語の中に出てきそうな美少年だ。

 入浴中もあの少年が気になった。

 あの少年の視線の先には一体なにがあったのだろう。いったいなにが彼の頬を薔薇色に染めたのだろう。

 結局眠る直前までそんなことを考え、眠りに落ちた。

 はずだった。

 どこかからすすり泣く声が聞こえる。

 またか。

 うんざりして起き上がる。

 虐待でもあるんだろうか。だとしたらどこかに通報しないと。

 眠い目を擦りながら起き上がり、泣き声の方向を探す。

 壁に絵があった。

 リビングに掛け替えたはずの絵が寝室にある。

 一体なにが起きている?

 泣き声はやはり絵の中から聞こえる気がする。

 気持ち悪い。

 あんなに素晴らしい絵だと思ったのに、一気に気持ち悪くなった。

 翠は咄嗟にタオルケットを絵にかけた。

 そうすると泣き声が止んだ気がした。

 これで眠れる。

 明日あの骨董品店に問い合わせてみよう。

 そう思って再び眠りに就いた。


 翌朝、翠の体は更に重く感じられた。

 何時間も肉体労働をした後のような強烈な疲労感がある。

 そして絵の方向を見れば、昨夜かけたはずのタオルケットが床に落ちている。どうもこの絵は普通ではないようだ。

 急いで朝食を済ませ、開店時間よりも少し早くあの骨董品店に足を運ぶ。

 そして、開店時間ぴったりに駆け込んだ。

 絵のことを問い合わせなくては。

「こないだ買った肖像画についてお訊ねしたいのですが」

 店主に声をかける。

「肖像画? ああ、あの少年の。年代物の絵という以外特になにもないよ。無名の画家だ」

「前の持ち主さんのこととかもわかりませんか?」

「輸入品だからね。海外の骨董品店で探して仕入れているんだよ。詳細はわからない」

 店主はそれ以上なにも知らないと言う。

 気味が悪い。

 折角買ったのに勿体ないが、あの絵は処分するべきだろう。

 家に帰った翠はすぐに絵を燃えるゴミに出した。

 これでもう大丈夫。

 そのはずだった。

 夜、またすすり泣く声が聞こえる。

 一体なにが怒ったのだ。

 絵はもう捨てたはずだ。

 うんざりして起き上がる。

 また同じ壁から声がする。

 眠い目を擦りながら確認すると、またあの絵がある。

「……どうして……」

 捨てた。

 確かに燃えるゴミに出した。マンションのゴミ捨て場に突っ込んだはずなのにどうして。

 咄嗟に壁から絵を剥がす。

 そして、キッチンのガスコンロの火を点けた。

 燃やしてしまえばもう戻ってこない。

 絵に火を点けた。

 はずだった。

 絵に火は点いているはずなのに、全く燃えてくれる気配がない。

 一体どうなっているのだろう。

 一時間ほど粘っても全く燃えてくれなかった。だから今度は水をかけてみたけれど、絵はへたる気配も見せない。

 うんざりした翠は絵を窓から外に放り投げて、寝室に戻った。


 翌朝、前日よりも更に体が重い。

 心なしか痩せた気までする。

 寝室の壁を確認すれば、やはりあの絵が元通りに飾られている。

 一体どうして……。

 早くこの絵をなんとかしなくてはいけない。

 けれどもゴミに捨てても燃やそうとしても外に放り投げても戻ってくる。

 どうしてこんなにしつこいのだろう。

 そう思いながらどうやって絵を処分するか考える。

 あの店に返品は難しいだろう。

 そうなると別の骨董品店に売りに行くべきだろうか。

 値段がつかなくてもいい。とにかく処分してくれればそれでいい。

 翠は絵を風呂敷に包んで、骨董品店に持ち込んだ。

 その店は絵画が専門のようだった。

 絵を見せれば喜んで、買った値段よりも少し多めの金額で買い取ってくれた。

 画家は無名だけれども結構な年代物で状態も良かったらしい。

 鑑定してくれた人の話によると、絵の中で描かれていた少年はダニエル・コールマンという名前だったらしい。

 絵の中の彼がどうしてすすり泣いていたのかは知らない。

 けれども、これで安心だ。

 その夜、翠は新居に越してから初めてゆっくり眠ることが出来た。


 数日後、特に用事もなかったがなんとなく、絵を買い取ってくれた骨董品店に立ち寄った。

 店内を見て回るとあの肖像画は売れているようで見つからなかった。

 どんな人が買ったのだろう。べつに翠の元へ戻ってこないでくれるなら誰が買っていても構わないとは思う。

 ただ、購入した人はあの少年のすすり泣きを聞くのだろうと、その点だけが気になってしまった。

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ダニエル・コールマンの肖像 高里奏 @KanadeTakasato

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