失跡した夫から妻に宛てられた一通の手紙
青嶋幻
第1話
瑠美佳へ。
いきなりこんな手紙をもらって驚いているだろうね。言いたいことがあるならメールや電話でもいい。いや、その前に家に戻ってくればいいと思っているだろう。
理由は追い追い話すとして、今はそれが難しいのをわかって欲しい。
二週間も音信不通で、本当に申し訳ないと思っている。勝手に会社を辞めてしまったのは知っているだろう。それだけじゃない。近々弁護士が離婚婚届を持ってくるよう手配してあるんだ。
僕の財産はすべて放棄するよ。今住んでいる家も、私の両親から相続した山の手の不動産もすべて君のものだから、真実子と二人なら食べて行くには困らないはずだ。
突然の離婚話で、君もさぞ面食らっているだろうね。今から理由を話していくよ。
始まりは半年前だ。僕の大学時代の友人に、古野という男がいたのを覚えているかい。僕たちの結婚式の余興で、バンドのボーカルをやっていた男さ。
プロのミュージシャンを目指していると言っていたが、僕から見れば、親のすねをかじっている女癖の悪い遊び人にしか見えなかったけれどね。
そんな古野だけれど、とうとう身を固めるという連絡が来たんだよ。フィアンセに会わせるから一緒に飲もうと言われて、会社帰りに落ち合ったんだ。
フィアンセは白石由季子と名乗った。色白で瞳がちの目をした美人で、モデルのように四肢がすらりと伸びていた。さすが、多くの女性と付き合ってきただけのことはあると思ったよ。
古野はそれまでの革ジャンにダメージジーンズといった、ミュージシャン然とした格好から一転して、ポロシャツにチノパン姿だった。長かった髪の毛も切っていた。
話によると、前々から父親に、自身が経営しているの自動車ディーラーを継がないかと言われていて、結婚を機にその話へ乗ったそうなんだ。
美人の妻に経営者の地位。その時は何ともうらやましい立場じゃないかと思ったよ。
でも、古野にとって、それは悲劇の始まりだったんだ。
会食から半年ほど経過したある日、僕の携帯電話へ着信があったんだ。番号は古野だった。彼からはいつもメールでしか連絡を送ってこないので、訝しく思いながら電話に出た。すると、女性の声がしたんだ。
「お久しぶりです、白石です。突然の電話で申し訳ありません。」
一瞬戸惑ったけれど、すぐに古野のフィアンセだと思い出したよ。
「ああ……。白石さんですか。こちらこそお久しぶりです。今日は一体どうしたんですか」
「突然の電話で申し訳ありません。実は慶太のことで相談がありまして」
慶太というのは古野の名前だ。電話をかけているのが古野の携帯電話だから、きっと古野自身は携帯電話に出られない状況なんだろうと思った。
少し嫌な予感がした。
「実は一週間ほど前から、慶太と連絡が取れなくなってしまったんです。私は慶太のマンションの合い鍵を持っていまして、家の中を探したら、この携帯電話が出てきたんです。それで登録から、めぼしい相手を探して電話をかけているんです」
僕はこのときおかしいと気がつくべきだったんだ。
あんなに女遊びが激しかった古野が、携帯にロックをかけていなかったなんて、あり得ないはずだった。
恥ずかしい限りだが、その時、僕の脳裏に彼女の美しい顔が浮かんでいたのは否定しないよ。彼女に協力すればまた会えると思ってしまったんだ。
のぼせ上がった僕は、彼女のかけた電話に疑問を持たなかった。きっとあの女も、そんな僕の下心を見越していたに違いないのさ。
仕事を早々に切り上げ、僕は古野のマンションへ向かった。そこには如何にも心細げな表情をした彼女がいた。ふっくらとして真っ赤な唇。潤んで、すがるような目で僕を見ていたんだ。
僕は勝手に高鳴る心臓を押さえることもできず、平静を装いながら彼女の話に聞き入った。
「慶太と最後に会ったのは、先週の木曜日の夜、一緒に食事をしたときなんです。その後連絡を取ろうとしたんですけど、ぷっつりと消息を絶ってしまいました。彼の両親も知らないというし、勤めていた会社はお父さんの会社へ転職するため、先月辞めたばかりで、今は関知していないと言うんです。彼と私は幸せで、失跡する理由なんて見つかりません。突然のことで、私はどうしたらいいかわからなくて……」
女は堪えきれないという顔をして、涙を流し始めた。
「そんなに泣かないで。私も協力しますから、もう一度古野を探しましょう」
僕は彼女を励ましながら、古野と共通の知人に対し、片っ端から電話をかけた。しかし古野の消息は杳として知れないままだった。
疲れ果てた僕は携帯電話を置きねソファに身をゆだね、眼を閉じた。古野の奴、こんなにきれいな人を残してどこへ行ってしまったんだと思ったんだ。
その時、ソファのクッションが横でたわむのを感じた。彼女の付けている香水の甘い匂いが、間近に匂ってきた。
目を開くと、いつの間にかあの女が横に座り、潤んだ目で僕を見ていた。
「あたし、これからどうしたらいいんでしょう」
女が体を寄せ、肩に柔らかな頬を押しつけた。時刻は既に午後十時を過ぎている。
僕はノースリーブの彼女の肩へ手を回した。柔らかくてしっとりとした肌の感触が、僕の心をざわつかせた。
女が顔を上げ、眼を閉じながら、真っ赤な唇を近づけてきた。
ここで僕が過ちを犯してしまったことを告白しよう。
けれど、僕に弁明させてくれないか。こんな状況で、一体どれほどの男性がこの誘惑に抗しきれるだろうか。
それほどまでに彼女は、怪しいまでの魅力を放っていたんだ。
彼女との関係は一ヶ月ほど続いた。君が僕の帰りを待っている間、僕は古野のマンションで快楽をむさぼっていた。
元々古野とは深い付き合いではなかったし、失跡しても、正直どうとも思っていなかった。むしろ、彼の大事なフィアンセを横取りしてしまったという事実が、僕の暗い欲望を燃え上がらせた。
そんなとき、僕の体に異変が起き始めていた。日の光が妙にまぶしくなり始めたんだ。
最初は少し疲れているのかなぐらいな気持ちでいたが、日に日に症状が重くなっていったんだ。病院で診てもらったが、何の異常もなかった。でも、食欲は徐々に落ちてきたんだよ。
と言うより、空腹感はあるんだが、食べ物が急にまずくなってきたんだ。症状はひどくなり、無理矢理食べても、最後はすべて吐いてしまうほどになっていた。
太陽に対する拒否反応もひどくなった。少しでも外へ出ると、皮膚が火傷したように熱くなってくるんだ。
僕が失跡する直前、真夏だというのに長袖のシャツに、手袋を嵌めて出勤していたのを覚えているだろ。君は訝しげな顔をしていたけど、そんな事情があったんだ。
対して、夜になると見違えるほど元気になった。昼間に滞っていた仕事をさっさと済ませ、古野のマンションへ行った。さすがにこれはおかしいんじゃないかと思い始め、あの女に話したんだ。
「あたしの家に行けば、いいお薬があるわよ」
僕は女に誘われるまま、古野のマンションを出た。駐車場へ行くと、古いベントレーが停めてあった。女は鍵を開けた。「さあ乗って」
彼女の運転で一時間ほど走ると、民家はなくなり、周囲は暗い森に囲まれた山道になっていった。不安げな表情になっていたのだろう。
女は僕に艶然とした笑みを向けた。「もうすぐよ。着いてお薬を飲んだら、いっぱい楽しみましょう」
彼女の言うとおり、程なく家が見えた。古い洋館だった。街灯で、その姿がうっすらと浮かび上がっていた。家の中は真っ暗だ。
「両親はずいぶん昔に亡くなったの。それからずっと一人暮らし」
女は鍵を開け、アールヌーヴォー風の金色に輝くドアノブを引くと、蝶番が軋む音が響いた。中は湿っぽく、かび臭かったが、外の空気よりひんやりしていた。まるで洞窟の中みたいだと思った。
女は電気を点け、中へ入った。ガレ風の装飾が施されたシャンデリアが、天井から柔らかな光を放っていた。僕はリビングへ案内され、なまめかしい曲線のフレームをしたソファを進められた。
「疲れたでしょ。ちょっとコーヒーを淹れてくるわ」
女が去り、静寂が訪れた。僕はソファに身を預けた。
ガシャン、ガシャン。ガシャン、ガシャン。
金属のぶつかるような音が、微かに響いているのに気づいた。一体なんの音なんだろうと思っていると、女がコーヒーをトレイに載せて戻ってきた。
正直、このところ食欲はなかったし、コーヒーも受け付けないだろうと思ってたが、せっかく淹れてくれたのに手も付けないのは失礼だろうと思い、カップを口に持っていった。
少し、生臭い気がした。不審に思いながらも口を付けると、生ぬるかったが、思いの外まろやかな味わいで、一気に飲み干してしまった。
「どう? おいしいでしょ。特製のフレーバーコーヒーよ」
「ああ。このところ全然食欲がなかったんだけど、こいつは別格だ」
「お代りはいかか」
「もらうよ」
ポットからなみなみとコーヒーが注がれ、僕は再び飲み干した。向かいに座った女はそんな僕を艶やかな笑みで見つめながら、自分もコーヒーをすすっていた。
「実はね、この中にお薬が入っているの」
「へえ、そうなんだ。すぐに効果があるみたいだね。もの凄く元気になってきた気がするよ。どんな薬なんだい」
「説明する前に、ちょっと見てもらいたいものがあるの」
「何をさ?」
「行けばわかるわ」
女はいたずらを仕掛ける子供のような目で笑いかけながら立ち上がり、歩き出した。仕方がないので後を付いていった。
女は階段の下にあるドアを開けた。物置部屋かと思ったが、左側が下へ続く階段になっていて、真っ暗で何も見えなかった。
ガシャン、ガシャン。ガシャン、ガシャン。
さっきから響き続けている音が、奥から聞こえてきた。女は壁を探ってスイッチを押した。蛍光灯の淡い光が、コンクリートの階段を照らし出した。
女は階段を下りていく。僕が躊躇していると振り向いた。「さあ、来てちょうだい」
「この音は、なんなんだい?」
「知りたければ、自分の目で見なさい」
微笑む女。蛍光灯の光に照らされた唇は、鮮血のように鮮やかで、ぬらぬらと艶を放っていた。正直言って怖かったけれど、音に対する興味もあったので、階段へ足を踏み出した。
腐った臭いが漂っていた。階段を下りるにつれ、腐臭は強くなっていく。
「たまんないな……。これはなんの臭い?」
「中はこんなものじゃないわ」
女はドアの端に手を遣り、テープを引っ張った。テープが透明だったので気がつかなかったが、ドアに目張りがしてあった。すべてのテープを取り除き、女はドアノブを押し開けた。
今までとは比べものにならない強烈な腐臭が襲いかかり、思わず目眩がしてくる。しかし女は臭いなど意に介さないという風に、微笑みながら僕を見つめていた。
「さあ、入って」
女が壁のスイッチを入れた。天井の蛍光灯が、一瞬瞬いて地下室を弱く冷たい光で照らし始めた。階段と同じく壁や床もコンクリートが剥き出しの状態で、寒々しい印象を放っていた。
ガシャン、ガシャン。ガシャン、ガシャン。
音が室内に反響していた。
「うえっっ……。うえっっ……」
老人が発したような、嗄れたうめき声も聞こえてきた。
部屋の隅。やや暗くなっている場所から聞こえてくる。
目をこらし、その輪郭を明確に意識するにつれ、僕は戦慄した。
「早くドアを閉めて。虫がたかり始めたら、上まで影響が出ちゃうのよ」
言われるままにドアを閉めた。
「近くでじっくり見てちょうだい」
体の芯が痺れるような感覚になっていた。機械のようにぎこちない動きで陰に近づく。
銀色に鈍く光る水道管が壁に固定され、ステンレスの手錠が掛けてあった。
手錠の一方には手が繋がれている。
やせ細った腕は、真っ黒に腐っていた。手錠のかかった手首は赤黒く爛れ、乳白色の骨が見えていた。床にはタールのように黒いものが拡がっている。
手首の先にある手は腐敗が進んでいるのだろう、黒くぱんぱんに膨れあがっていた。きっと少しでも傷つければ、床に落ちているものと同じ液体が吹き出てくるに違いない。
ガシャン、ガシャン。ガシャン、ガシャン。
水道管と手錠が接触して、音を放っていた。
「うえっっ……。うえっっ……」
男は鬼のような形相で前へ進もうとしていたが、そのたびに手錠に阻まれていた。音をたてる度、苦悶の表情が重なり、あえいだ。
骸骨に皮膚が貼り付いただけのようにやせ細り、髪の毛は地肌が見えるほど抜け落ちている。血走った目は怒りと苦しみに満ち溢れていた。しかし奥に宿る瞳は昆虫のように虚ろで、知性のかけらも見えない。
「ねえ、この人が誰だかわかる?」
唇を嫌らしく歪め、女が上目遣いで笑った。
「古野……か」
「ご名答」女は声を上げて笑った。
「ぐぉぉ……」古野が喉の奥から絞り出すような声を上げ、右手を伸ばす。
「あなた、これが欲しいのね」
女は古野の前で屈むと、陰の中で何かをつまんだ。蛍光灯の光に晒されたそれは、銀色に輝く鍵だった。
「ぐうぇぇ……ぐぅぇぇ……」
古野の虚ろな目に輝きが灯った。
ガシャガシャ、ガシャガシャ。
手錠のぶつかる音が激しさを増した。
「でもね、これはあなたがやったことなの。覚えているでしょ。自分で手錠を掛けて、鍵を放り投げたの。忘れたなんて言わせないわ」
「ぐぅああぐぅああ」
古野は目を大きく見開き、何かを訴えかけているようだった。しかし女はニタニタ嫌らしい笑いを浮かべながら、鍵を元にあった場所へ戻した。
「おい、どういうわけだ。古野は死にかけているじゃないか。早く手錠を外してあげないといけないよ」
「この人の心配をする前に、あなたの体を心配した方がいいんじゃないの」
「なんだって?」
女は意味ありげな笑みを浮かべた。「こんな所にいたら臭くてたまらないわ。上でゆっくり話しましょう」
女は僕の返事も聞かずにさっさとドアを開け、階段を上っていった。鍵を外してやろうと思ったが、古野の状態に不穏なものを感じ、躊躇した。腕まで腐っていれば、普通の人間なら死んでいるか、瀕死の状態だろう。それなのにまだ膝立ちになり、鍵をとろうとしている。
「古野、待ってろよ。必ず助け出してやるからな」
声をかけ、僕も階段を上った。一階へ戻り、女の姿を探す。いくつかの部屋を見て、キッチンのテーブルに座っている女を発見した。
テーブルの上には透明なポットが置いてあり、真っ赤な液体で満たされていた。トマトジュースよりも、鮮やかな赤だ。
「さあ、絞りたてよ。召し上がれ」
女はコップに赤い液体を満たし、前に差し出した。
「これは、なんなんだ……」
「抜群に効くお薬よ」
躊躇する僕の意識に反して、体は引き寄せられるようにテーブルへ向かい、コップを掴み、一気に飲み干した。
生臭く、金属を舐めたときのような味。
血だった。
「まさか……」
口の端に垂れた血を無意識のうちに拭いながら、呆然と呟く。
「そのまさかなの」女は笑っていた。「あたしは吸血鬼で、あたしはあなたの血を吸った」
首筋へ手を遣る。彼女と男女の関係になった翌日、首の付け根に、虫に刺されたようなちくりとした痛みがあったのを思い出した。
吐きそうなくらい強烈な腐臭を嗅いだ後だった。それでも生臭い血は、真夏の体へ水分が染み渡っていくように、違和感なく胃の中へ治まっていた。
「どう、おいしいでしょ。さっきのコーヒーにも混ぜていたのよ」
太陽がやけにまぶしく、日の光に当たると、すぐに火傷をしたように痛む。
あり得ないと思いつつも、最近の変化は、自分が吸血鬼になったことを示していた。
「あなたは選ばれた人。光栄に思ってくれなきゃ困るのよ」
「言っている意味がわからないよ。説明してくれ」
女はポットの血を自分のコップへ注ぎ、ごくごくと喉を鳴らせて飲んだ。眼を閉じ、満ち足りた表情で大きく息を吐いた。
再び目を開く。全身から生気が漲り、禍々しい程の美しさを放っていた。
「あたしたちの種族は、文明が勃興する遙か以前から、人類と共に、細々と生きてきたの。でもね、時には手当たり次第に人を襲って自らの勢力を拡大していった者もいるわ。一つの町や村を飲み込んでいったこともある。そうなると、たいてい人間の反撃を受けて、あたしたちは手痛い打撃を受けていた。
そういった経験を経て、あたしたちはむやみに仲間を増やさないよう取り決めたの。人の体から血を直接吸えば、その人は吸血鬼になってしまう。だからあたしたちは人を殺した上で、生き血を搾り取り、自らの滋養とした。これがそう」
女はポットの血を指差した。
「そんな中で、あなたを殺さず、あたしたちの仲間に入れたのは訳があるわ。人を殺して血を搾り取るのはたやすい作業じゃない。時には百キロを超える肉体を扱わなければならない重労働よ。
あたしは、とあるコミュニティーから独立することになったの。それで一緒に血を絞ってくれるパートナーが必要になったわ。それで選んだのがあなた。
でもね、正直に言わせてもらうと第二候補なの。第一候補だった人は、地下で呻いている」
ガシャン、ガシャン。ガシャン、ガシャン。
下から、微かに響いてくる音。
「チャラチャラした人だから目をつけたんだけど、あんなに道徳的だと思わなかったわ。あの人、自分が吸血鬼になったのを知ると、他人の血を飲むのを恐れて、自分でああいう風に手錠を掛けたのよ。
そのなれの果てがあの状態。途中で堪えきれずに鍵を外してくれと頼んだけど、虫がよすぎるわと言って断ったわ」
「あのままだと……古野はどうなるんだ」
「全身が腐りきった挙げ句、カラカラに干からびてミイラ状態になる。もちろん筋肉は固まっているから動けない。
だけどね、意識は保ったまま。魂は激痛と血に対する狂おしいほどの欲望に苛まれながら、永遠に声なき叫びを上げ続けるの」
「お前は……、なんてことをしたんだ」
「あらご挨拶ね。血を搾り取られるはずだったのに命拾いしたんだから、感謝してもらってもいいくらいなのよ」
女は立ち上がり、戸棚から銀色に光るものを取り出してテーブルの上に置いた。
血で満たされたポットの横に、古野が嵌めていた物と同じ手錠が並ぶ。
女は微笑み、テーブルに両手を着けて身を乗り出しながら、僕の目を挑むようにして覗き込んだ。
「さあ、あなたはどっちを選ぶ?」
迷った……。いや、正直に告白しよう。古野の話を聞いたときから結論が出ていたが、恐ろしくて口に出せなかっただけだ。
僕は吸血鬼として生きることを選んだ。
「あと一ヶ月もすれば、あなたは血のことしか考えられなくなるわ。血に飢え、血に魅せられ、血を愛すの。罪悪感とか道徳なんて、血の前ではブーンと飛ぶ蚊のようなもの。パチンと叩けば潰れてしまう。
ご家族のことが心配なの? ウフフ。大丈夫よ。そのうち人を愛していた記憶なんて、消し飛んでしまうから」
吸血鬼になった自分が、親しい人へ連絡を取らせないため、すぐに携帯電話を破壊した。僕がどうしてこんな手紙を書いたのかわかっただろ。
これで、僕が友人や知人の血を啜る可能性は低くなった。
だけど問題がある。
僕は君の住む家を知っているんだ。
この手紙を読んだ後、お願いだからすぐに真実子と一緒にこの家を出てくれ。君のご両親にも災いが降りかかるかもしれないから、逃げるよう言ってくれないか。
でもね、僕は君の居場所を突き止めて、家にやってくるかもしれない。その時は決してドアを開けないで欲しい。
何事もなかったように、笑いながら開けてくれと頼むかもしれない。
怒りを浮かべて、この手紙を信じる君をなじるかもしれない。
あるいは泣きながら、この手紙は嘘だったと許しを請うかもしれない。
繰り返し言うよ。それでもドアを開けないで欲しい。
そこにいるのは僕じゃない。僕の姿をした化け物なのだから。
失跡した夫から妻に宛てられた一通の手紙 青嶋幻 @genaoshima
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