第3話 市役所の階段で人魚と出会った

 沙月に拒絶された後、逃げるようにその場を離れ、呆然としたままやってきた市役所でハカリは土木課の職員と相対していた。


「んー。そういうのはとりあえず市民課、ですかねぇ」


 でっぷりとした体型の中年職員が手元のファイルを眺め、やる気なさそうに頭を掻く。


「いえ。ですから、その市民課には在籍していないので、災害関連なら土木課に行って欲しいと言われて来たんですが」


 さっきも同じこと言っただろ。

 そう言いたい気持ちを抑えて告げると、職員はチラとハカリの顔を確認してから眉を寄せた。


「いやー、しかしですね。この名前の課自体ないですし、我々も職員全員の名簿を持っている訳では……あ! 総務課に職員係がありますので、そちらに行けば分かるかもしれません」


「どういうことです?」


 職員は一瞬辺りを見回してから声を落とした。


「新しい市長の公約で、来年度から新部署ができると突然決まりまして。それがこの天災対策企画課だと思います。ですが、どこ部門の管轄になるかとか、どの職員がその部署に配属されるかまでは分からないんです」


 そう告げた職員の顔と声は不満そうだ。


「ですので、先ほど言ったように四階の総務課で話を聞いてみてください。土木課では無かったことをはっきりと告げて」


 顔と声を元に戻した職員が念押しする。

 おそらくこれが最も言いたいことなのだろう。


「はぁ」


 一気にまくし立てられ生返事を返すと、職員はチャンスとばかりに後ろに並んでいた別の市民に声を掛けた。


「次の方ー」


 渋々列から離れる。

 これがたらい回しというやつか。

 再度鼻を鳴らしてから、ハカリは階段へと向かう。

 総務課はすぐ上なのでエレベーターより階段の方が手っ取り早い。


 約束の時刻までもうあまり時間が残っていないが、これはハカリのせいではない。

 まだ出来てもいない部署の名刺を渡してきたり、守衛室に誰もいなかったりと、いちいち段取りの悪い朝日の責任だ。


 心の中でグチをこぼし、到着した階段を上ろうとした瞬間──

 世界が変わった。


「え?」


 視覚も聴覚も嗅覚も、あらゆる感覚に変化は無いが、五感以外の何かが世界が変わったことを知らせている。


 息を飲むのと同時に、カツン。と小さな音が鳴り、誰かが階段を下りてくる気配があった。

 この異様な気配の中を近づいてくる者がいるというだけでハカリの心臓は強く拍動し、足を止めて身構える。


 何かが来る。


 それが何かは不明だが、かつてこれと似た体験したことがある。それを記憶ではなく身体が覚えている。

 そしてこれは記憶を失っていた半年間に関係がある。

 特に根拠はないが、そう感じた。


 だとすれば逃げるわけには行かない。

 言い聞かせるように服の上から心臓を抑え、足音の主が現れるのを待つ。

 徐々に近づいてくる足音がすぐ近く、恐らくは踊り場を挟んで反対側で停止した。


 相手もこちらの存在に気づいたのか。


 そう思った瞬間、大きな音が響く。

 プールに人が飛び込んだときのような水音だった。

 それもテレビのスピーカーから流れる作られた音でなく、今この場で水に飛び込んだような真に迫る音だ。

 常識的に考えて階段でそんなことが起こるはずがないのだが、その常識は次の瞬間、あっさりと砕かれることになる。


「あぁ、気持ちー」


 快活な少女の声と共に、人魚が空気の中を泳ぎながら現れた。

 青みがかった濡羽色の長い髪をひとまとめにしたポニーテイルと、同じく青色の大きな瞳には、幼子のような純粋な好奇心に満ちていた。

 日本人離れしたメリハリのついた顔立ちは、テレビの中でしか見たことの無いような飛び切りの美人だが、それも彼女の下半身を見た後では大した驚きではない。


 上半身は真っ黒なスーツだが、そこから延びているべき足は無く、代わりに巨大な魚の下半身が生えた、いわゆる人魚そのものの姿だったのだから。


「お、居たな」


 青い瞳がハカリを捉えた。

 そのまま下半身をしなやかに操り、空気の中を泳ぐようにヒレを左右に動かして、ハカリのところまで降りてきた。


「遅いから迎えに来たぜ」


 人魚は少年のような人なつこい笑みを浮かべて言った。


「どうした? アタシたちの話は三上から聞いてるだろ?」


 黙り込んだハカリの周りをくるくると泳ぎながら話しかけてくる人魚のヒレが、偶然ハカリの手に触れる。

 濡れてはいなかったが冷感と共に魚特有の滑り気が伝わった。


「ここは異世界なんだな」


 もし、病院から直接この市役所に来ていたら、本気で自分の頭がおかしくなったと取り乱していただろうが、これは怪我の功名と言うべきか、ハカリにとって誰よりも信頼できる幼なじみに忘れられた事実を突きつけられた後だったこともあって、頭は妙に冷静だった。

 自分の頭がおかしくなったのでなければ、現実に似た異世界に転移してしまったと見る方が自然な気さえしてくる。


 それでも最後の希望に縋るように目を伏せる。

 次に目を開けたら、全てが元に戻っていないだろうか。

 一縷の望みを賭け深呼吸をしようとするが、息を吸ったところで、再び暢気な声が耳元で聞こえてきた。


「なに言ってんの?」


 その声に反応して目を開けると、当然世界が変わることなど無く、不思議そうな顔のまま、人魚がこちらを眺めていた。

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