第一部

第一章

第1話 失われた記憶と戸籍

 目が覚めると病院のベッドの上だった。

 これは頻繁ではなくとも、現実の世界でも起こり得る。

 その際、記憶も一緒に消えていた。

 これは現実では滅多にないが、漫画やドラマの中ではよくある話だ。


 しかし──


 病院のベッドの上で目覚め、自分の記憶が消失し、周囲の人々には忘れられている。

 極めつけは自分が存在した痕跡そのものが消えていた。


 ここまでくると創作物の中でも、そうそうお目にかからない。

 少なくとも彼、釣合ハカリはそんな物語に心当たりはない。

 まして、そんな物語の中にすら起こらないようなことが、自身の身に起こるとは思ってもいなかった──



──一年前──



「……確認ですが、君は半年前事故に遭い、そこからの記憶が抜けている。ということで良いんだね」


「ええ」


 以前にも告げた内容にうんざりして頷くと、カウンセラーは僅かに眉を顰めた。


「場所は?」


「八代峠の真ん中。乗っていたバスに落石が当たって、バスごと横転した……はずです」


 クラス全員を乗せて研修旅行に向かっていたバスに、何の前触れもなく巨大な石の塊がぶつかり視界がシェイクして、次の瞬間に暗転した。

 記憶しているのはそこまでだ。


 カウンセラーの視線が手元の資料に向かった。

 書かれている文書をなぞり、再度首を傾げる。


「君は間違いなくそのバスに乗っていたんだね?」


「ええ」


「それを離れたところから見ていたのではなく?」


 念押しをするような言い方に、むっとして吐き捨てる。


「間違いなく乗っていましたよ」


 どの医者もこの部分の話になると、しつこく確認を取ってくる。

 今回はカウンセラーなのだが、質問内容は変わらないらしい。


 いささか不愉快だ。


 相手もそれを感じ取ったらしく、まだ若いカウンセラーは作りものめいた笑みを浮かべてハカリを宥めた。


「まあまあ。これはあくまで確認ですから。そんな大事故に巻き込まれたにしては、釣合さんの傷がね」


「それだけじゃないでしょう?」


「ああ、うん。確かに君の言うように半年前、八代峠で研修旅行に向かっていた高校生を乗せたバスに、落石がぶつかる事故が発生している」


 カウンセラーはそれ以上言わなかったが、相当な大事故だったらしく、生徒二十人が死亡し、残る十八名の生徒と引率の教師、運転手も重傷だったと聞いている。


 だが──


「その中に君の名前はなかった」


 四十名の生徒に加え教師と運転手、合計で四十二名が乗っていたはずのバスからはハカリともう一人の存在が消えていた。

 行方不明などではなく、クラスの人数が初めから三十八人だったように報じられていたのだ。


「それとね。君が言っていた児童養護施設にも問い合わせたが、在籍者に君の名前はないそうだ」


「……」


 ハカリの両親は幼い頃に死亡しており、頼れる親戚もいなかったため、ずっと市立の児童養護施設『コモレビ』で暮らしていた。

 住んでいる期間では既にそちらの方が長いくらいだ。


「大丈夫? 少し休憩するかい?」


「それは園長先生が?」


 相手の気遣いを無視して問う。


「あ、ああ。そこでさっきの話に戻るんだ。本当に君はその場にいたのか。それと……君の名前は正しいのか」


「名前?」


「私は医者ではなく臨床心理士だからね。記憶というか脳に関してはそこまで知識があるわけではないんだが、一言で記憶喪失といっても様々な種類がある。全ての記憶の完全喪失から、特定期間のみの喪失、あるいは特定の人物に限った記憶のみの喪失。そして、その失われた記憶の補完を試みた結果、記憶の混濁が起こることもあるそうだ」


「記憶の、混濁」


「そう。記憶の矛盾が起こらないように脳内で勝手に記憶を繋ぎ合わせ、実際にそれが起こったように記憶を書き換える場合もあるらしい」


「つまり、どういうことです?」


「んー。これも私の立場では無責任なことは言えないんだけど、まあ例え話としてね。君が事故に遭ったのは半年前ではなくごく最近。場所はあの八代峠だ。もしかしたら君はその事故の関係者か何かでお参りにでも行っていたのかもしれない」


「?」


 困惑するハカリを無視して、カウンセラーは続ける。


「そこで君は転んで頭を打ったとかで意識と記憶を失った。そのとき記憶の補完が起こり、自分が例のバス事故の被害者であると記憶を改竄した。名前の方は──そうだな。君のあだ名、あるいは好きな漫画の主人公というのはどう? 釣り合いを秤るなんて、なかなか洒落た名前だしね」


 洒落た名前。と濁してはいるが、言いたいことは分かる。

 いわゆるキラキラネームとは異なるが、名字ありきで付けられたこの名前は本名ではなく、あだ名や物語のキャラクター名の方がしっくりくると言いたいのだ。

 しかし、これまで何度となく弄られてきた奇異な名前だからこそ、ハカリにはそれが本名であると確信を持って断言できる。

 感情が顔に出たのだろう、カウンセラーは苦笑した。


「今日はこの辺りにしておきましょう」



 ・



 与えられた個室のベッドに寝転がってテレビを眺める。

 テレビでは市内ニュースを放映しており、新市長がどうこうとキャスターが語っているが詳しい内容はまるで頭に入ってこない。

 代わりに頭の中では先ほどカウンセラーが語った内容が、延々と繰り返されていた。


 イライラをぶつける様にリモコンのボタンを強く押してテレビの電源を落とすと、今度は看護士に頼んで取ってもらった新聞に目を通す。ワンクールごと入れ替わる連続ドラマは見覚えのない名前ばかりだった。

 やはり半年経っているのは間違いない。


 ではその間自分は何をしていたのか。

 医者やカウンセラーの言うように、あれだけの大事故を経験したにしては、身体に傷一つ残っていないのは妙だ。

 傷が癒えたにしても、半年程度では傷跡まで消えるはずがない。


「やっぱり一度電話してみるか。園長に直接連絡ができれば──」


 カウンセラーはああ言っていたが、直接聞かないと信じられない。


「それは止した方がいいな」


 突然、平淡な女の声が聞こえて目を向けると、いつの間にか部屋の中に黒いスーツを着た二十代中盤ほどの女性が立っていた。


「え?」


「突然失礼。だが、ノックはしたよ」


 飄々とした態度に苛立ちを覚え、ハカリは語気を強める。


「いや、それ以前に。鍵閉まってただろ?」


「鍵は閉まってなかった。勘違いだよ」


 そんなはずがあるか。と怒鳴りつけたいところだが相手が鍵を持っているなら病院関係者の可能性もある。

 自分の立ち位置さえあやふやになっている今、下手に騒ぎ立てるのは得策ではない。


「改めて。君が釣合くん?」


「そうだけど。貴女は?」


 こちらの警戒を察したのか、無表情だった女の口元に笑みが浮かぶ。そのときになって初めて彼女の特異性に気が付いた。

 目立った特徴があるわけではない。

 むしろその逆だ。

 彼女の顔には特徴が一切存在しなかったのだ。

 僅かに茶色掛かった黒髪は真っ直ぐなセミロングで、目、耳、鼻、唇などの各パーツが整っているのは間違いないのだが、それらを総合して全体的に見た顔の印象が妙に薄い。

 よく見ると顔にはシミやそばかす、黒子すら一つも無い。

 ようは非常に作り物めいていて、笑っていても出来の良いCGかなにかのようだ。


「そう警戒しない。ほら、こういう者だよ」


 いつの間にか女の手には一枚の名刺が挟まれていた。


「市役所天災対策企画課……室長」


 受け取った名刺の文字を読み上げる。

 課名の後には不自然な間が空いていた。

 そのまま中央に刻まれた名前を読み上げようとしたところ、相手の方から名乗った。


「朝日月夜。冗談みたいな名前だけど、本名だ」


 名前に関しては自分も似たようなものなので特に反応せず、代わりに名刺に刻まれたもう一つの身分に着目した。


「市役所の方、ですか」


 相手の正体が分かると怒りも収まり、話し方も意識的に変える。

 ハカリが暮らしていた児童養護施設コモレビは市立なので、市役所職員と会う機会も多く、対応は慣れていた。


「奇妙な患者が見つかったと連絡が入ってね。本当はもっと早く会いに来たかったのだけれど、手続きに手間取ってしまった」


 そう言われて、ここは市立病院だったことを思い出した。

 半年前の大事故の現場で突然見つかり、その事故の被害者だと言い張る人間が現れれば、市役所に連絡が行っても不思議はない。


「さっきのはどういう意味ですか?」


「ん?」


「園長に連絡を取らない方が良いってやつです」


「ああ、それね。高峯園長には君の記憶が無い。だからそんなことをすれば余計怪しまれるという意味だよ」


「は?」


「高峰園長だけではない。君のことを記憶している者はもうどこにもいない」


「なにを言って──」


 次々投げかけられる言葉の意味を理解できず、困惑するハカリの声を遮り、朝日は続ける。


「市役所で確認したが、コモレビの入居記録どころの話じゃない。君の戸籍そのものが存在してないんだ」


「はっ!? 戸籍?」


 施設の記録ならばまだしも、戸籍がないと告げられたことで、思わず吹き出してしまったが、朝日はくすりともせず、まじめな顔で頷いた。

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