第81回 サヨナライツカ その1

「サヨナライツカ」は、辻仁成の小説です。ミポリンこと中山美穂の元旦那ですね。中山美穂主演で映画化されています。また、文庫も合わせるとミリオンセラーとなっています。


 中山美穂と言えば、知らない人はたぶんいないであろう人気女優ですね。歌手としても大活躍しました。私はデビュー当時からの大ファンです。「毎度おさわがせします」のヒロイン役は衝撃的でした。最初の主演作「夏・体験物語」から始まって、数々のドラマ、映画で主演しています。


 近年はあまり見なくなりましたが、ドラマ「黄昏流星群」の佐々木蔵之介の奥さん役は記憶に新しいです。


 婚約者もいる豊(小説ではこちらが主人公。映画版は西島秀俊が助演)が、謎の美女沓子(原作ではヒロイン。映画版は中山美穂が主演)とタイのバンコクで出会い、セックスしまくり、豊が25年後に末期癌に冒された沓子と劇的な再会をするというストーリー。



—―震えた声で、なんだい、君は、と言いかけた時、沓子の手がノースリーブのブラウスのホックにかかり、脱ごうとしている、と分かった瞬間、もう言葉は意味をなさなくなった。再びあのまっすぐな、自信に満ちた力強い視線が豊の目を捉えたのだ。豊は薄暗い部屋の中央で右往左往しながらも行動することができず、彼女が一つ一つホックを外していくのをただどぎまぎしながら見ていた。とにかく大きな黒い瞳がくるくるとカールした髪の毛の間で揺れて光っていた。ホックはブラウスの背後にあったため、彼女の体はやや前傾し、両手は縛られ後ろにねじ上げられたような、いびつな、しかしなんともセクシーな恰好となっていた。ホックを外し終えると、ブラウスは脱がずそのままにして、今度はミニスカートのホックへと手をかけた。流れ作業のような手際よさで、それはまるでファッションショーのモデルがデザイナーの前で着替えをしているような淡々としたもので、不思議なことに、女にはまったく恥じらいというものが感じられなかった。

 何が起こっているのか、どうしてこんなことになってしまったのか、懐疑する間も与えないほどの奇襲攻撃。スカートが先にするすると滑り落ち、同時に彼女がブラウスを振り払ったので、突然目の前に下着をつけただけの裸の女が現れてしまった。

 沓子はまるで十年来の恋人のように豊の腕をつかむとベッドのほうへと引っ張った。その時はじめて、彼は彼女に対するはっきりとした印象を持った。正確には二番目の印象というべきものだったが、しかしこの二番目の印象のほうこそが、彼をしっかりと引きつけたのである。

 腕を引っ張られながらその物凄い引力を感じつつ、豊は沓子を太陽のような人だと思った。バンコクの空を焦がし続けるあの黄色く巨大な南国の太陽のよう。

 沓子が自分の体に相当な自信があるのは一目瞭然であった。自信がなければああも大胆にはなれないだろうというくらい堂々としていた。実際その体は小柄なのに、非常に成熟していて、しかも肌には弾力があった。胸や腰や足を惜しげもなくさらけ出しながらも、豊が興奮を示すと、波のごとくすっと身を引き、豊のまだ若い心はいいようにもてあそばれた。くびれた腰は運動でかなり鍛えぬかれた証が、いい具合の曲線を描いていて、そこに触れると、肉体は瑞々みずみずしく跳ね上がり、うっすらと差し込む夕刻の光に実にくっきりと臀部でんぶの滑らかさの輪郭を浮かびあがらせるのだった。

 豊は沓子を抱いている時、光子のことを思い出さなかったわけではない。しかしこのバンコクの熱の中にいて、裸の異性を無視できる男はいなかった。しかも沓子の体当たりの奇襲には理屈を超えた説得力があった。沓子の体はどこを押しても、激しく溢れる水脈があった。比べてはならない、と自分に言い聞かせながらも豊はどうしても色気の薄い光子との交接を想い出してしまい、そのことが肉体的に物足りなさを感じていた彼の欠けた心の部分を刺激し、さらに興奮を連れてくるのであった。

 彼女のもだえ声は甲高かんだかく、ソイ1全体に届くのではないかというほどの華やかさがあった。慌ててその口許を押さえるのだが、指先からこぼれてくる切ない声と、彼女の唇の感触、さらにはこらえられずに彼女の歯が豊の小指のつけ根を嚙むごとに、いっそう豊の心に油を注ぐのであった。四千六百キロも離れた東京にいる婚約者よりも、その瞬間だけは目の前の裸の女性に軍配があがった。沓子も豊が果てるまで手加減をしなかった。興奮させる全ての技術と情熱を注いで、萎縮気味な彼の様々な気持ちを次々解き放っていった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.17~P.19)


 沓子とうこです。珍しい読みの名前ですね。豊と沓子のあまにも狂おしい出会い。豊には婚約者がいて結婚間近であるにもかかわらず、二人はすぐにお互いに溺れていきます。


—―ところが沓子のキスは息継ぎもできないほどに長い接吻で、何度も何度も彼女は執拗に豊の唇を吸い続けた。最初は拒否していた豊だったが、あまりに心の籠ったキスだったために、次第に頑なだった心も溶けだし、最後は自分のほうからその柔らかさを求める始末だった。ここでもまた豊は沓子と光子とを比べてしまっていた。いけない、と自分を叱咤するが、そうすればするほどに、逆に欲望が燃えあがり、豊は沓子の唇を強く吸ってしまうのだった。

 終わりかけてはどちらからともなく何度もまた吸いはじめた長い口づけがやっと終わると、豊はひりひりと痛む唇の痺れに酔い、自分が何を聞こうとしていたのかをすっかりと思い出せなくなっていた。

「好きよ」

 沓子が不意にそう言ったので、豊は突然現実に連れ戻された。小さく首を振ってみたが、沓子はいつまでも微笑んでいるばかりで、まともに取り合ってはくれそうになかった。

 それから若い二人はもう一度抱き合うことになる。今度は沓子がベッドサイドの明かりのスイッチを押したために、室内はさんさんと光が溢れ、お互いの顔を見つめ合いながらの交接となった。一つになっている最中、沓子はずっと豊の目を見つめ続けていた。豊も視線をそらすことができずにいた。こんな積極的で強引で強行で直球なセックスを経験したことがなかったから、豊はなにより、欲望の沼地にのめりこんでいく自分に驚いた。二度目なのに、もっと新鮮に感じたのはなぜだろう、と豊は沓子を抱き寄せながら不思議だった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.24、P.25)


 上手な描写ですね。とても過激なのにいやらしさがない。ぜひ見習いたい所です。


—―沓子は悪戯いたずらっぽい口調でそう言った後、キスをせがんだ。それが合図となって二人は昨晩の続きのような激しい口づけを交わした。細くしなった沓子の体が豊の腕の中にあった。爪先立っているためか、沓子の体は微妙に揺れた。それを支えるために豊はいっそう腰をかがめ腕を彼女の体にぴったりと重ね合わせなければならなかった。

 美味しい、と沓子が豊の唇を吸いながら言った。葉にまった朝露でもすするみたいに、沓子は丹念に豊の唇を吸い続けた。そのまま彼女はバレリーナのように爪先立っては後退しはじめた。豊の背中に回された手が、ベッドへ行こうと誘った。二人は唇をくっつけ合ったまま、箱型のベッドの中へと決して上品ではない姿のまま倒れ込んだのだ。

 二人は夕食のことさえ忘れて何度も求め合った。豊は欲望に身を任せている間だけ何もかもを忘れて幸福でいられた。しかしそれも永久に、というわけではなかった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.38、P.39)


 素晴らしいです。サラっとこんな文章が書けるようになりたい。


◇◇◇◇◇◇



 読んでいただきありがとうございました。



 次の第82回も引き続き「サヨナライツカ」の秘密に迫ります。お楽しみに。

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