アレークトーの救済

日下部聖

アレークトーの救済

握りしめた拳が、酷く痛んだ。


夏だった。耳障りな蝉の音は、丁度この時期の夕刻に降りしきる雨のようだ。

荒い息を零しながら、口の中に溜まった唾を飲み下す。

暑い。腕を覆うシャツが汗を吸って肌に貼り付くのが不快だ。


「どうして、」


心の底から沸き起こる憎悪が、怒りが、思考を染めていく。

拳をさらに握りしめると、爪が手のひらを傷つけたのか血が一筋手首を伝った。


「どうして――お母さんとお父さんを殺した!」

「それは」


椅子に縛り付けられ、身動きが取れない男が。殴られ続け、無残に顔を腫らしたその男が。

――両親を殺した、実の兄が。


「お前だって、わかってるんじゃないのか?」


血を流し、腫れて、満足に動かせないはずの顔でなお。

そうとわかるほどに、不気味なほど美しく微笑んだ。





――お父さんとお母さんが殺されたのは、数週間前のことだ。

リビングで折り重なるようにして倒れている二人を発見したのは、部活から帰った私だった。


『ただいま』


そう声を掛けながらも、両親がいるはずのリビング、そこに入る前から嫌な予感はしていた。

噎せ返るような血の臭いと、饐えたような臭い。玄関ドアを開けた瞬間、それが漂ってきていたからだ。

夏の盛りであれど、リビングに数時間放置した程度では死体は腐らない。だからそれは腐敗臭ではない。

しかし私があの時嗅いだのは間違いなく、死の臭いだった。未だに鮮明に思い出せる。

お父さんと、お母さんの――死に瀕した絶望の表情を。

流れた血が時間が経って固まり、どす黒くフローリングを染めていたことも。

血のように赤い夕陽が差し込み、二人の死に顔を照らしていたことも。

全部、全部思い出せる。


暫し呆然と、事態を把握しきれなかった私だが、日が沈んでからようやく警察に通報した。


『それで、帰ってきたら君のお父さんとお母さんが亡くなっていたんだね』

『……はい』


第一発見者の私も一応疑われたのか話を聞かれたが、死亡推定時刻には部活に行っていた私には当然のごとくアリバイがあり、

すぐに容疑者候補から外された。


――そして。

その次の日から、私は一躍『悲劇のヒロイン』になった。


『まだ中学生でしょう? ひどいわねえ』

『あの子、一体これからどうするのかしら』

『お父さんとお母さんを殺されて、さぞお辛いでしょう。今の気持ちを一言』

『ご両親を殺した犯人が憎いですか』

『ぜひこのマイクに思いのたけをぶつけてみてください』

交わされる、無責任な噂話。


向けられても全く意味のない、他人の憐れみ。

ハイエナのように、不幸を喰らうべく私を取り巻くマスコミ。

世間の全てが私を悲劇の主人公のように扱っていた。


――しかし、その状況は数日ですぐにひっくり返った。

両親を殺したのが、数年前に家を出た、私の兄であったことが判明したからだった。

親を殺された悲劇のヒロインから、親を殺した殺人鬼の妹への早変わりだった。

両親を殺されたという点では変わらなくとも、殺人犯の妹となるだけで私は加害者側の人間に、人殺しができる者の身内という名の人でなしにもなるらしい。

ああ、世間の声ほど、無関係な他人の声ほど、無責任なものはない。


けれど、本当に、憎いのは両親を殺した兄。

許せない。どうして、どうしてお父さんとお母さんを。

数年前、私が小学生だった時、家族を置いてとっとと遠い所へ行ってしまったお兄ちゃんが、何故今更になって。


兄が殺人犯とされてから、四六時中好奇の目に晒され、マスコミにも更に追い回され、私はもう頭がおかしくなりそうだった。

親戚もいないというわけではないが、殺人犯の妹を受け入れていいというほど経済的にも心にも余裕がある家はない。

私は孤独だった。


『必ず犯人を見つけるよ』


通報し、初めて家に警察が踏み入った時、初めに会った新人らしき刑事さんは、正義感溢れる声で私にそう言った。

兄のことを知らなかった彼は、これから一人で生きていかねばならないであろう私を哀れみ、犯人に怒りを覚えたのだろう。

そして彼らは実際に、犯人を見事特定した。

けれど。こんなことになるならいっそのこと、犯人なんて見つからなければよかったのに。


――兄は、お兄ちゃんは暫くの間、警察の手から逃げることに成功していた。

犯人の遺失物のDNAが兄のものだということが判明して、即座に捜査の手は彼に及んだ。

けれど、兄の住所となっているはずのアパートの部屋はもぬけの殻だったらしい。


『他にお兄さんのいる場所を知らないか』


何度、そう警察に問われたかわからない。そんなことは、私が何より知りたかったことだった。

聞かれる度に首を振るのも、もう疲れてしまった。

しかし、そんな時だった。

憎い相手は、不気味な笑顔を湛えながら、ある日ひょっこりと私の前に姿を現した。


「やあ。久しぶりだな」


――それが、つい、昨日の夜のことである。







そして今。

兄は、両親の死んだリビングダイニングの椅子に縛りつけられ、一晩中殴られ続け腫れた顔に笑顔を浮かべている。


「何が、わかってるって……?」


何故二人を殺したのかと私は聞いた。その理由を、私がわかっていると、兄はそう言いたいのか。

私は皮がめくれ、いっそ兄の顔より血だらけになっている自分の手の甲を見下ろし、ぎりと歯を食いしばった。


「ふざけないで。お父さんとお母さんを殺した理由が、なんで私がわかってるの? お前なんて、お前なんて……」


本当に、本当に、よくも顔を見せようと思えたものだ。

今更後悔して、兄妹だからと許して貰えると、そう思ったというのか。


「お前なんて、死んでしまえっ!!」


私は叫ぶと、拳の痛みも構わず、兄の顔を再度殴りつけた。


「……そうは言うけど、お前、ずっと殴ってばかりで全然殺そうとしないな」


ぱたた、と鼻血が垂れる。

兄は薄っすらと笑ったまま首を傾げた。「それこそ、どうしてだ?」


「そんなのっ、すぐに殺したら、私の痛みがお前に伝わらないからに決まってるっ」


警察になんかに渡すもんか。知らせてやるもんか。

再会したその瞬間から、私は、この男に自分の力で復讐すると決めたのだ。


「お兄ちゃんこそ……お前こそどうして私に会いに来たのよ! どの面下げて! ここに来たのよ! 

それで、どうして……どうして抵抗しないのよ!」


兄は無残に腫れた顔を持ち上げた。笑みが消え、ただ痛々しいだけの顔がそこにあった。

非力な、私のような女子中学生の力でも、ずっと殴られ続ければ骨格が歪む。

数年前から会っておらず、再会したのもごく最近だったが、それでも、この短い間で彼の顔のつくりが変わってしまったということは、目に見えてわかった。


そうだ。……その理由がずっとわからなかった。

兄は昨日の夜突然現れた時から、ただの一度も抵抗しなかった。

顔を合わせたその瞬間目の前が真っ赤になり、殴りがかった私を止めることなど、そうでなくても子供の拳を避けることなど、既に大人の男性である兄にとっては容易だったはずだ。

しかし兄は私の拳を頬に受け、私が家の中に引きずり込んで椅子に縛り付けても、リンチまがいの暴行を長時間加え続けても、一切抵抗しなかった。


「私を返り討ちにして、どっかに行くなんて簡単でしょ……? なんでそうしないの?」


荒い息を吐きながら、沈黙する兄を睨み下ろす。


「抵抗しないで殴られ続けて、それで贖罪のつもり? 私に許してもらおうって、そういう魂胆なの?」


それなら。

それなら。


「それならどうして――」

「なあ」


私の言葉を遮るようにして、先程まで沈黙を貫いていた兄が声を発した。


「今、夏だよな。

……なんでお前、長袖のシャツ来てるんだ?」


はっ、と息を飲む。

私は握りしめていた拳を開いて、反射的に腕を押さえた。

汗で肌に貼り着く、長袖の白いシャツが、指の間から滲んだ血で赤く染まる。


「ここに数年ぶりに来た時、お前の部屋を見た」


鼻血で鼻が詰まっているのか、歯が折れているのか、兄の発音は少しおかしい。

ど、ど、と鼓動が早くなる。背中に汗が滲む。


「両親の寝室はわりと整えられてるのに、お前の部屋はゴミだらけだった。お前の私物で、ゴミだらけで汚れてる訳じゃない。台所やら水場やらも含め、家中のゴミを撒き散らかしたようになってた」

「それが……それが何……」

「それから、食器が異様に少なかったな。茶碗も皿もコップも二つずつしかない」

「っ」


やめて。やめてよ。

これ以上聞きたくない。


「壁に血も飛んでるみたいだったな。


私は唇を噛んで耳を塞ぐ。

もうやめて。掠れた声でそう言うものの、兄は相変わらず淡々と続けた。


「その長袖、殴られた痕を隠すためだろ。数週間経っても残る痣もある。ましてや火傷痕や切り傷は、消えないことすらあるもんな」


兄はふ、と再び笑った。



「――



身体が震える。顔から、いっそ全身から、一気に血の気が引いていく。


殴られた痛みを思い出す。

蹴られた痛みを思い出す。

煙草を押し付けられた痛みを思い出す。

冬にかけられる冷水の冷たさを思い出す。

部屋に撒き散らされた生ゴミを思い出す。

食事とも言えないような餌を床にばら撒かれ、食えと命じられたことを思い出す。

ヒステリックに叫ぶお母さんを、何もしないで笑っているお父さんを、思い出す。


――ああ。

そうだ。私は。

数年前の兄と――お兄ちゃんと、同じような状況に置かれているのだ。

彼もずっと、子供を子供とも……否、人を人とも扱いを、実の両親から受け続けていた子供だった。

だから数年前、兄は、私を置いてこの家を出ていった。


彼は逃げたのだ。

虐待を続ける両親から。


「――悪かったと思ってる」


ぽつりと零された声に、私は俯いていた顔を上げた。


「お前を置いて逃げたこと。俺がこの家から出ていったら、次の標的はお前になるってことは薄々わかってたんだ。それでもあの時はどうしてもここから逃げ出したくてたまらなくて、そうでないとおかしくなりそうだった」


置いて逃げた俺を憎んでるか。

兄はそう言って、私を見た。


「何、言ってるの……?」


意味がわからない。

兄の言っている意味がわからない。

だって、


「憎んでるのは、お兄ちゃんでしょ?

あの時、お兄ちゃんを助けることもできず、見てるだけだった私が憎かったから、お兄ちゃんは、お兄ちゃんは……、

お父さんとお母さんを殺したんでしょ?」


許せなかった。

許せなかった。

両親だけを死なせた兄が。両親だけをこの世から逃がした兄が。

両親だけを、死という事実によって罪から解放した兄が。

どうして?



――どうして、私も一緒に殺してくれなかったの?



「……あの二人が死ぬ理由があっても、お前が死ぬ理由なんてないからだ。どうしてお前が、何も悪くないお前が死ぬ必要がある?」

「お兄ちゃんを助けられなかった。ただ見ているだけだった」

「それは、お前が子供だったからだ。あの時お前にできることはなかった」

「子供でも周りに助けを求めることはできた! 私は両親が怖くて、自分が可愛くて、誰にも言えなかっただけ……!」


何も悪くない?  何を馬鹿なことを。

私も両親と同じくらい罪深い。


ああ、しかし。

殺して欲しかったと言いながら、怒りにまかせて兄を殴る自分の、なんと勝手なことだろう。

私は兄に復讐して欲しかった。両親と一緒に殺されたかった。

――両親に苛まれ続けた兄に何も出来なかった罪から、私も解放されたかった。


それが望みだったのに、望みが叶えられなかったからと、兄を殴った。

私も所詮は利己心と嗜虐欲の塊のような、あの両親の娘なのだ。そして兄はあの両親の息子なのだ。

兄は人殺しで、私は人殺しの妹で、二人とも人でなしなのだ。


「生きている理由なんて、私にはもうないよ」

「……そっか、」


兄が、ぽつりと呟いた。

それはどこか呆れたような、諦めたような笑いを含んだ声だった。


「俺はお前を両親から解放してやったつもりだったけど、あの二人殺しただけじゃ、お前は自由にはなれなかったんだな」

「お兄ちゃん……」


そうだ。私には私の罪がある。それから解き放たれるためには死ぬしかない。

私は世界に望まれていない。そして私も同じように、世界を望んでいない。

本当の意味で私には、これからを生きる意味などないのだ。


「同じだな」

「え」

「俺も、同じだ。生きる理由も価値もない。未来を望む理由もない」


なら、と兄が笑う。

兄は痛々しい傷を負う顔に、美しい笑顔を浮かべた。




「――いっそ俺と一緒に、“ここ”から逃げてしまおうか?」

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