第3話  基礎実習

 


 基礎実習は三年に上がるための大事な実習である。今までの見学程度の実習ではなく、四週に渡り行われる。三年になると学校は一日だけで、後は全て病院実習になる。普段追試の追試をやったり、甘い学校だが、毎年、何人かはこの基礎実習を落とされる。

「看護の世界は甘くはないのよ」の、焼きを入れるための見せしめがいるのだ。他の科目の単位を取れていても、落ちると、1年この実習を待たねばならない。次の年はよっぽどのことがない限り、通してくれるのだが…。皆はこの実習だけは緊張する。

 実習では何グループかに別れ、それぞれに看護学校の担当教員と、病院側の看護師が指導員としてつく。看護学生は受け持ち患者を一人持つ。原則、実習中の患者さんの交代はないのだが、退院が早まったとき、場合によっては、亡くなられたときなどは二人になることがある。

 こんな時は疾患が異なり、一から始めなくてはならず、最終報告書も二部になり、大変なのだ。又、担当教員と病院側の指導看護師の意見や、見方が異なると、どっちらを取り上げて良いのか分からず、これも大変なのだ。

 

 そんな緊張の連続の実習だが、お昼のお弁当の時間だけは違う。いつものメンバーでくだらない話が緊張をほぐしてくれる。いいえ、下らない話ばかりではありません。情報の交換、教え合い、助け合いがあるのです。〈おとうさん〉の忘れ物にも、気を配らねばならないし。お弁当の時間は大切な時間なのだ。

 お弁当の時間に高島花子が「ニュース」を持ち込んできた。「大河内医師と小川看護師は出来ている。現場を見た」と云うのだ。大河内医師は理事長の子息で、小川看護師は病院一の美人看護師なのだ。実力もあって、次の次長長候補と目されている。小川看護師が私たちのグループの指導看護師となった。小川看護師を巡ってはこんなことがあったのだ。玉子の従妹の美香が小川看護師に叱責を食らった。チョットしたミスだったのだが(学生側はそう受け取った)、「そんなことも出来ないの!それで看護師になるつもり!」と、みんなの前で叱りつけた。

 美香は必死で涙をこらえた。横にいた玉ちゃんの目がつり上がった。「我慢して、玉ちゃん」思わず心の中で私は祈った。玉ちゃんは何も言わなかったが、二人の中は険悪になった。無言だが、すれ違うときは火花が散った。美人同士が嫌悪になった火花は凄い。傍に火薬があれば、確実に引火することは請け合う。


二人の噂は聞いてはいたが噂でしかなかった。

「どんなとこを見たのよ」と玉ちゃん、真剣な表情。

「節電とかで渡り廊下の電気暗くしてるとこあるわよね。だーれも居ないと思って手などつないで。御手洗から出て廊下に顔を出したら見えちゃった。〈ドキ!〉として、又お手洗いに引っ込んだけれど。あれは出来ている」と花子。

「職場の中でか、まさか、本当につないでたんか?並んで歩いていたらそう見えることかてあるさかい。あそこはかなり暗いから…」大谷は認めたくないのだ。大谷は小川恵子にイカれている。小川看護師を見る時の目ったら、見れたものでない。

「大谷、私の視力検査の結果知ってるか、右2.0左1.8やで」と、花子は大谷の気持ちなんか一切斟酌せずに言った。約一名を除いて噂は噂でなくなった。


***

 患者さんには事前に「看護学生がつくけれどいいですか」と了解を取る。そして実習三日前に付く患者さんの疾患名が知らされる。この三日間で疾患についての事前学習を終えなければならない。

〈おとうさん〉が付いた患者さんは南さんと言った。隣のベッドは北さんで、南さんは北側で、北さんは南で、ああややこし。ともかく、南さんは「実習の看護学生がつくけれどいいですか?」と訊かれて、てっきり若い女性だと思って、「僕は若い人が好きだからいいですよ」と答えられた。挨拶にやってきたのが担当教官の八宝先生と〈おとうさん〉。南さんは〈おとうさん〉が指導教官で、八宝先生をつく実習生だと思ったらしい。

「何が若い生徒さんだ、でも可愛い顔してるから、マーいいか」と思ったらしい。八宝先生は40才だが、ベティちゃんそっくりなのだ。すると付くのは〈おとうさん〉と紹介されて思わず、「君とこの学校は、どないなってるねん?」と言ったとか。


 何と言っても〈おとうさん〉の実習を話さねばならない。〈おとうさん〉と私のグループの指導教官は、ヨッシーこと吉増ヨシエ先生であった。何か起きなければと私は心配した。吉増先生はこの実習で必ずいじめるターゲットを一人決める。何しろ「落とす」「落とさない」の生与の権限を持つ。〈ヨッシー〉は何時も実習で一人、いじめのターゲットを見つけて楽しむ悪い癖がある。若い子たちは最後に〈真珠の涙〉を流し、許されるが、〈おとうさん〉には生憎〈真珠の涙〉はないのだ。メガネをかけて、唇は薄く、陰湿に笑う。あと二年で退職だと言うのに困ったものである。


 〈おとうさん〉とヨッシーが患者さんの疾患をめぐって意見が対立した。〈おとうさん〉が付いた患者さんは、例の南さんなのだが、南さんは前立腺がんで入院してきている。あそこに暫く管が入っている。陰部とその管の清潔をするのが実習生の役割なのだ。

 おとうさんは全摘手術に疑問を呈した。放射線治療も検討すべきだったとしたのだ。

前立腺がんの場合はたいてい全摘手術で済まされるのだが、男性機能は失われる。南さんはまだ59才である。機能を守るべく放射線治療の可能性も知らすべきではなかったかと、報告書に記したのだった。

 看護師でも医師の治療に口出しすることは厳禁である。まして看護実習生ごときが口出しすべき事柄ではない。ヨッシーの癇にさわったのだ。削除を命じた。おとうさんは抗辯してしまった。結果削除したのであるが・・基礎実習は不合格となってしまった。

 わたし、おとうさんの見識に一理あると思ったが、医師ではないのである。分をわきまえるべきとも思った。要領が悪すぎる。


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