The father・man
K助
第1話 名瀬義男
『出たぁー!! 8秒12! アメリカのマーベラス・ジョンソン! 金メダル! 強い! 強過ぎる! これで800m走、200m走につづき、この100m走でも金メダルです! しかも、しかもです、いずれの競技もこれまでの世界記録をはるかに上回る新記録を出しています! まさに超人、マーベラス!』
民放レポーターの甲高い叫び声が響き渡った。備え付けの大型テレビの画面には、米国のマーベラス選手の姿が大きく映し出されていた。
この年の8月、世界的な総合スポーツ大会であるオリンピックが、インドネシアでは初となる首都ジャカルタで開催されていた。世界各国から集められた選りすぐりの選手たちが見せる超人的なパフォーマンスは、世界中に巨大な興奮の渦を巻き起こし、多くの人々の関心を飲み込んでいる。
テレビ画面では、メインスタジアムにひしめく5万人の観客が、嬉々とした笑顔で拍手と声援を送っていた。ジャカルタ・オリンピックは今まさに、マーベラス・ジョンソンという米国選手の登場によって、最高潮の盛り上がりを見せていた。
ズ、ズズ、ズズ……
名瀬義男(35歳)は、少しだけ冷房が効き過ぎている大衆食堂の隅の方で一人、きつねうどんをすすっていた。
なんとなく目立ちそうなのが嫌で、テレビに背中を向けてはいなかったが、ジャカルタオリンピックの熱気と興奮は、名瀬を素通りしていた。
『マーベラス選手が星条旗を身に纏い、右手を高く上げながらトラックをゆっくりと走り始めました。ウイニングランです! うわあ! 満場の観客が総立ちです! おおっと! 一部の観客がトラックの中に流れ込んでいるようです。他の選手たちも競技を中断してマーベラスの周りに集まっています! 拍手と声援も入り乱れて、まるで歓喜の嵐です!』
「おお、すげえ!」
「すごいよねー、マーベラスって。一人で幾つも、しかもこんな大舞台で新記録を出しちゃうんですもの。最近見たテレビの特番で陸上の専門家みたいな人が言ってたんだけど、マーベラスは少なくとも10年、もしかすると100年に一人の逸材だって」
「100年に一人!? ハハ、ほんとに人間かよ、あいつは!」
食堂内のあちこちで歓喜の声が上がっていたが、名瀬の耳にはほとんど入っていない。世界中が注目するオリンピック選手の活躍も、名瀬にとってはある種の雑音に過ぎなかった。テレビの方に顔を向けながらも、名瀬の目はぼんやりとしていて、時折はっとしたようにうどんを口に運んでいた。
名瀬は、特許庁で審査官をしている。今居る食堂は、普段からよく利用している大衆食堂で、庁舎から5分ほど歩いた所にあった。
「ふう……」
きつねうどん。真夏の今、なぜそれを選んだのかと、食べながら名瀬はふと我に返った。ぼーっとして食堂に入ってきた名瀬は、注文を聞かれて反射的に好物を言ったに過ぎなかった。
名瀬には子供が一人いる。現在小学3年生、名前はトキオという。名瀬は、今朝のトキオのことを何度も思い返していた。
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