とある迷宮街の転生者

ghostwhisper

第1話 黎明


 激痛は一瞬だった。


 深い水の底に沈んでいくような感覚を覚えたが、五感はすぐになくなり、時間の経過のわからない闇の底で、感覚の消失とともに、それに紐付いた記憶が消えていく。

 それを自覚している男は、けれども冷静だった。もとより大した記憶もなかった。人生の半分を寝たきりで過ごしていたのだから。


 何も出来ない、何も感じないことは、常人を狂わせるに充分だったが、男にとっては死ぬ前から慣れ親しんだ感覚だった。



 長い長い時間、それとも一瞬なのかよくわからない、永遠ともいえる時間が過ぎる。

 男は有り余る時間をゆっくりした思考を繰り返すことで潰した。




 生前、寝たきりになった後、男はネットで見た知識を使って、思考実験をするのが好きだった。よりリアリティを求めて科学知識もたくさん取り込んだが、ネットや書籍で仕入れた知識であるが故と、実践出来ないせいで、それがどれだけ実用性があるのかはわからなかった。

 それでも思考の中で遊ぶのには充分だった。その知識を実社会で生かす機会など、どのみちなかったのだから。




 やがて、ほろほろと記憶が削ぎ落とされ、自分の名前も思い出せなくなった頃、ふと、手足の感覚があることに気づいた。だが、それは生前持っていたものと、何か違う気がした。


 注意深く探ってみると、何か今まで持っていなかった臓器があるような、別の神経網が張り巡らされているような、むず痒い感覚であった。だがそれも、生前の五感の記憶がほとんど消えていたせいで、違和感は徐々に消えていく。


 それよりも男はその新しい感覚に夢中になった。寝たきりの時には失ってしまった、五感のクリアなフィードバック。身体が思うように動く感覚を、男は喜んだ。

 有り余る時間を、自分自身の中を探ることに使う。身体の感覚をゼロから学び直すことになったが、それさえも男は楽しんだ。


 しばらくして、男は自分の身体がとても小さいことに気がついた。


 手足や最低限の臓器はあるようだが、身体の中を探るにつれ、それがだんだんと大きくなり、複雑に機能し始めるのを感じた。そしてそれを探ったり、動かしているうちに、知覚する範囲や詳細さが増えていくのを感じた。


 男は認識していなかったが、その身体は胎児であり、男の意思によって脳や神経網を繰り返し使用することで、より強靭な、より精度の高い器官を身体が欲し、それが呼び水となり、常人よりも遥かに優れた機能を獲得していった。


 言うなれば、設計段階の建物に必要な機能を追加していくようなものであり、成長過程で獲得出来る身体の機能より、より大きな変更が肉体に施されていった。


 特に影響を受けたのが、魔力器官である。


 魔力を生成、吸収、貯蔵するこの器官は、魔法という事象に大きく関わるが由に、人の意思の影響を受け変質する。

 男の身体は、本来なら意思の希薄な胎児にあるはずのない、体組織の生成時における意思の介入という事象が起こり、通常では考えられないほど、大きく変容してしまう。

 だが、それを自覚するのは、生まれてからになるだろう。


 ついに、胎児としての肉体は、臨月を迎えた。男は外の世界への期待を胸に、母胎の生理現象に従って生まれ出る。



――――



 私といえばいいのだろうか、俺といえばいいのだろうか。前世の記憶を漂白された意識は、ただ合理的な思考で動く。

 物事の善悪や正邪は遠くから眺めているような感覚だった。価値観はリセットされ、日々生きるあいだに獲得することになるだろう。


 ともあれ、生まれてすぐにした事は、意外かも知れないが平凡なことだった。


 つまり泣いたのだ。


 今まで動かしていなかった肺は、産まれた時にその機能を試運転し始める。

 泣くことは、呼吸するための大事な切っ掛けだった。ただ、めいいっぱい空気を吸うたびに、通り道にある声帯が震える。それが泣き声になる。

 肺から取り込んだ新しい酸素が、血液に劇的な力を与えた。臍の緒から取り込むものと比べ物にならないエネルギーが、脳を活性化していく。

 今までの思考が笑えるほど限定的だったことを認識する。


 知覚は外へ外へと広がり、その詳細をも深く把握していく。それは今いる部屋を超え、家をすっぽりと覆う範囲までに到達した。そして、その中にある無機物、生物のかたちを把握し、その中身の情報までを取り込んでいく。

 それは目も耳も鼻も使わないのに離れたところの出来事が分かる、不思議な知覚だった。


 家の中にいる人物は五人、同じ部屋にいる若い母、中年の女と老婆、そしてとなりの部屋の青年、幼女である。中年と老婆は恐らく産婆であろう。後産の処理をしている。青年は父親か、歳の離れた兄かもしれない。まあ、おいおいそれは分かるだろう。



 肺の使い方はすぐに覚えて、徐々に泣き声は抑えることが出来るようになった。肉体の操作は、胎児のときにコツを掴んでいたから、お手の物だった。


 老婆が覗き込む気配がする。目蓋は動くが、薄目を開けたらかなり眩しかったので、しばらくつむっておくことにした。

 どちらにしろ、不思議な知覚により、人の動きは把握できる。


「おやおや、大人しい子供だ。もう泣き止んだよ」


 健やかな呼吸と顔色を確認して、老婆は安堵のため息をついた。生まれた時に死んでしまう子供もいるから、それを心配したのだろう。

 俺は持ち上げられ、母親の元に連れていかれる。そのまま初乳を飲ませられると、不思議な安心感とともに眠りについた。



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