深園ゆゆは人魚じゃない

七川こよみ

深園ゆゆは人魚じゃない

 うちの学校の水泳部は弱小だ。部員数は少ないし、友達曰く顧問の先生は未経験者だし、練習も週に二回しかなくて、夏の大会では毎年、予選敗退。そもそもタイムが遅すぎて失格にすらなっちゃうっていう、そんな有様らしい。

 あたしはグラウンドの端っこに並んでいる桜の、今は青々とした葉を茂らせるばかりの木の影を歩きながら、そんな水泳部が活動に使っている屋外プールへ向かっていた。

 直射日光は避けていても、もともとの気温が高いせいで額には次々と汗が浮かんでくる。きりのないそれを腕でぬぐいながら、あたしは手に持った手紙が汗で湿ってしまわないように、慎重に指先で掴み直した。


――頼む、まつり!


 そう言ってあたしにこの手紙を押し付けてきたのは、幼馴染のソウマだった。真っ白でこぢんまりとした封筒。宛先も、差出人もない。

 グラウンドでキャッチボールをしている野球部の中に、そのソウマの姿があった。遠くの方からこちらに視線を注いでいる。よっぽどこの手紙の行く末が気になるらしい。あたしがソウマに向かって手を振ると、ソウマも軽く振り返してきた。

 プールの入り口へと続く階段まで辿り着いて、ちょっとためらう。観念して日陰から出ると、じりじりと痛いぐらいの日差しが降り注いできて、じわぁ、とさらに汗が噴き出た。

 石の階段を上っていく。目の前が熱気で揺らいでいる。一学期の終業式を終えて、本来ならば誰もいないはずのプールの入り口は、開いていた。錆びついて塗装の剥げているモスグリーンのフェンスをくぐると、濃い塩素の匂いがツンと鼻を突いた。


深園ふかぞのゆゆーっ!」


 日差しで焦げ付きそうなプールサイドに立って、叫んだ。

 深園ゆゆ。

 水泳部の一年生で、あたしのクラスメイト。

 無口で近寄りがたくて、弱小水泳部のくせに毎日ひとりだけ自主練をしてるっていう、変な子。

 でも、美人。


「いないのーっ?」


 あたしは声を張り上げて尋ねた。見渡してみても、誰もいない。プールサイドにはもちろん、泳いでいる姿もなければ、水中に人がいる気配もない。あまり綺麗とはいえない水面を眺めながら、それでもいずれ浮上してくる姿がないかと、しばらく待った。

 ミンミンミンミン……。

 蝉の声がうるさい。

 更衣室か、それともトイレにでも行っているのか。フェンスが開いていたし、いないってことはないだろう。深園ゆゆの押しに負けて、顧問の笹山先生が自由にプールを使っていいっていう許可を出したのは、一年生の間では有名な話だ。もちろん、学校が開いている時間に限って、だけれど。

 あたしは退屈になってプールの周りを歩いた。ふちのぎりぎりのところを歩きながら、さざ波ひとつ立たない水面を見つめる。風がなかった。空気はどんどん熱くなっていくのに捌け口がなくて、段々と息苦しくなってくる。

 ふと、急に蝉の声が途絶えた。

 静まり返って、完全な無音になる。

 その違和感に気を取られたあたしは、ふいに足を滑らせた。タイルの一部分だけなぜか濡れていて、そこを踏んでしまい、あっと思ったときには体が空中に投げ出されていた。

 呆然としているうちに、着水する。咄嗟に出した手のひらは水に絡め取られて、そのままどんどん体ごと、沈んでいく……。

 慌てて顔を出そうとしたけれど、上手くいかなかった。制服が鉛のように重たく体に巻き付いて、もがけばもがくほど、落ちていく。浮上できないことを悟ったあたしは一瞬にしてパニックに陥った。体が寒い。口からあぶくとなって酸素が消えていく。体は落ちて、落ちて、落ちていく。

 あたし、死ぬの?

 友達のラブレターを届けに来て、足を滑らせて、学校のプールで?

 ああ、そういえば手紙、どこに行ったんだろう。

 冷静になってそんなことを考え始めるあたしの腕を、誰かが掴んだ。そして何がなんだかわからないまま、水面まで引き上げられた。

 顔を出してすぐ、あたしは飲み込んだ水を吐き出すのと呼吸するのを一緒くたに行ってしまい、盛大にむせた。目玉がひっくり返るんじゃないかって思うぐらいせき込んで、苦しくて、喉からはひゅうひゅうと過呼吸を起こした人みたいな音が鳴っていた。


九重ここのえまつり!」


 自分のことだけで精一杯だったあたしの名前を叫んで、プールサイドに導こうと引きずる姿があった。

 セミロングの真っ黒な髪がつやつやと光を反射している。メーカーのロゴが入っている、紺色の部活用の水着を身に纏っていて、そこから伸びているむき出しの肩や手足が抜けるように白かった。切れ長の瞳はまるで深海のように青く、跳ね回った水の飛沫が彼女の周りにきらきらと飛び散って……そいつは、深園ゆゆだった。

 深園ゆゆは変な子だって、みんな言ってる。

 ううん、ちがう、変な子なんかじゃない。

 深園ゆゆは、人魚だ。





「それで、俺の手紙は?」


 夏休みに入って、一週間。期末テストでばっちり赤点を取ったあたしとソウマは、補習が終わったあとも教室に残っていた。ソウマみたいに午後から部活動の練習に参加する生徒のために、教室が解放してあるのだ。あたしの机に肘を置いて、椅子に横向きに座っているソウマは、むっとした顔で弁当をつついている。


「それがさぁ……どっか行った」

「は。まじで?」

「ちょう、まじ。そのあと、けっこう探したんだけど、見つからなくて」

「てことは、それって……」


 箸を持ち上げたまま硬直したソウマの顔が、どんどん青ざめていく。


「誰かに拾われたってこと!?」


 ご飯粒を飛ばしかねない勢いで叫ぶ。すでに教室の中にはあたしたちしかいないので白い目を向けられることはなかったけれど、うるさくて耳がキーンとした。わざとしかめっ面をしてみせて、あたしは首を振る。


「そこまではわかんないよ。プールの外側ってさ、道路になってるでしょ? そっちに行ったかもしんないし、その先の川まで飛んでいったのかも……」

「あのなぁ、まつり、そもそもお前のせいだからな。他人事みたいな顔してるけど」

「そんなこと言うなら自分で渡しなよ!」


 開け放たれた窓から風が吹き込んで、日焼けして色のくすんだカーテンがばさばさとひるがえった。あたしに痛いところを突かれたらしいソウマはばつの悪そうな顔をして、無言で弁当の続きを食べ始めた。


「ソウマさ……なに書いたの? あのラブレター。そんなに変なこと書いたの?」

「んなわけあるか」


 弁当箱をリュックサックに仕舞いながら、ソウマがあたしをちらりと見た。


「普通に……連絡先だよ、俺の」


 そう言って大げさにため息をつくので、だから自分で渡せばよかったじゃん、とあたしが再び噛みつくと、ソウマは荷物をまとめて逃げるように立ち上がった。そして教室から出ていきながら、


「じゃ、俺、部活行くから。鍵閉めよろしくな、まつり」


 と言って、去っていった。いや、やっぱり、逃げたんだ。

 あたしは窓を閉めて、教卓の上に置いてあった鍵で教室の戸締りを済ませると、職員室へ鍵を返しにいった。各教室の鍵を吊るすようになっている壁掛けボードを見ると、プール、と書かれたところに鍵がなかった。

 ソウマには言わなかったことが二つある。一つは、あたしが深園ゆゆに助けられたときに、彼女を人魚だと思ったこと。二つ目はその後、彼女に「もうプールには近寄るな」と言われたことだ。

 あたしは廊下に出て、目を閉じた。クーラーのかかっている職員室とは真逆の、蒸し暑くて停滞した空気に包まれる。まぶたの裏に深園ゆゆの、あの美しい黒髪や、深い海の色をした瞳が浮かんだ。忘れられない……。

 あたしは決心して目を開くと、プールを目指して歩き出した。





 ほんのわずかに出来ているフェンスの隙間を押し開けて、中に入った。グラウンドからは運動部の掛け声や笛の音がどこか遠くの出来事みたいに響いてきて、その反対側、道路に面している方からは時おり車が空を切っては走り抜けていく音が聞こえていた。そしてそれらを上から彩るようにミンミンミンミン……、蝉の鳴き声。

 深園ゆゆはプールサイドに腰かけていた。ちょうどあたしに背を向ける格好だ。濡れた髪がしっとりと垂れて、独立した生き物のようにさえ見える。


「深園さん」


 あたしが背後から話しかけると、深園ゆゆは肩をびくっと跳ねさせて振り返った。

 線の細い顔立ち。薄い唇。まさに大人しい美人って感じの顔を、深園ゆゆはわかりやすく歪ませた。明らかに歓迎されていないことがわかって気後れしそうになるけれど、威圧感に負けている場合じゃない。あたしは深園ゆゆの隣にしゃがみ込んで、話しかけた。


「この前はありがとう、深園さん。その……ゆゆって呼んでもいい?」

「……」

「ゆゆ。何かお礼をしたいんだけど、一緒にご飯とか、行かない?」

「行かない」


 ゆゆは一蹴するとプールの方を向き直った。葉っぱやよくわからないごみがぷかぷかと浮いていて、あんまり衛生的じゃなさそうだった。


「もう近寄るなって、言った」

「うん。聞いた。でも、二学期が始まったらさ、またプールの授業もあるじゃん。だから近寄らないとか、無理だよ」

「わたしに近寄るなって言ったの!」


 ぎゃんと吠えられて、あたしはさすがにちょっと臆した。彼女の、こんなふうに感情を露わにした姿は、教室でも見かけたことがない。あたしは黙り込んだ。そよ風にプールの水面がのたうって、照りつける日差しで頬が痛かった。

 水着から伸びている、真っ白な肩を強張らせながら、ゆゆがこちらを振り向いた。


「もう、帰ってよ」

「……あの、あたしは……」


 まっすぐで容赦のない拒絶に、あたしの心はみるみるうちに萎んでいった。情けないへろへろな声で、弁明する。


「仲良くなりたいだけなの。ゆゆと……」


 ゆゆが目を見開いた。あたしはそのとき、あ、ゆゆって垂れ目なんだ、って気が付いた。切れ長の瞳は縦にも大きくて、きれいに生えそろったまつげが美しかった。


「九重まつりって」

「まつり、でいいよ。まつりって呼んで」

「九重まつりは、わたしのことが好きなんでしょ」

「えっ」

「ちがうの?」

「いや……」


 ゆゆって、エスパーなの? 人魚でしかも、エスパー?

 そう、あたしはゆゆのことが好きだ。あの日、ゆゆに溺れそうなところを助けてもらったときに、うっかり恋に落ちてしまった。

 ゆゆがあたしのことを見つめている。目が合う。視線がずるりと音でも立てそうなほど苛烈に、絡む。その瞳の奥に深い青が見える。あたしはこの瞳に、魅入られてしまったんだ。息を呑むと、ゴクッと喉が鳴った。あたしは深呼吸をして、心臓の鼓動を落ち着かせてから、言った。


「うん、好きだよ、ゆゆのこと。助けてもらったときに、惚れたの」


 ゆゆはあたしの目を覗き込んだまま、しばらく口を開かなかった。

 カキン、と小気味のいいノックの音がグラウンドを通して響いてくる。


「だめだよ」


 永遠にも思える時間が流れた後、ゆゆがうつむいて言った。あたしは思わず膝をついてゆゆに詰め寄った。手を取ると、その手は恐ろしいほどに冷たかった。こんなにも暑いのに、冬みたいに冷え切っている。タイルにこすれてスカートのプリーツが乱れるのも構わず、あたしは身を乗り出した。


「だめって、どうして? 女の子同士だから? そんなの関係ないよ。あたし、ゆゆのことが好きなの。きれいで、まるで人魚みたいで、大好き……。ゆゆ、あたしと付き合って」

「だめ。だめだよ、九重まつり」

「大事にするよ、ゆゆのこと。ねぇ、お願い……」


 ゆゆが上目遣いでこちらを見上げた。明らかに困った表情をして、戸惑っている。初めの頃のような拒絶はすでに薄れていて、このまま押せば行けるんじゃないかって思っていると、ゆゆは小さな声で、帰って、と言った。


「帰って。九重まつり。もう、わたしに話しかけないで……」


 何とか距離を縮めたいって思う気持ちと、嫌われたくない気持ちが入り混じって、あたしはゆゆの手を離した。

 諦めて立ち去ろうとしたとき、なぜだかまた足元が濡れていて、あたしは足を滑らせた。滑らせたっていうより、まるで引きずり込まれるように一直線に、プールの中に落下していって……。


「九重まつり!」


 落ちる瞬間、ゆゆが激しく取り乱した顔をしているのが目に入った。伸ばしたあたしの腕をゆゆが反射的に掴んでくれて、けれど勢いは止めきれずに、あたしたちはそのまま一緒にプールの中へ沈み込んだ。

 生ぬるい水面を突き破って、ひんやりとした水中に身が投げ出される。あたしがもがく前にゆゆが手を引いてくれて、前回とは比べものにならないほどすんなりと浮上した。顔を出す瞬間、まばゆい太陽が降り注いでいる水面がきらきらっと光って、あたしを振り返った光の中にあるゆゆの顔はやっぱり何もかもを凌駕するほどに美しく、人魚の様相をしていた。

 ゆゆと一緒にプールの中に浮かびながら、また制服をびしょびしょにしたことをお母さんに怒られるだろうなあと思うと、急に笑いがこみ上げてきた。


「ふふっ……あはははは!」

「こ、九重まつり……?」


 笑い出したあたしにゆゆはちょっと引いていた。あたしはぷかぷかと葉っぱたちと共にプールに仰向けになって浮かぶと、瞳を貫いてくる日光に目を細めた。あたしの染めた、明るい茶髪が糸みたいになって耳や首なんかに絡みついてくる。


「あたし、また、ゆゆに助けてもらっちゃった」

「九重まつり」

「ありがとう、ゆゆ。ごめんね、なんでだろ、あたし、いつからこんなにドジに……」

「九重まつり」

「ねぇ、まつり、って呼んでよ。ゆゆ。呼び捨てでいいよ」

「九重まつりっ!」


 ゆゆのなぜだかひどく切実そうな呼びかけに、あたしは浮かぶのをやめた。ゆゆはあたしの腕を掴むとプールサイドまで引っ張って行って、あたしを水の中から引きずり上げた。ぺたん、と太陽に焼かれて熱いはずのタイルの上にへたり込んで、ゆゆがあたしの体をぎゅうっと抱きしめた。唐突だった。


「ゆゆ……? どうしたの?」

「九重まつりぃ……」


 ゆゆは弱弱しい、しょぼくれた声であたしの名前を呼んだ。ゆゆの体は細くて、腕もひょろひょろで、だけど抱きしめられるとやわらかかった。水気を含んだ水着の独特の感触が、夏服の薄い生地を通して伝わってくる。抱き返して、急に落ち込んでしまったゆゆを慰めながら、あたしは途方に暮れた。

 深園ゆゆは人魚で、エスパーで、不思議な子。何を考えてるかぜんぜんわかんない。好きなのに理解できなくて、どうすればいいか想像もつかなくて、それなのに密着していることで心臓は早鐘を打つから、体と頭がちぐはぐだった。


「もう、来ちゃだめだよ」


 ゆゆがうめくように言った。それからあたしの肩口に顔をうずめて、


「良い匂いがするね、九重まつり……」


 とささやいた。





 夏休みの、補習期間の最終日。

 あたしはここのところ毎日プールに通っていた。午前中は水泳部の朝練があるらしいけれど、補習が終わってあたしが足を運ぶ頃には、ゆゆしか残っていなかった。

 いつものように細く開いたフェンスを押しながら、あたしは空を見上げた。真っ黒でぶ厚い雲が垂れ込めて、辺りが昼間とは思えないほどに、暗い。日差しが遮られているから直接的な暑さは感じないものの、そのぶん湿気が物凄くて、体の内側に熱がこもってむしむしとしていた。遠くから、雨の気配がしている。


――もう、来ちゃだめだよ。


 ゆゆのその言葉をあたしは守らなかった。ゆゆは初めこそちょっと怒ってみせたけど、あたしが譲らないとわかると諦めたようだった。

 静かだった。天気が悪いからだろうか、今日は蝉も鳴いていない。あたしはフェンスの側に備え付けられた見学用のベンチに座って、泳ぐことに夢中でこっちに気が付いていないゆゆを、ぼうっと眺めた。

 彼女が泳ぐと、薄汚れた学校のプールはまるで牢獄のようだった。

 眠気にうつらうつらとしながら、ゆゆのことを考えた。人間離れした、特別な女の子。あたしの、人魚。彼女に恋をしてから、二週間が過ぎていた。

 ちゃぷん。

 すぐそばで、水音がした。

 あたしはゆゆがやってきたのかと思って目を開けた。

 けれど、そこにはいたのはゆゆではなかった。

 いや、人間とすらも形容できない、ぐにゃぐにゃとしたどす黒い液体の集合体みたいなものが、ぼんやりと人影のようなものを形成して、そこにあった。


「えっ?」


 なに、これ?

 あまりのリアリティの無さに頭が回らない。口の中が急速に乾いていく感覚だけが、はっきりとあった。

 呆然としているあたしに向かって、その得体の知れないものが一本、触手を伸ばしてきた。ぬるり、と腕を撫でてくる。鳥肌が一斉に羽化するけれど、体は硬直して動かない。触手が手首に巻き付いて、あたしの体を引きずろうとした。


「九重まつり!」


 そのとき、ゆゆが視界の外から走ってきて、あたしの手首をひったくるように掴んだ。そこでようやく硬直が解けて、あたしは触手を振り払うとつんのめりながらゆゆの後を追いかけた。それを皮切りにしたように、ざあっと激しく雨が降り出した。あたしとゆゆは全速力で走り、プールの更衣室に駆け込んで、鍵を閉めた。


「な、なにあれ、ゆゆ……?」


 あたしたちは手を繋いだままよろよろと更衣室の奥まで進んで、どん、とロッカーにぶつかった。深園、と記されたマグネットが張り付けられている。


「あれは人ならざるものだよ、九重まつり」

「人ならざるもの?」

「そう。人ならざるものは、この世にたくさんいるの」

「何を言ってるの、ゆゆ……?」


 慌てていたせいで照明もつけていない薄暗い更衣室の中、打ち付ける雨の音はますます強くなっていった。お互いにしか聞こえない声量でささやき合いながら、あたしたちはひっそりと身を寄せ合った。


「九重まつり。おかしいとは思わなかった?」


 ゆゆがじっとあたしの目を見つめて言った。並んで立つと、ゆゆの方が背が高かった。


「おかしいって、なにが」

「二回も足を滑らせて、プールへ落ちたこと。そのとき、プールに足がつかなかったこと」


 言われてみれば、そうだ。

 あれだけよく晴れて、打ち水もカラカラに乾いちゃいそうな日に、不自然に一か所だけ濡れていたタイル。どれだけもがいても足の先すら掠めず、沈み続けた体。ゆゆの言ったとおり、そもそも学校のプールがあんなにも深いわけがないのだ。

 あたしは……。

 あたしはその瞬間、気付いてしまった。

 深園ゆゆ。水泳部の一年生で、あたしのクラスメイト。無口で近寄りがたくて、弱小水泳部のくせに毎日ひとりだけ自主練をしてるっていう、変な子。

 毎日自主練をしてるっていうのに、ゆゆの、暗闇の中でも穢れを知らないように白い、肌……。

 もしゆゆが丹念に日焼け止めを塗っていたとしても、あれほどまでに日に焼けないっていうのは、おかしい。


「九重まつりは、良い匂いがする……だから、引き寄せられてくるの」


 地を揺さぶるようなあまりにも激しい雨の音に、あたしは自分が未知の領域にどんどん押し流されていくような気がして、拠り所を求めてぐったりとロッカーにもたれかかった。

 滔々と語るゆゆの言葉を遮って、あたしはうめいた。


「それで、ゆゆは……何者なの?」


 ゆゆが口がつぐむ。


「深園ゆゆ。何言ってるか、ぜんぜんわかんないよ。あなたは結局、何者なの? 人魚? エスパー? それとも、あたしと同じ、普通の女の子?」


 そのとき、頬にひたり、と嫌な気配が触れた。あたしは弾かれたように振り向いた。

 鍵を閉めたはずの更衣室の内側に、それが立っていた。

 どす黒い液体の、形の定まらない集合体。人間を模しているかと思えば頭の部分が砕けて、胴体が膨らみ、また萎むことを繰り返している。ゆゆ曰く、人ならざるもの。もちろん、あんなものが人であるはずがない。


「わたしは……わたし、は……わた、わ、わたたたた、し」


 ゆゆの体がガタガタと震え出した。あたしの体だって恐怖とか混乱とか焦燥とか理解不能な気持ちで震えていたけれど、ゆゆのそれは尋常ではなかった。あたしがぎょっとしてゆゆを見ると、ゆゆもあたしを見ていた。


「わたし……わたしもね、九重まつり……あっち側、なの」

「え?」

、なの」


 ふいにミチッ、ミチッ……と嫌な音がした。肉が引き攣れるような、およそ人体から発されていいものではない音が、ゆゆの体から鳴り始めた。


「う、ううう、うう……!」


 ゆゆが苦しそうに体をくの字に折った瞬間、その背中から水着を突き破って、何かが生えてきた。背骨に沿って、鋭利に尖った魚のヒレのようなものがいくつも突き出している。鉄の、明らかな血の臭いがした。水着が真っ黒に染まり、ゆゆのふくらはぎを血液が伝い落ちている。そのヒレは本当に、ゆゆの皮膚を裂き、傷つけ、突き破って出てきたようだった。

 ゆゆが体を折ったまま、あたしを見上げた。額には脂汗が浮かび、唇の片側が不自然にめくり上がり、恐ろしく光る牙が覗いていた。美しかった瞳の青さは失われ――底の見えない井戸を思わせる、果てしのない暗さが宿っていた。


「見ないで、九重まつり」


 消え入りそうな声でゆゆが言った。そして人ならざるものを振り返ると、吠えた。それは獣の咆哮だった。途端に人ならざるものの姿が揺らぎ、うろたえたように後退すると、蒸発した。あたしは何度も瞬きをして、呆然と目を凝らした。人ならざるものはゆゆの咆哮ひとつで、あっさり消えてしまった。

 あっち側なの、というゆゆのささやきが脳裏によみがえって、あたしの喉は塞がれたようになんの言葉も発せなくなってしまった。

 言いたいことも、聞きたいこともたくさんあった。血、出てるよ、痛くないの……そう言いたかった。

 体を竦ませるあたしの方を見て、ゆゆが涙目で言った。


「嫌いにならないで、九重まつり……」


 目が黒々と嫌な輝き方をして、変に膨れ上がった口元から牙を覗かせるゆゆの姿は、もう人魚じゃなかった。あたしは何とか声を絞り出して、尋ねた。


「ゆゆ……あたしがゆゆのことを好きだってわかったのは、どうして?」


 意気消沈した様子のゆゆが、手紙、とぽつりとつぶやいた。こちらに向かって歩いてきたので、あたしは思わず逃げて、場所を空けた。ゆゆがさらに傷ついた顔をする。


「九重まつりの持ってた、手紙。あれを読んだから」


 さっきまであたしが塞いでいたロッカーを、ゆゆが開いた。そしてあたしに向けて、中に入っていたらしい手紙を差し出した。すっかり無くしたと思っていた、ソウマが書いたラブレターだ。あたしは便箋を取り出して眺めた。


――深園さんへ。あなたのことが好きです。よかったら連絡ください。XXX-……


 差出人のない手紙。一度濡れてしまったのか、三分の一ほどがふやけてしわくちゃになっている。本来なら電話番号が書かれていたであろうところが滲んで、読み取れなくなっていた。


「わたし、知られたくなかったの、人間じゃないって。こんな醜い姿をしてるって。だから九重まつりのこと、遠ざけようとして、でもできなかった。九重まつりはわたしのこと、好きだって言って、くれて……」


 ゆゆはあの手紙をあたしからだと勘違いしたのだろう。ゆゆは、エスパーでもなかったのだ。

 いつの間にか雨音がやんでいた。更衣室の、天井近くにぽつんとある格子の嵌まった小さな窓から、まぶしいほどに晴れ渡っている青空が見えた。光が格子に分断されて、いくつもの筋になって足元に伸びてくる。


「九重まつりぃ……」


 ゆゆが救いを求めるように、あたしの名前を呼んだ。

 人ならざるもの、なのにあたしに嫌われたくなくて震えているゆゆは、普通の女の子と同じように思えた。あたしはどうすればいいかわからなくなって、恐る恐る歩み寄った。


「まつり、って呼んでよ、ゆゆ……」


 慰めたくて、その肩をそっと抱き寄せた。細くて頼りない肩だった。

 ゆゆがあたしに体重を預けた。軽い、体。あたしたちがそんなふうに身を寄せ合って震えていると、ミンミンミンミン……、と蝉が鳴き出した。それはまるで正常な世界への調べのように、あたしたちを包み込んで、いつまでもやまずに、響き続けた。

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