一つきりの幸福

@rabbit090

第1話

 ただその時を待ち望んでいた。

 きっと出来るはず、そう思い込んでいた。だからきっと君は泣いてしまったんだろうか、ふとそんなことをこの何もない海のそばで回顧する。

 「思い出したよ。さっきアタシのこと見つめていたの、隣のクラスの三和みわ君だよ。」嬉しそうな表情で話しかけてくるのは私の意中の人、緑小雪みどりこゆき

 「良かったな、お前三和君のこと好きって言ってただろ?」そう心を少しちくりとさせながら呟く。本当は私はお前のことが好きなのに、そう思いながら。

 「…うん。」そして緑は恥ずかしそうに顔を赤らめながらうなずく。

 正直、この顔を占領してやりたかった。私のものにしてしまいたかったんだ。

 でも。

 「じゃあ、私は三和君とは顔見知りだから、お前と話ができるようにセッティングしてやろうか。」なんて心の思いとは真逆のことを口から吐き出す。

 そしたら緑は、「え…、うん。うれしい、ありがとう。」そう言うのだ。

 緑は女の集団の中には溶け込むことができない。なぜならやり方が分からないから、そうあいつは言っていた。

 「アタシ、女の子とは上手く話せない。理由は分からないの。どうやってもうまくできない。」

 それが本心で、このセリフを呟く時の顔がひどく不安げで抱きしめたくなるような心地を抱いてしまったので、もう私はあいつを、緑小雪を見捨てるという選択肢は選べない。

 そっとなでるような初々ういういしい記憶に包まれながら、私はココアをこの海辺のベンチで嗜む。とても幸福感に包まれていて、だから私はずっとこの思い出に浸り続けていたいんだろう、そんなことも思ってしまうのだ。

 私は緑小雪を救うことはできなかった。

 あいつはもう助かることは無く、ずっと沈んだままで浮かんでは来ない。嫌に悲しくて、でもこのじりじりとした感覚は現実でしか体感できない痛みなのだと思う。

 ……緑小雪は、目覚めない。

 もうあいつは目を覚ましてこの世界で笑うことはできないんだ。そう思うとやっぱりいつものように滲んでくるのだ、熱い涙が。

 「ねえ、三和君ってどんな人なのかな。アタシの目にはすごく理知的で寡黙でかっこいいって映るんだけど。」そう言いながら私の近くに寄ってきて語りかけてくる。緑は会話を交わせる人が私しかいないのだ。だから、「お前、他に話せる人いないのかよ。私は男だから、そんな恋みたいな相談は同性のやつらとしてくれよ。」と言う。私はまた心にチクりと刺す嫌気を感じながら、でも同姓と慣れ合うことのできない緑を馬鹿にしてはいけないのに、追い詰めるようなことを言ってはいけないのに、ただ醜い嫉妬に任せて言葉を吐き出してしまう。

 「アタシ、話せる人なんかいないもん。しょうがないじゃん。」そう言いながら少し顔を歪ませ、でも笑顔を取り繕いながら少しすねる。

 ああ、また傷つけてしまった。

 自分の醜い本性にほとほとあきれてしまうのはいつものことなのに、グサグサと胸を穿つような苦しみを感じてしまうのだ。

 ごめん。緑、ごめん。

 そして三和君は、三和彰隆みわあきたか君は非常に繊細な男である。私は実は昔から彼とは顔見知りであり、幼いころの様子ももちろん知っている。

 緑は全く知らないのだろうが、私もだから絶対に口にはしたくないのだが、これは緑を傷つける繊細で非道な現実だから、黙っていよう。

 私はそう自分に言い聞かせながら、心の中に事実を押し込む。

 「緑!」

 帰り道の海沿いで、私は緑に向かって声をかける。

 緑はいつも一人で海の側に佇み、それを眺めている。海を眺めている。

 「何よ、何でいつも通りかかるのよ。」緑はそう言うが、もちろん私は緑に出会いたいからだ、だけどそんな本音は心の中にしまっておくに限る。

 だって、私の緑に対する好意はバレてはいけないものなのだから。

 緑は―

 「お兄ちゃん、もう!」可愛く頬を緩ませ私に近づいてくる。全てが、その全部が私を揺るがす、心を震わせるのだ。

 妹。一緒には住んでいない妹。血のつながらない妹。

 複雑すぎて私には説明ができない、というかしたくない醜い現実。

 私たちの父と母は互いに不倫をし子供を設け、結局兄弟としてしばらく過ごした後、やはり離婚という選択に至り今の状況に帰結する。

 私と緑は、何なのだろう。

 もしかしたら友達以上家族未満、というやつででもそんな言葉見聞きしたことなどないのだが…。だけど決定的に違うことは、私ははっきりと緑に好意を抱いているということだけだ。

 悟られてはいけない、決して悟られてはいけない。緑は、兄弟なのだから。間違っても好きになどなってはいけない存在なのだから。

 いま世界は非常に不穏な状況を迎えている。

 それは私たちの生活にも直結しているし、だから常に何かを警戒しながら生きていかなくてはいけないのだ。

 何が幸せか、本当はそんなことを悠長に考える暇などこの世界には無いのだから。だけど私は、そんな殺伐とした世界だからこそ、心のともしびのような存在を求めているのかもしれない。私はふとそのことに気付くと、自分というのは何て弱い生物なのだろうか、と落ち込んでしまうのだ。

 「戦火はすぐそこまで来ているらしいよ。」

 友人の智仁ともひとが言うには、私たちの過ごすこの街はもうすぐ隣所の戦火に巻き込まれるかもしれないということらしい。最早どこへ行っても戦のにおいから逃れることはできず、だがその底知れぬ拭いようのない恐怖を誤魔化すためにみな、妙に活気だって妙に慣れ合っている様子がうかがえる。

 非道なこの現実をもたらしたのは何者なのだろう。

 私は微妙な家族関係のことですら頭はいっぱいだっていうのに、そんなことすら考える余裕がない程世界は荒んでいる。

 何とか、ならないのだろうか。

 せめて、緑が死ぬまで、平穏でいてくれないのか、と。

 「緑、また具合が悪いんだってな。昔からの持病だもんな。いつまで体がもつか、そう言う状況なんだろう?」

 智仁は何気ない世間話として、でも人のいい奴だから緑を気遣って私を気遣って、本当は智仁も家のことで人が亡くなったりと大変なことにめぐっているのに、こいつはいつも声をかけてくれるのだ。

 私は、だからそんな声をかけるという些細なことを実践できるようになりたい。

 それで誰かの幸せを紡いであげたい、それが私の幸せなのかもしれない。過酷な状況だからこそ、そんな道徳的なことをよく最近ふと思う。

 「先生、緑の具合はどうですか?」私は緑の担当医に病状を聞きに行くことにした、あいつの父は一緒に暮らしているくせに緑を、病気の緑を捨て置いている。だから私が緑の支えになってやらないと、そう決意している。

 「お兄ちゃんありがとう。ずっと助けてくれてありがとう。」

 「何だよ、そんなの口にしなくたって、私はお前の兄なんだから、助けてやるのは当然で妹のお前はただ助けられてればいいんだ。」

 この会話は、私と緑の純粋な愛のやり取りなのだと思う。愛とはきっと与えるだけで満たされるのだ。いくら自分が傷つこうが、いくら私の愛が異性としてであっても、緑の愛は兄弟としてであっても、揺るがない、揺るがせない。

 「緑さんはね、もう普通の生活は送れないかもしれない。」

 担当医の米田先生は告げる。だから私は、「どうしてですか?そんなに具合が悪いのですか?私はあいつに何をしてあげられるのですか…。」弱々しい口調になりながら思いを先生にぶちまけてしまう。

 「うん、今までは何とか呼吸をしながら立っている、そんな極限の状況で緑さんは生きていたんだよ。誰にも知られたくないからって、強い薬を服用して耐えていたんだ。」米田先生の言う言葉は力強くて、私はただ圧倒される。

 緑は今まで普通のふりをしていたっていうことなのか?

 私は緑にそれをさせてしまっていたということなのか?

 このことに気付くと、もう感情は止められなくてただ涙が流れるのだが、これは悔し涙なのか悲しい涙なのか一体何なのか、分からない。

 海岸沿いは風が冷たくて、でもなぜか心地いい。これは潮のにおいのせいなのか、私の五感はいつもより数段緊張から逃れている。そして、隣いるのはもちろん…

 「緑。緑。」私は小さく呟くように声を吐き出す。

 「何よ。」緑はそう言うのだが、その声は弱々しく、だがあえてそうしている風ではなく体が弱っているせいなのだろう、緑の全身は小刻みに震えていた。

 だから、「ほら、着ろ。これあったかいんだぜ。」そう言って私の羽織っていた上着を緑にかけてやる。普段の緑だったらやめてよお兄ちゃん、なんて言ってそのこっ恥ずかしさから逃れるようにのけぞるのだが、やっぱり本当に体が弱っているのだろう。

 「ありがとう。」そう口にするだけだった。

 こんなに純粋で、こんなに無垢でこんなにいじらしいこの少女に、まだたったの幼い少女なのに、なぜこんな課題を背負わされているのか、それは常に頭の中に浮かび続ける疑問であって、解消されたい願いであって、苦しい思いなのだ。

 ふと昼休みの図書室で小説でも読もうかと本を探していると、図書委員を務めている三和から声を掛けられた。「久しぶり。」そう言って手招きしながら私を奥の部屋へと招いた。

 私は嫌に心地の悪いさまを感じながらその部屋へと足を踏み入れる。

 「なあ、何の用だよ。正直言ってお前とはもう絶交したはずだぜ。」そう三和へ言ったのに、「用があるんだ。手短に済ますから、来てくれ。」三和は何か焦ったような声音で私に語りかける。

 三和彰隆は私の幼馴染だ。

 こいつは何というか、変わったやつなんだ。いつも本当のこととは真逆のことばかりを呟いて周りを混乱させる。子供のころはそう言う特性を持った子が隠さず自らをあらわにするなんて言うことが、結構よく目につく話だとは思うのだが、私の中ではこいつが正しく該当していた。

 真実とは明らかに違うことを口にするものだから周囲からは浮き誰からも相手にされていなかった。だけど私は誰かを極端に嫌うという感情がなく何気なく孤立していた三和に声をかけた。これは多分興味本位に近い感情なのだと思う。

 きっと何もややこしいことなど起こらないだろうという優しい確信を生ぬるく抱いていたのだから。

 「三和、一緒に遊ぼうぜ。今暇なんだよ。キャッチボールでもしてくれないか。」

 「………。」

 三和は何も言わずじっと私の足を見つめていた。そして、

 「君、何で僕に話しかけるんだよ。もう人となんか関わりたくないんだ。」この幼い年齢にそぐわない人生を達観したような私を拒絶する、私の誘いを拒絶する否定の言葉に少しカチンときてしまい、言ってしまったのだ。

 「お前、いいから行こうぜ。キャッチボールくらいやったっていいだろ。」

 私は三和の腕を掴み無理矢理校庭へと引き連れる。

 三和はダラダラとボールを投げてくるのだが、私は特に気にしない。一応キャッチボールの体裁は整っているし、誰かに対して特に不満を持つということが昔から少なかったから、三和の態度にあまり違和を覚えなかった。

 事件というか、出来事が起きたのはしばらくしたある日の体育の時間だった。

 私と三和は結構仲良くなっていた。三和は嘘をつくという特性を持っているからそれは変えられなくてどうしようもないのだと思っていたけれど、あいつは私の前では嘘などつかずずっと真摯な態度だった。友達としてただ楽しい奴だったのだ。

 「なあ、何で僕に話しかけてきたんだ?だって、僕と話していると目立つだろう?」三和がそういうから、「何言ってんだよ。私は別に誰かの目なんか気にしていない。ただ楽しくて満足できればいいんだ、私にとってはお前と遊ぶのはそういうことなんだからな。」とちょっとカッコつけたセリフを吐き出す。

 私たちはそうやって少し普通の友達とは違うクサいことも言い合えるような関係を築いていた。きっとこれを親友と呼ぶのだろうとうっすら思う。

 そして三和は分かっていたのだ、自分が嘘をついて周りから遠ざけられていることを、そしてそれを分かりながらなぜかあいつは嘘をつき続ける。

 多分、きっと何か理由があるのだろう。なんとなくそういう風に察していたんだ。

 その理由は明快だった。

 ただの興味本位。人を試しているのだという。

 「僕はみんなの行動を理解したいんだ。何でそんなことをするのか、何でそんな行動をとるのか、ただ知りたい。」そう真摯というか混じりけのない目で私を見つめながら諭すように言う。私は正直到底こんな幼い年齢でなぜそのような欲求が沸き上がってきたのかということに疑問を抱いたが、三和の少し興奮した様子に口から声が上手く出せなかった。多分、この興奮を持った不可解に恐怖を抱いていたのだと思う。

 「三和君!来なさい。」強い口調で校長に名前を呼ばれすごすごと委縮した様子で私の元を離れ校長室へと向かう三和は、ちらりと私の方を見ていた。

 三和は体育の授業で生徒たちに嘘の情報を伝えてけがをさせるという事故を起こした。いや、これは故意なのだから事件である。校長も先生もみんなが動揺していて生徒たちは慄いていた。得体の知れないものに対する恐怖に。

 私が知るところによると、三和はそのまま保健室登校ということになったらしい。生徒の親が三和との接触を避けるように談判し、だが三和は転校できるような状況じゃなく幸い生徒たちのけがも軽度で済んだため、この形の収まったらしい。

 三和との接触は生徒全員に対して禁じられるようになった。

 もちろん、私も。

 「絶交って、僕たちははっきりと何かを取り交わしたわけじゃない。自然発生的に親交が途絶えただけだろ?」

 三和はそう言い切って私の方を睨む。私は全くなぜこいつが自分を睨んでいるのかに見当がつかないから動揺する。

 「僕らはあれから大きくなって、また同じ学校に通っている。じゃあまた友情を育んでもいいんじゃないか?」そう強気な口調で三和は畳みかけるのだが、「待ってくれ。何故私に今更声をかけるんだ?」私にとっては当然の疑問であり解消させねばならないことなのだからつい口荒く返答してしまう。

 そうしたら三和は少し口元を緩ませて言い放つ。

 「僕たちじゃない、緑小雪のことだ。」

 私は驚く。想像もしていなかった、なぜこの三和彰隆の口より私の最愛の人の名前が出るのか、非常に非常にぐにゃりとしたような心地だ。

 緑が好意を抱いているのは知っていた。三和は割と雰囲気のある男で学校の中ではこっそりとひっそりと人気があった。

 だが私は知っているのだ。三和がとても不可思議な男で腹の内が読めないということを、幼い頃よりその変わった様子を抱いていたことも、全て。

 だから緑には、緑には黙っていたんだ。

 緑には自分の好意を寄せている人物が信用ならない男だと悟らせまいと。だって、緑の余命はあと幾ばくなのかも不明で、とても脆いともしびなのだから。

 三和にはせめてただ三和のままでいて、緑の生きる希望にでもなってくれればと私は思っていた。

 なのに。

 なぜだろう。

 なぜ、一体なぜ緑小雪は救われなかったのだろう。

 「三和君、アタシ死ぬの?」

 「……緑は死なない。絶対に死なせない。」

 三和彰隆はどうやらすでに緑小雪とは恋仲だったらしい。

 恋仲だったからこそ私には少しばかり情報を漏らしつつしかし確実に核心は明らかにならない様に、工夫を重ねていた。いや自然に無意識的にそうしていたのだろう。

 緑は涙を流していた。わたしはそれを拭ってあげたいのだけれど、できない。してはいけない、したら私は崩れてしまう。

 だからしてあげるのだ。

 私は崩れ落ちてしまっても、緑が救われるのならそれでいい。

 「お兄ちゃん、ごめんね。ありがとう。」

 泣きながら呟くそのセリフは私の心を完全に砕いたのだった。

 「彰隆!」

 強い口調でののしるように威圧をかけるのは三和彰隆の母親である。彼女は学校の間でも有名だった、悪い意味で。子供にでもわかるほどおかしな女で、だが自分がおかしいということに気付けないのだ。明らかにおかしいのだから、知らぬ間に刑務所へと連行されてしまった。

 「………。」

 その事実をニュースで知った私は一人うつむき加減の深い親友、三和彰隆の様子を眺めていた。とてもじゃないがなんて言葉をかけてやれば、あいつは救われるのか見当もつかなかった。

 だってそうじゃないか、母親がいなくなってしまったのだから。

 特に私は複雑な家庭で育ったのだから親に対する意識、自意識が少し強く、三和の置かれている状況に感情移入をしてしまった。

 「………。」私は何も言葉を発することはできずただ三和の隣にいることに決めた。そしてしかめた表情を曇らせながら顔中は憔悴し、もう湿り気の一滴も残っていなかった。

 まともじゃない。まともじゃなかったのだ。たぶん誰も彼もみんな。そうやって何かを責め続けて結局実態が無いのだから虚しくなり帰結する。

 結末が虚しかっただなんて、いやに空虚で心もとない。その心もとなさを抱えたまま生きていくのは難しいのだから、私は三和も緑も救えなかった。なぜか私の周りには救わねばならない大事な人が数多くいて、助けてあげたいのだけれどもそれは切実で苦しくてもどかしいものなのだけれど、できない。

 できないから、

 「南波義人なんばよしと。」

 これは私の名前だ。ずっと呼ばれていなかった名字と名前。私は誰かからその存在を象徴する所属名でしかずっと表されてこなかった。だってそれが私だったから、じゃあ一体どいつが私の名を呼ぶというのだろう。振り返ってみるとそこにいたのは、母だった。

 「お母さん。」私は少し泣きそうな心地になる。

 死んでしまった母だ。私の物心がつく前にいなくなってしまったのだから写真でしか見た記憶のない実の母親。美しい人だと感じる。

 「君は、南波義人っていう名前なんだよ。」女性はそう告げ心地よい微笑を浮かべている。

 私は、「そうだね。」と言いうなずく。

 知っていた。本名は南波義人だということも、それは伏せられた真実だということも今の名前はかりそめだということも、全部。

 だから私は名前を名乗らないのだ。そして誰にも名乗らせたくない。私はただ、私でありたいのだから。

 気が付くと現実に戻っていて、ああさっきまでのうつつは幻で今本当の場所に帰ってきたのだと実感する。できれば戻りたくはなかった、私をこの苦しい現実ではなく夢の世界に閉じ込めておいてほしかったんだ。

 戦争は終わった。

 世界は、一つになった。

 だが、私たちはバラバラになり、緑は深い眠りの中へと落ちて行った。どうすれば救い出せるのか見当もつかず、だから私はただこの不安定な世界の中でもがかねばならず、それは非常に困難だったのだが私には緑がいるから、あいつのためにと思うと全く苦しみがなくなりむしろ浸っていると言ってもいいだろう。

 こんなドロッとした感情を抱けるのはこの世界で緑だけなのだし、それが私にとってはただ単に妹だったというだけだ。

 「なあ。」

 少しやせた三和がこちらを向く。だから「何だよ。」と軽口で返す。三和はもうずいぶん長いこと引きこもっていた。緑の病室に。こいつと緑の間には私のうかがい知れない絶対的な愛情が存在していたようで、介入する隙などなかったみたいだ。

 「緑、何で目覚めないんだろう。」分かり切ったことをだが口に出さずにはいられないのだろう、三和は呟く。私は「そりゃ病気が進行しているからだろう。生きているだけでも驚くくらいらしいからな。」と返す。

 「……希望が欲しいんだ。与えてくれるなら何でもいいから。」口に出したのは三和だが、もちろん私は同意を超越して切実というひと単語で言い切りたい。そのくらい、望んでいる、希望を。

 ――――――

 ここはどこだろう。

 ずっと泳いでいたみたいだ。泳げるのならどこまでも泳いでいたい。私はそれが望みなのだから。生きるということは果てしないようで意外と短く儚いものである。

 だからきっとここは死んだ後の世界なのだろう。ふわふわとした浮遊感にまとわりつかれながらどこかへ進んでいく、現実感のない様子。

 体が弱かった。

 昔から幼いころから持病を抱えていて、私は常にまともじゃない。

 いくら取り繕っていたって、何だかほかの人とは歯車がかみ合わないのだ。だんだんと軋んできて歪みもひどくなりうまく合わせられない。私はこんなにかきむしっているのに、なぜ?

 気付いたら心はズタボロだったし、体は壊れていた。

 もう崩壊しそうなほど苦しかった時に、出会った。

 彼は、三和彰隆という。

 こんなことを考え巡らしているということは、私はきっともう死ぬ直前か死んだ後なのだと実感する。これはきっと、走馬灯なのだ。死にまつわる時に見るという夢。

 三和君は繊細でもろい、今にもこぼれそうな程苦しそうだった。

 私は自分以上に苦しんでいる人というのは見た事がなかったから、驚いた。体中の全てが三和君に共感して守ってあげようと強く思った。

 そしてこの思いに呼応したのか三和君も同じことを思ったらしく、私たちはお互いに思いを共有した。

 世界はもう、私たち二人で十分なような心地を初めて経験したみたいだった。

 三和君は、三和彰隆君は、死にかけていた。

 家族というものを所有していないから、どうしても他の人間と齟齬そごがあって自分を内にため込んでいた。ためるしかなかったのだ、だって吐き出すところなど存在しないのだから。

 「彰隆!」

 女の声が叫ぶ。私たちは二人で海岸に座っていたから、何だろう?よく聞き取れないけれど三和君を呼んでいるような声がする、と二人でささやき合っていた。二人の間にはささやくような声しか流れず、私たちはそれでよかったし十分だったのだ。

 「ねえ、彰隆なんでしょ?」また女の声は言い、告げる。

 「私、お母さん。分かるわよね?」そう言いながら顔中に不安を貼り付けた歪な女が私たちにすり寄ってくる。だからとっさに三和君の顔を見てしまったのだけれど、私は少し怖くなってしまったみたいだった。だって三和君の顔には何もなかったから。人形のように表情を動かさず、感情というものを消し去ってしまったみたいで。だが私には理解できた。もう私たちは疎通しているから、三和君が苦しい、耐えられないほど苦しく悲しいということが言わずとも伝わってくるのだ。

 この世は本当に地獄なのだな、と薄ぼんやりと私は思う。

 右へ行っても左へ行っても何かが迫ってきて落ち着く場所などない。だっていつも苦しかったはずの私たちばかり、こんな闇とか暗がりの中をさまよっているのだから。一体誰がこんな場所に閉じ込めたのだろうかと叫びだしたくなる、そんな感覚を抱き私の夢はどんどん終わりに近づいているようだ。

 何か望みを思い浮かべようとしたが、もう真っ暗の中にいるのだからそれでいいような気もしてきて私はただ浮かんでいるような沈んでいるような、不思議な感覚を覚えていた。

 「……!」

 何かの声がする様だ。何だろう?私なんかに何があるっていうんだろう?そんな疑問を抱きながらふらふらとしているようだった。

 「緑!」

 ああ、私は気付く。そして泣きそうな強い感情を思い起こす。

 兄だ。世界で唯一私の絶対的な味方でいてくれる人。

 だけどもう私は目覚めることはできないのだと悟っているし、それを願う兄の心情にはこたえられないから少しもどかしい。目覚めて兄を安心させてあげたいのに、私はもう起き上がりたくはないという悲嘆に満ちている。

 だからせめて、こうすることにしようか。

 「………。」

 うっすら目を開けた緑を見つめながら私はとても不安に駆られている。だって緑の目はうつろだったから。自分はもう空っぽだと主張しているような空白を示していた。

 そしてしばらくして緑は、眠ってしまった。

 だがその前に緑の頬を涙が伝う様を目にした。私には非常に美しくてこの世の中で一番尊く輝いているように感じられた。

 「幸せになりたい。」

 これはきっと誰しもが抱いている感情であって生きる上ではとても大切なものなのだと思う。きっとなかったらひどく心地の悪い世界になっていただろう。だから私たちは貪欲にそれを求め続けなくてはいけないのだが、世界は定義があいまいで幸せも勝手に変化してしまうのだから難しい。

 どうすれば、一体何をすれば私たちは幸福を手にできるのだろうか。

 私は、私は兄として緑には幸福を掴んで欲しい。この偏見と不条理に満ちた世界の中でも私にとっては唯一の宝物なのだから。傍にいるだけで何かしてあげるだけで、私は幸福を容易に手にすることができる、そんな存在。

 緑。緑。緑!

 何故?なぜ緑はいつまでたっても不幸のままなのだろうか、誰でもいいのだから教えて欲しい、私に。

 そのはずなのに、「お兄ちゃん。」という声が聞こえた。

 この何もない海の側でさまよっている私に誰が、誰が呼び掛けているのだろう?

 振り向くとそこに立って涙を流しているのは、緑だった。

 「緑。」

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