第33話 トラウマのせいでの回
「もうすぐ一年生という時期に俺はアパートから今の家に引っ越すことになって。小学校の校区も変わるから、ヒカルにはもう会えなくなるって伝えたんだ」
ああ、そうだった。いつもみたいに保育園の裏庭で遊んでたら、賢太郎が急にそんな事を言ってきて。その事が悲しくて、何故か無性に腹が立って怒鳴ったんだ。
――「バカ!
「そしたら怒ったヒカルが泣きながら保育園の垣根の間から外に飛び出して、裏山の方まで走って行っちゃってさ」
保育園の裏庭にある垣根には子どもが通れるくらいの隙間があって、それまでそこから外に出た事は無かったけれどその日は迷わず飛び出した。
「ヒカルはヒラヒラのスカートでポテポテ走ってるからすぐに追いついたけど」
「どうせ俺はその時から運動音痴で走るのも遅かったよ」
その時の様子を思い出しているんだろう。賢太郎は懐かしむような顔をしながらも、可笑しいのを懸命に我慢するように話した。
不思議だけれどあれほど記憶を取り戻そうとした時に起こっていた酷い頭痛は、全てを受け入れる覚悟をしたからかもう全く感じない。
「裏山を登って行くヒカルを追いかけていた俺は、どうやって声を掛けようかと思いながらとにかく後からついて行った。それで、俺が後をつけている事に気付いたヒカルは走って逃げようとして……」
賢太郎の話を真剣に聞いているうちに、突然胸の傷痕がズキズキと痛んだ。思わず胸に手をやって痛みに顔を顰めると、目の前にあの日の景色が流れ込んできた。
――ついてくるな!
そう叫んで後ろを振り向きながら走り続けた俺は、いつの間にか自分が斜面側に向かっていた事に気付かなかった。ハッとした時には左足が登山道から外れて宙を蹴り、そのまま斜面を勢いよく転がり落ちた。途中で出っぱった石か倒木かに思い切り胸を打ち付け、最後は山肌に生えた木にぶつかって止まるまで体中を打撲した。
「俺が急いで上から覗いたら、ヒカルは胸と頭から血を流してピクリとも動かないから怖くなって。大人を呼ぼうと走って保育園に戻る途中で、山歩きをしていたおじさんを見つけて救急車を呼んだ」
(ああ、そうだ。それで保健室の飾り気がないクリーム色のベッドにどこか見覚えがあったのか)
檻みたいな高い柵のベッドの中で、母さんがお見舞いに来てくれた賢太郎と賢太郎のお母さんに向かって「あなたのせいよ! もう二度とヒカルに会わないで!」とか他にもたくさん酷い事を言って病室から押し出すようにして追い返したんだ。
――母さん! 何であんな事したの? ひどいよ! 母さんなんて大嫌いだ!
頭が痛くて胸も痛い。真っ白な空間で、小さな身体は包帯でぐるぐる巻きにされてた。今より細くて小さな腕にはチューブが繋がれて、高い柵のベッドの中から母さんに向かって叫んだ。母さんは柵の向こうから俺の方を見ている。その時確かにその目からは涙が零れ落ちていて、大人が泣くところを初めて見た。
――ごめんね、光。
そう言って肩を震わせる母さんを見た俺は、初めて大人を泣かせてしまったという罪悪感と衝撃を覚えた。だけどそれと同時に母さんが賢太郎と賢太郎のお母さんに物凄く怒って追い返した事がショックで。取り乱した母さんの姿が恐ろしく見えたし、もう二度と大好きな賢太郎とは会えないんだと思って涙が止まらなくて。
「それでいつの間にか寝てしまった俺は、目が覚めた時には賢太郎の存在をすっかり記憶から無くしてしまってたんだ。最低だよな……」
大好きなのに、もう二度と会えないくらいなら忘れた方がいいと思ったのか。それとも鬼のような形相で幼い賢太郎を責め立てる母さんがあんまり恐ろしかったのか。理由は分からないけれど、俺の中から『カイルとシャルロッテごっこをしていた仲良しの佐々木賢太郎』は居なくなった。
「ヒカルは頭も打ってたし、怪我の衝撃もあったんだろう。結局俺もヒカルが入院している間に引っ越したし。中学に上がって再会したダイからヒカルの様子を聞くまでに何度も会いに行こうとしたけど、拒絶されると思ったら怖くて」
賢太郎は全く悪くないのに、寂しいからって勝手に怒って勝手に怪我して。挙句にあの母さんの鬼のような顔を思い出せば、身内でさえ怖かったのだから賢太郎のショックも大概だっただろう。
「ごめんな、賢太郎。あの時本当は離れるのが寂しかっただけなんだ」
「いや、実は俺も『引っ越しはするけど、大人になったら迎えに行くよ』って言おうと思ってたんだよ」
「プロポーズかよぉ……。さすが賢太郎は大人びてんなぁ……」
照れ隠しで茶化すと、賢太郎は優しく口元を緩める。だけどその眼差しがあんまり穏やかで愛情溢れるものだったので、何だか泣きたくなった。
あの時賢太郎が約束を破るつもりなんか無くて、ちゃんと大人になったら迎えに来てくれるつもりだったって分かったから。
「そりゃあな、約束したからちゃんと守るつもりだったよ。記憶を無くしたヒカルは、俺のことだけずっと好きだった訳じゃ無いんだろうけどな」
「う……」
「なんだよ、図星か?」
まずい。まさか記憶が無い間に、優しい病院の看護師さんとか学校の先生とかに恋してたなんて言えない。
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